4.予期せぬ来訪者
隊服の上から外套を羽織った格好で、夜闇と明かりの境界線に立っているのは、うちのルーゼン副隊長だった。ランプの小さな灯の下でさえ、その容姿は華やかだ。ここに女性客がいたら黄色い声が上がっていたことだろう。
だけど、副隊長は今日は、殿下の護衛任務についているはずだ。飲み会は欠席のはずだった。それがどうしてここに? と、俺が繰り返し尋ねるより早く、副隊長の背後に数人の姿が見えた。全員、今日は仕事で欠席のはずの同僚たちだ。
思わず眉をひそめた俺の前で、副隊長がひどく気まずそうに眼をそらした。
そのときだ。
副隊長の背後から、小柄な人影がひょっこりとのぞいた。
ガタッと、誰かが椅子を蹴って立ち上がった音がする。
だが、俺としても、そちらを振り返るどころじゃない。おい、まさか。副隊長たちがここにいるのは。
小柄な人物は、顔の半分まで隠すように、フードを目深く被っていた。その全身も、足元まで外套に覆われている。似たような服装の隊員たちに囲まれていることもあり、一見したところは、近衛隊の一員のようにしか見えないだろう。そう、何も知らない人間ならば。
しかし、俺は、大きく顔をひきつらせた。
こんな背格好の奴は、近衛隊にはいない。背の低いコリンですら、これほど華奢ではない。いくらゆったりとした外套で身を包んでいようとも、その細さは隠しきれない。性別がちがうのだから。
「こんばんは。初めまして」
間違いなく空色をしているだろう瞳を、フードの下に隠したまま、軽やかな声が告げる。おそらくは精一杯の低い声を出しているつもりなのだろうが、俺は近衛隊だ。その声が誰のものなのか、わからないはずがない。こんなあからさまな事実を、見落とせというほうが無理がある。あぁくそ、どうりで副隊長が死にそうな顔をしているわけだ。
「わた ─── ぼくは、従者のアルベルトです。今日から近衛隊に配属になりました。よろしくお願いしますね」
俺は、内心で大きく叫んだ。
─── いや、無理があるでしょうが!! なんスか、その不敬と不敬を掛け合わせたような偽名は!? あなたにしか名乗れないでしょ、それは!!
コリンが、かすれた声を漏らしかけて、必死で飲み込んだ気配がする。当然、こいつも気づいているのだろう。
だが、なんということだろう。酒精に呑まれて、わかっていない中年男が、一人だけいた。
「え~、いつから従者制度なんてできたんだい? おじさん初耳だよぉ。可愛いねえ、坊や。歳はいくつかな? こんな夜遅くに出歩いちゃいけないよ」
へらへらと笑いながら、ヘイリーが、その小柄な人へ手を伸ばす。
そこに悪気はなかった。酔ってはいるが、何かしようとしたわけじゃない。せいぜい、子供の頭をぽんと撫でて、早く帰るように促そうとしただけだろう。その点は、俺も友人として保証する。
だけど、ヘイリーが手を伸ばした瞬間、副隊長は庇うように前に出た。
そして同時に、背後から伸びてきた手が、ヘイリーの腕をがっしり掴む。
「触るな」
響いた声は、真冬の夜よりも冷たく、振り下ろされる刃よりも鋭かった。
隊長だ。いつの間にか、俺たちのすぐ傍に立っていた。
─── いつの間にか? いいや、とうにだろう。隊長が怪訝な顔で探っていた気配は、最初からただ一人のものだったのだ。
ヘイリーが、悲鳴も上げられずに、へなへなと腰を抜かして、床に尻もちをつく。
俺とコリンは、パッと目を合わせて、両側からヘイリーの腕を持つと、勢いよく自分たちのテーブルまで引きずっていった。
「痛い痛い痛いっ、尻がこすれて燃える!! 俺の尻が燃えちゃうよ!!」
「燃えちまえ馬鹿ヘイリー! あの至近距離でなんで気づかねえんだよ、あんたは!!」
「だから飲みすぎなんですよ二人とも! 挨拶に行く前に飲むなんて非常識な真似をするから!!」
俺は関係ないだろと叫びかけたが、店内に漂う緊迫した空気の前に、口をつぐんだ。
俺たち三人は嵐の中心から逃れたが、雷鳴が轟かんばかりの暗雲は、依然としてそこに立ちこめていた。
自称・従者の斜め前には、庇おうとした副隊長が立ち、その二人の正面には、隊長が立っている。
隊長は、小柄な人物を射抜くような鋭さで見下ろして、恐ろしく低い声で尋ねた。
「その程度の護衛で王宮を抜け出すとは、何をお考えですか」
気の弱い奴なら失神しそうなほどの怒気を孕んだ声だった。
小柄な人物の表情は、俺たちの角度からは見えない。
けれど、その気配で、かすかに微笑んだのがわかった。
「ぼくは従者のアルベルトですよ。近衛隊の飲み会に参加するために来たのです」
隊長の纏う空気が、いっそうどす黒くなった。息苦しさを感じるほどの威圧感が、店内を支配する。
けれど、自称・従者は、軽い足取りで隊長の横を通り過ぎて、店の中へと進んだ。
そして、くだんの丸テーブルに気づいて、おやという風に首を傾げる。
丸テーブルの面々は、すでに全員が椅子から立ち上がっていた。
そして、フード越しの視線がそちらを向いた途端に、岩のようなオーガス副隊長が、真っ先に片膝を折った。
「殿下」
その一言を皮切りに、店内の隊員たちが一斉に片膝をつく。酒を運んでいた店員さんたちもまた、わけがわからないといった様子であたふたしながらも、見よう見まねで膝を折った。俺たち三人も同様だ。
隊長もまた、煮えたぎった怒りの気配を漂わせながらも、その場に片膝をつく。
今、この場で立っている人間はただ一人。
この国の至高なる王の右腕。
陛下の唯一の妹君。
そして俺たちが守るべき主である姫 ─── アメリア殿下。
殿下は、少し困ったような吐息を吐き出して、やはり軽い足取りのまま、総隊長の前に立った。
そして、無造作にしゃがみ込む。
総隊長がぎょっとしたのがわかった。
総隊長だけじゃない。騎士団長や、オーガス副隊長の気配も困惑に揺れている。
けれど、殿下は、それらに見向きすることなく、総隊長にだけ告げた。
「ぼくは従者のアルベルトですよ。総隊長ならご存じでしょう?」
「 ─── っ、それは、いえ、しかし……」
「かしこまらないでください。実はぼくは王妹殿下の遣いできたのです。殿下もおっしゃっていましたよ。『心配はいりません、総隊長は話のわかる方ですから』と」
ふふっと、鈴の音のような微笑みが響く。
その軽やかな音は、実質的には悪魔じみた誘いだ。この場における共犯者になることを、殿下は総隊長に求めていた。
総隊長が苦悩する気配が、こちらにまで伝わってきたが、長くは続かなかった。
近衛隊という魔窟の頂点に立つ総隊長は、忠誠心厚い騎士団長とは計算高さと割り切りの速さがちがう。長いものには巻かれる髭なのだ。
総隊長はスッと立ち上がり、それから恭しく殿下へ手を差し伸べた。
「殿下の遣いということであれば、私が口を挟むことではございませんな」
「従者のアルベルトですよ」
「あー……、ゴホン、そうですな、そういえば、最近、そのような者が、いたような、いないような。あぁ申し訳ない。飲みすぎてしまって、記憶があいまいなようです」
「なんと。それでしたら仕方がありませんね」
わざとらしい芝居とともに、殿下も総隊長の手を取って立ち上がる。
総隊長が、店内をぐるりと見まわした。その視線が意味するところは明らかだったので、俺たちも、そろりそろりと身体を起こした。
戸惑いはあったが、それでもまだ、殿下付きの俺たちはマシなほうだったろう。
なんといっても、殿下が突拍子もないことをなさる方だということは重々承知している。慣れたといえるほどの境地には達していないが、経験上知っている。
普通の姫君は ─── いや、姫君じゃなくても、王子殿下だろうと ─── 人質救出を成し遂げた後に、暗殺者集団の本拠地を叩きましょうなんていい出さないのだ。
だが、騎士団長とオーガス副隊長、それに総隊の連中は、揃って青ざめた顔をしていた。いったいなぜここに殿下が来たのか、何の用件なのか、自分たちはどうしたらいいのか。そんな不安と動揺が漂っている。
殿下は、フードを目深に被ったまま、店の中央に進んだ。
そして、その唇が、柔らかく微笑んだ。
「突然訪ねてきてしまってすみません。今夜は、わたしとバーナードの婚約を祝う会だと聞いていたので、どうしても礼を伝えたくて、チェスターに無理をいいました。皆、いつも、わたしを支えてくれてありがとう。そして、バーナードを助けてくれてありがとうございます。これは、王妹としてであり、同時に、バーナードの未来の妻としての言葉です。皆に感謝を。我が国が誇る近衛隊に、永久の栄光があらんことを」
殿下は、そこで一度言葉を区切ると、今度は悪戯っぽく微笑んだ。
「 ─── というのが、王妹殿下からのお言葉です。それから、軍資金も預かっています」
そこで副隊長が動いた。殿下の傍へ行き、外套の内側から、丸く膨らんだ革袋を取り出して掲げてみせる。
殿下は、楽しげに笑っていった。
「今夜の支払いはわたしが持ちましょう。皆、大いに楽しんでください。 ─── とのことですよ」
わっと、途端に歓声が上がった。
殿下の御言葉に感じ入っていた空気は、どこへやら。
店内には、瞬く間に熱気が満ちる。好きに飲み食いしてよいという殿下からのお許しだ。麦酒のお代わりを頼む声や、つまみの追加注文が飛び交う。
現金なものだといわれそうだが、これは殿下の意向に沿っているつもりでもあるのだ。
『ここにいるのは従者のアルベルト。皆は気にせず楽しんでください』
殿下がそうおっしゃるからには、存分に酒を飲むのが忠実な臣下というものだろう。決して、タダ酒だぜやったー!!メシも食い放題!! と思っているわけじゃない。本当にそういうのじゃないから。
総隊の連中は未だにぎこちない様子で、周りの空気を窺っていたが、殿下付きの俺たちは早々に飲み会へ意識を戻した。この辺はやはり経験の違いだろう。
とはいえ、完全に意識せずにいられるものでもないので、ちらっとさりげなく中央へ眼をやる。
隊長は、どす黒い怒りを纏ったまま、殿下に何か話していた。
その横では、オーガス副隊長と、うちの副隊長が、冷たい火花を散らしている。
俺は、フッとニヒルに微笑んで、メニューに視線を戻した。見なかったことにしよう。俺は何も見ませんでした。
世の中、知らないほうがいいことはたくさんあるのだ。
次からはアメリア視点になります。