2.兄の呼び方
俺は、まじまじとライアンを見返した。
「それは、隊長への反乱予告か?」
「んなわけないでしょ」
「ついにお前を近衛隊から永久追放できる日が来たのか。今夜は祝杯だな」
「真面目に聞いてくださいよ。大事な話なんスよ。超重大な問題が発生したんです」
おそらく死ぬほどどうでもいい話だろうと思いながらも、先を促してやる。
ライアンがいうところによると、こうだった。
※
この間の婚約お披露目パーティーの前日に、俺、両親とチイニイの四人で食事したんですよ。パーティーに出席したのは親だけでしたけど、チイニイも王都に来てたんで、一緒に夕食を取ったんです。
※
「待て、話の腰を折って悪いが、チイニイというのはどなたのことだ? 名前の響きからして、西方の国の方か?」
隣国である西の国よりもさらに遠い西方国からは、荷をうずたかく積んだ商いの者や、教本一つ手にした伝道の者がやってくる。
この部下に、そういった人々との関わりがあるとは思えないから、父君の仕事関係の人物だろうか。
俺はそう推測したが、ライアンは怪訝な顔をしていった。
「なにいってんスか、副隊長。チイニイは俺の血のつながった兄貴ですよ?」
「……経歴書によれば、お前の兄君の名前は、ディクソン殿と、パトリック殿だったと記憶しているが、どういう愛称なんだ……?」
「小っちゃいほうの兄貴だから小兄ですよ。わかるでしょ、そのくらい」
俺は、我ながら間抜けな顔をしていたと思う。
そんな呼び方をすることがあるのかという気持ちだったのだ。庶民ならともかく、ライアンも貴族の出だというのに。たしかに父君は一代で成功した実業家で、母君は貧乏男爵家だったと聞いているが。
「その理屈でいくと、長兄のディクソン殿は、大兄なのか……?」
「そっスよ。大兄と小兄です。あ、でも、公式の場ではちゃんと兄上呼びしてますよ? 俺は社交界では、完璧な貴公子だと評判なんですからね」
「そんな評判は一度も聞いたことがないが……。そうか、大兄と小兄か……。お前は、兄君たちと仲が良いんだな」
「えー、そんなことないですよ。大兄も小兄も、仕事で疲れてるんだか知らないですけど、ここ数年、俺に当たりがキツくなって最悪っスよ。昔はもっと、俺のことを、この世に現れた天使だっていって可愛がってくれたのに!」
「兄君たちが教育方針を変えてくれたことに心から感謝しておけ。いささか手遅れ感はあるが」
「てか、副隊長だって兄貴が二人いるでしょ? なんて呼んでるんスか?」
「……レイモンド兄上にセドリック兄上だ」
「ながっ! えっ、公式の場以外でも? 実家でもその呼び方なんスか? 長すぎません?」
「驚くようなことじゃない。貴族の家なら普通だ」
「えぇっ、そんな長い呼び方、普通します? 面倒くさいじゃないですか。いちいち、フルで呼ぶなんて、やってられないですよ。俺なら絶対省略します。レイ兄とかセド兄とか」
俺はかすかにため息をついていった。
「そんな呼び方をしたら、病気を疑われるだろうな」
「うわっ、お堅い……。さすが公爵家、死ぬほどお堅いお家柄なんですねえ」
堅いわけではない。単純に、愛称で呼ぶほど仲が良くないだけだ。
俺はそう思ったが、口には出さなかった。
ルーゼン公爵家は常に仲が良くない。それは、一部では有名な話だ。
しかし、この不真面目で、遊ぶことだけに熱心で、野心も出世欲もない部下は、公爵家の噂など知らないのだろう。興味がないのかもしれない。
ライアンは見境なく女性を口説くが、相手の家柄や持参金目当てに迫ることはない。ボウフラ頭なので、好みの相手なら、身分も確かめずに、誰かれ構わずいい寄るのだ。総隊長がライアンを、このアメリア殿下付きの近衛隊へ飛ばしたのも、それが原因でひと悶着あったからだ。
アメリア殿下なら、俺の兄たちへの呼び方を、長いとはいわないだろう。殿下は俺の一族のことをよく知っている。少し困ったように微笑んで、俺を労わるように見つめるかもしれない。
隊長は、どうだろうか。知ってはいるが、興味はないというところか。もしも兄たちと敵対することがあれば、隊長は、俺の親族だろうと意に介せずに首を飛ばすだろう。まあ、後から、多少気まずそうな顔はするかもしれない。その程度には、長い付き合いだ。
一部では知られた話だ。
ルーゼン家はまとまらない。
常に距離がある。
一族が団結することはない。
なぜなら、志を一つにしたがゆえに全滅することを、最も忌避すべきだと考えるからだ。
─── ルーゼンに祝福あれ。ただ一人となろうとも、我らは不滅なり。
それは、初代当主がいったとされる言葉だ。
一見すると、祈りの言葉のようにも読めるが、実際はそんな美しいものではない。
ただ一人となろうとも不滅 ─── つまり、誰でもいいから生き残れという意味だ。一族の名をつなぐことを至上のものとした命令だ。
骨肉の争いをしても良い。血みどろの謀略を仕掛けても良い。生き残った者がルーゼンをつなげ。その名にこそ守るべき価値がある。
……ルーゼンの一族は、代々、この言葉を守ってきた。だから、先王の時代、我が家の長男であるレイモンド兄上は、王付きの近衛騎士となり、次男であるセドリック兄上は、現国王陛下である王太子殿下の補佐官となり、三男である俺は、王女だったアメリア殿下付きの近衛騎士となった。
三人のうちの誰が死のうと、誰かが生き残って、ルーゼンの名を継げばいい。それが当主をはじめとする一族の考え方だ。
俺はべつに、それを不満に思ったことはなかった。貴族の家に生まれたのだ。そんなものだろうと思っていた。
しかし、部下のボウフラ頭は、兄君たちから大いに可愛がられて育ったらしい。
貧乏男爵家 ─── ライアンの父君が婿入りしてからは持ち直したので、元貧乏男爵家というべきか ─── と、公爵家では、さまざまな面で天と地ほどの差があるとはいえ、同じ貴族の出だ。
貴族でありながら、一家全員仲が良いという事例も、本当に存在するのだなと、俺はしみじみと思った。
アメリア殿下は、国王陛下である兄君とはとても親しいが、それは先王との関係や、あの頃の荒れた国内情勢も影響しているのだろう。あのお二人は、兄妹であると同時に、主君と有能な腹心でもあり、戦友のような間柄でもあるのだ。
俺の家はちがう。
俺の家は、普通に全員仲が良くない。
悪いといえるほど距離が近くもないので、ただひたすらに、仲が良くないのだ。
そのくせ血をつなぐことには熱心なので、父も兄たちも、話しかけてきたと思ったら、俺に縁談を勧めてくる。最悪だ。心の底からうっとおしい。
長男であるレイモンド兄上はすでに結婚していて、二人の子供をもうけているし、次男のセドリック兄上にも近々挙式予定の婚約者がいる。三男の俺の婚期が多少遅れようと、一族に支障はないはずなのだ。
だいたい、俺としてはこの二年間ほど、殿下の御心と隊長の真意を測りかねては、気が気でない思いをしてきたのだし、自分の結婚については、もっとゆっくりと、腰を据えて考えたいところだ。
そう伝えたら、父も兄たちも、そろって、
「そういうことをいっている間に婚期を逃すぞ」
「お前は結婚に夢を見過ぎだ。だから浮気されるんだ」
「今ならより取り見取りなんだぞ。お前の妻になりたいという女性がはいて捨てるほどいるんだ。また変な女に捕まる前に見合いをしろ」
などといってきた。
人の傷口を容赦なく抉ってくるあの兄たちに、兄弟愛など存在しない。
俺は、あの無神経な兄たちが、奥方に愛想をつかされた日には、腹を抱えて笑ってやると決めている。
ひとしきり虚しい気持ちで遠くを見つめてから、俺はライアンへ視線を戻した。
「話を遮って悪かったな。それで、お前が隊長へ反乱を起こしたい理由というのは?」
「俺の首が飛びそうなことをいうの、やめてくれません?」
ライアンは憮然とした表情になりながらも、話を再開した。