3.挨拶に行こう
「あー、あれはな、総隊長が悪いんだよ。最初から強い酒ばっか飲ませて、潰しにかかったらしいぜ。自分が隊長に関わりたくないから、騎士団長をぶつけたかったんだろ」
「うちの総隊長より断然評判いいよね、あっちの団長さんは。騎士団の飲み会だと、酔いつぶれた連中の面倒も見てあげてるらしいよ」
俺の知る限り、騎士団長だって、普段はうちの狂犬隊長とはなるべく関わらないようにしているのだ。というか、呪いの魔剣と評判の男に自分から近づきたがるような人間は、王宮中探してもそういないだろう。
隊長はルックスだけはいい男だから、殿下との婚約前は、ちらちらと視線を向ける女性もいなかったわけじゃない。でも、血生臭い噂しかない男なんて、自分から声をかけたいものではないんだろう。あの長身に鋭い眼光、そこに立っているだけで威圧するようなオーラを漂わせているとなればなおさらだ。いくら顔がよくても、女性たちにとってはあくまで観賞用といったところだ。その辺、殿下との婚約の噂があった時代から『結婚したい独身貴族№1』といわれていた副隊長とは、一線を画している。
まあ、近づいてくる人間といったら、狂犬隊長の逸話を大袈裟な噂だと決めてかかり、隊長を利用できると思い込んでいるような愉快なオッサンならときどき見かける。ああいう連中は、みんな、噂より実物のほうが遥かに化け物だということをわかってないのだ。
その点、隊長の実力をわかっている総隊長としては近づきたくなかったのだろうし、同時に『殿下の婚約者』である以上、婚約祝いの集まりには顔を出しておきたかったのだろう。その反発する二つの願いを叶えるために、自分の盾として、騎士団長とオーガス副隊長を引っ張ってきたのだ。
だけど、オーガス副隊長はともかく、騎士団長は狂犬隊長の隣を嫌がったんだろう。それで、騎士団長の抗議を潰すために強い酒ばかり飲ませた。さすがは腹黒髭だ。やり口が汚い。
ただ、総隊長にも誤算はあったんだろうな。
「あの髭も、酔った騎士団長が説教始めるとは思ってなかったんだろうなあ」
俺がぼやくようにいえば、ヘイリーも、疲れたような笑みを浮かべて頷いた。
「総隊長って、腹黒いわりに、詰めが甘いところがあるからねえ。どうせ、酔い潰せば狂犬隊長の隣でも文句をいわないだろうとか、その程度の考えだったんでしょうよ」
コリンも呆れ顔で丸テーブルを見やりながらいった。
「酔うと本性が出るといいますけど……。騎士団長は相当、隊長へ不満が溜まっていたんですね」
「せっかく酔ってるのに、出てくる本性がそれって悲しくない? 好きなことをしたいとか思わねーのかね?」
「ずっとしたかったんじゃないの? 狂犬隊長に説教を」
「悲しいお話ですね……」
しみじみといってから、コリンは深いため息を一つ吐くと、グラスから手を離した。
「飲む前に、僕も、挨拶に行ってきます。皆さんはもうお済みでしょうけど、僕はまだですから。なるべくあのテーブルに近づきたくないところではありますけど、せめて隊長と総隊長には挨拶をしておかないとですからね」
俺とヘイリーは、思わず顔を見合わせた。
そして、四個のキラキラとした目玉で、最年少のコリンくんを見つめていった。
「さすがだぜ、コリン。お前がそういってくれるのを待っていた」
「お兄さんたちもご一緒させてもらっていいかな? ぜひ、君の後ろにつかせてほしいんだ!」
「おいヘイリー、あんたの歳でお兄さんは無理があるだろ」
「なにをいうんだいライアン、三十代なんてピチピチのお兄さんだよ。オジサンというのは総隊長や騎士団長のことをいうんだ。俺は若々しいお兄さん。君も俺の歳になったらわかる。三十代なんて儚い心の少年だよ」
「そんな少年は嫌だろ」
俺とヘイリーのくだらない言い争いを、呆気にとられた顔で聞いていたコリンは、ややあってから、ハッとした顔になって俺を見た。
「まさか、まだ挨拶に行ってなかったんですか、ボウフラ先輩!?」
「だって俺、遅れてきたんだもん」
「俺も俺も」
今日の俺は非番だったし、残念ながらデートの約束もなかった。
ここのところ飲み歩いていたこともあり、たまには昼近くまでゆっくり休むかと、どこにも出かけることなく、隊舎の休憩室で同じく非番の連中と酒盛りをしたり、つまみに六紐イカの干物を炙ったり、だらだら食べたり、気持ちよく二度寝、三度寝と繰り返したりしていたら、いつの間にか陽が落ちていたのだ。
目が覚めて、室内が真っ暗になっていることに気づいたときは、無性に切なかった。……という話をコリンにしたら、毛虫を見るような眼で見られた。
お前、俺の心が広くなかったら、法務に訴えてるからな? 侮辱罪とかなんかそういうので。
ヘイリーはすっかり酔いのまわった赤い顔をしながらも「俺は仕事で遅くなったんだよ! 残業してたの!」と主張している。でも、このオッサンだって、店内に入るなり、響き渡る騎士団長の説教とうつむく隊員たちという、異様な空気にびびって、そそくさと俺の隣に座ったのだ。挨拶に行かずに。
ちなみに、店内には、ヘイリー以外にも総隊の人間はそこそこいる。総隊長の誘いに乗ってついてきてしまった連中だろう。
幸運なことに、俺が座っているテーブルは、店の正面扉に一番近い。これは階級順というわけではなく、単純に俺が来るのが遅かったからだ。冬の冷え込む時期は、外気が入りやすい扉近くは空席になっていることも多い。店の奥の暖炉近くが人気の席で、上司やお偉いさんの席ともいえる。一般的には、扉に近い席ほど下っ端だ。
しかし、今回、俺は、忍び込んでくる冷気に文句をつける気にはならなかった。あの丸テーブルから離れてるというだけで最高だ。近くのテーブルになればなるほど、みんな目が虚ろになっている。
俺としては、何度も「急用を思い出したんで!」と正面扉へ走って逃げることを考えたんだが、さすがに上司に挨拶くらいはしておかないとまずいと、天性の聡明さで踏みとどまった。
なんといっても、現在、俺の財布はピンチに陥っているのだ。ゴマすりベルゼンほどとはいかなくても、俺も多少は上司に愛想を振りまいておかないとまずい。ベッツイーちゃんへのプレゼントを買う金がなくなってしまう。
「 ─── というわけで、お前という素晴らしい盾が来てくれるのを待ち望んでいたんだぜ、コリン。お前を先頭にして挨拶に行こう。お前、ヘイリー、俺の順な。特別にお前が代表として喋っていいぞ。俺は後ろで頷いてるから」
「あっ、ずるい、俺も一番後ろがいい!」
「あなた方に恥という概念はないんですか? だいたい、挨拶がまだなのに、どうしてもう酒を飲んでいるんですか……!」
コリンは信じられないと呟いて片手で顔を覆った。酷い濡れ衣である。
「俺はまだ三杯しか飲んでねえよ? 酔ってるのはヘイリーだけだろ」
「だってさぁ、こんな無意味な緊張感が漂ってるんだよ? 飲まないとやってられないじゃないの」
ぐすぐすとヘイリーが泣き真似をする。もはやただの酔っ払いだ。
コリンは深々とため息をつくと、蔑みの視線を俺たちへ向けてから、立ち上がった。なるべく音を立てないように、静かに。俺は思わずニヤニヤと笑った。コリンだって怖いのだ。店内の注目を集めないように、精一杯気配を消して動いている。
俺とヘイリーも、コリンの後に続いた。床を踏む足さばきさえ丁寧に、軋む音なんて立てないように。
店の中央を突っ切るのが最短経路だが、人目を引かないように、正面扉の前から壁伝いへと迂回して……。
そう、壁のほうへと、進もうとしたときだ。
ピリッと、まるで薄紙に亀裂が入った瞬間のように、痛いほど空気が張り詰めた。
何事かと、思わず丸テーブルへ眼をやる。そして俺は声にならない悲鳴を上げた。
いったい何が起きたのか、狂犬隊長が眉間にしわを寄せて、じっとこちらを睨んでいるじゃないか。説教をかましていたはずの騎士団長は、どことなく怯んだ顔をして、戸惑いを露わに、隊長と俺たちを交互に見ている。
俺は、一歩踏み出しかけた姿勢のまま凍り付いた。コリンもヘイリーも、俺の前で固まっている。俺たちは三人そろって、蛇に睨まれた蛙のごとしだった。
そのとき、俺の耳を、低く地面を踏みしめるような響きがかすめた。
続いて、車輪のきしむような音が、正面扉の向こうから聞こえる。
誰か、新たな客が訪れたのだろうか。近衛隊で参加予定の面子は全員揃っているから、一般客だろう。今夜は近衛隊の貸し切りだけど、知らずに来てしまったのかもしれない。夜空に月が輝く時間帯では、乗合馬車は動かないから、個人で馬車を所有している貴族か、あるいはどこぞの金持ちだろうか。
そんなことを、現実逃避のように考えていると、隊長の眉間の皺がますます深くなった。光の加減で夜に近い色をした瞳は、怪訝そうに俺たちを見ている。
─── あ。ちがう。これは。
俺たちじゃない。後ろだ。
正面扉を見ているのだと、気づいたときだ。
背後で、扉がぎいと音を立てて、同時に冷気が吹き込んできた。
思わずパッと振り返ると、扉を開けたのは、いるはずのない人物だった。
俺は、呆気に取られて呟いた。
「副隊長? どうしてここに?」