7.狂犬騎士と王妹殿下のダンスレッスン
殿下は、乱れてもいない髪を、直すように手をやって、視線をさまよわせた。
それから、意を決したように俺を見ていった。
「あなたの言葉はいつだって、わたしの胸に響いています、バーナード。同じ言葉であることに、何の問題があるでしょう」
殿下は、はにかむように微笑んだ。
「言葉に込められた、あなたの気持ちが嬉しいのです。わたしは、昔からずっと、あなたにそんな風にいってもらえるたびに、密かに胸を躍らせていました。だからどうか、そのことについては謝らないでください」
俺は、殿下の傍へ行った。
恋人としてではない、護衛としての距離を保って立ち止まる。
殿下は少し残念そうな顔をしたが、これは俺の理性のための線引きだ。許してほしい。
「とてもよくお似合いです、殿下。あなたはとても美しい」
「ありがとう、バーナード」
殿下が嬉しそうに微笑む。
俺は、殿下に向かって、さらに一歩踏み込みかけて、渾身の自制で踏みとどまった。
危ない。俺は光に吸い込まれていく蛾か何かか? いくら殿下の微笑みが眩しかろうと、ふらふらと吸い寄せられていってどうする。俺の理性はしっかりしろ。
俺が懸命に耐えていると、殿下は照れたように微笑みながらいった。
「すみません、わたしのことばかり。用事があるのですよね」
俺はそこでようやく、自分が何のために後宮まで来ていたかを思い出して、まず初めに謝った。
「先ほどのリハーサルでは、すみませんでした、殿下。あなたをリードするどころか、足を引っ張るありさまで……」
ああ、と、殿下は納得した顔で、くすくすと笑った。
「あなたにも苦手なことがあったのですね、バーナード」
「面目ない……」
「ふふっ、わたしは嬉しかったですよ。あなたの新しい一面を知ることができましたから」
殿下が悪戯っぽく笑う。
俺は渋い顔をしていった。
「からかわないでください、殿下」
「本心です。ぎこちなく動くあなたを初めて見ましたから。とても可愛かったです」
「この世で俺を可愛いと評するのは、あなたくらいなものですよ……」
俺はげっそりとしながらも、本来の用件を口にした。
「パーティーまで日がありませんから、俺は、早急にダンスの練習を積む必要があると思うんですが」
殿下はなぜか、ぱあっと表情を輝かせた。
「ええ、そうですね! 練習しましょう。たくさんしましょう!」
「ライアン相手に練習しますので、一応、事前に殿下にお話しておこうかと思いまして」
殿下はなぜか、瞬く間に表情を曇らせた。
「近衛隊のライアンですか? どうして、彼と……?」
「あいつは女性パートが踊れるんですよ」
「それだけの理由ですか……!?」
「ええ。チェスターは女性パートは踊れないというので」
「それなら、わたしと練習をしてもいいのではありませんか!?」
「なにをいってるんですか、殿下は駄目ですよ」
「わたしとのダンスなのに!?」
殿下が、世にも理不尽なことを聞かされたかのような顔をする。
俺は、力加減がわからないのだということを、殿下に説明した。万が一にも、あなたに痛い思いをさせるわけにはいかないのだということも、含めて伝えた。
殿下は、難しい顔で聞いていたが、俺の説明を最後まで聞き終えても、やはり納得がいかないという顔をしていった。
「あなたが力加減を間違えるとは思いませんが……、そういう理由なのでしたら、なおのこと、わたしと練習するべきではありませんか?」
「その練習で、強く握りすぎて、殿下に痛みを与えるわけにはいきません」
「多少痛くともわたしは気にしませんし、痛いときはそういいますよ」
「俺は気にしますし、殿下はいつも大丈夫だといい張るでしょう」
「わかりました。今回はきちんと伝えます」
「申し訳ありませんが、ライアンと練習します」
「バーナード」
「駄目です」
俺と殿下は、バチバチと睨み合った。
殿下は冷ややかに微笑まれていたが、俺に譲る気がないと悟ったのだろう。
ふっと視線を落とすと、途端に悲しげな顔をした。
「わたしはずっと、あなたと踊りたかったのに……」
「殿下、見え透いた芝居はおやめください」
「本心です……。けれども、信じてはもらえないのですね……。悲しいわ……」
絶対に演技だ。わかりきっている。
殿下がどれほど切なげに目を落とし、まるで嗚咽を堪えるかのように口元に手を当てたとしても、俺は騙されない。
俺がどれほど長い間、護衛として、傍で殿下を見守ってきたと思っている。
この方は、情に厚く誇り高いが、同時に、交渉事に長けた政治家だ。交渉のテーブルで、悪だくみなど一つもしていないという顔をしてみせても、殿下は胸の内ではきちんと計算している。
つまり、俺に向かって泣き落としじみた真似をするのも、それが俺に対して有効な手段だと判断したからだ。最悪だ。姫様は本当に、ときどき、最悪に厄介だ。
「わたしがどれほど長く、あなたへの想いを抑え込んできたか、あなたにはきっとわからないのでしょうね……」
「殿下こそ、俺に芝居が通じると思っているんですか」
「わたしはただ……、あなたと堂々と踊れることが嬉しくて……、なのにライアンとだなんて……。いいえ、あなたを責めるつもりはないのです……。悲しいですけれど、わたしに至らぬ点があったということでしょう……、とても、悲しいですけれど……」
「殿下、そうやって揺さぶりをかければ、俺がいうことを聞くと思っているなら、大間違いですからね」
「あぁ……、悲しいわ……、手よりも胸が痛いです……」
殿下が、わざとらしく俯いて、涙を耐えるように、息を震わせる。
俺は、数秒は沈黙した。数秒は耐えた。しかし、耐えきれなかった。
仕方ないだろう。俺の姫様が嘆いているのだ。まあ、演技だけどな。だが、わかっていても耐えがたい。くそ、本当にあなたはときどき最悪だ。
俺は天を仰いで、この世のありとあらゆるものを罵り、それから殿下へ向き直っていった。
「絶対に我慢しないと、約束してください」
「バーナード!」
殿下が、途端に、きらきらとした笑顔を向けてきた。
ほらな、やっぱり演技だ。
わかっていたんだ。わかっていたが、くそ、ちくしょう。
ああ ─── 、笑っている殿下は、なんて可愛らしいんだろうか。
姫様が笑っているなら、もう、何もかもどうでもいい。
いや、どうでもよくないこともあるんだが。俺の力加減の問題だとかだ。
俺は、念押しをするようにいった。
「いいですね。わずかでも痛かったら、必ずそう言うと誓ってください」
「誓います! 約束します!」
殿下は満開の笑顔で、得意げにいった。
「やはり、わたしと練習するのが筋というものですよ、バーナード。ライアンばかりずるいです」
「ライアンは全力で逃げたがっていましたよ」
「まあ、なんてもったいない」
そんなことをいうのは、この世で殿下だけだ。
何ももったいなくないし、百人中百人がライアンに同情する案件だろう。
しかし、俺の殿下は例外なので、ニコニコと、嬉しそうに一歩近づいてきた。
「わたしも考えたのですが、バーナード」
「嫌な予感がしますね」
「今まで、あなたが、力加減を誤ったことはないでしょう? それでもあなたが不安を覚えるのは、慣れていないからだと思うのです」
「ダンスに慣れろという意味ですか? それなら、ライアンでもよかったでしょうが」
「いいえ、ちがいます」
殿下は自信たっぷりな顔をして、自らの胸に右手を当てると、力強くいった。
「あなたは、平時において、わたしに触れることに慣れていないのです」
「………………慣れていたら問題があるでしょうが!」
「ですから、これからは、わたしにたくさん触って、慣れるといいと思います!」
瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、姫様が、俺の理性に油をぶちまけて、そこに赤々と燃える松明を落とすイメージだった。俺の理性は瞬く間にこんがりと焼けた。理性の死である。
これはもう、仕方ないんじゃないか? これはさすがに姫様が悪くないか? 手を出してくれといっているも同然じゃないか?
俺の欲望は、大いに首をひねりながらそう呟いたが、そこで瞬く間に理性が復活した。素晴らしい。英雄の復活だ。灰からよみがえった理性は、俺の姫様がそんな含みを持たせているわけないだろう馬鹿めと、俺を罵った。
それはそうだと俺の欲望も納得した。
殿下は、侍女たちから聞いたという変な知識だけはあるが、基本的に、由緒正しいお姫様であるからして、こういう面に関しては箱入りなのだ。箱入りすぎて言葉選びがおかしい。箱に入ったまま、気軽に俺の理性を焼死体にするのはやめてほしい。
おそらく、殿下の意味合いとしては、手を握ることに慣れるようにということなのだろう。
俺の理性はそう察して、なおもぐずぐずと殿下を求める俺の欲望を殴り飛ばし、勝利した。しかし、若干の復讐心は残っていた。
復讐心というか、なんというか。多少は仕返しをしてやりたいという気分だ。
俺は、殿下に向かって、一歩踏み込んだ。
これでもう、護衛の距離ではない。恋人の距離だ。
殿下は、あれだけのことをいったくせに、俺が近づいただけで、照れたようにうつむいた。
くそ、そういう方ですよね、あなたは。
俺の姫様は、いつも、可愛くて卑怯だ。
俺は、殿下の右手を、俺の左手で、下からすくい上げるようにして、持ち上げた。
力はほとんど入れずに、ただ、俺の手の上に、殿下の手が重なっている。
「バーナード……?」
戸惑ったような殿下の声には答えずに、俺はそっと、殿下の手の甲に、唇を寄せた。
そして、美しくたおやかなその手に、口づけを落とす。
殿下がびくりと震えた。
それでも、俺の殿下は、逃げはしなかった。
俺は、そのことに気をよくすると、殿下を見つめて、低く囁いた。
「どうか、俺と踊っていただけますか? 美しい、俺のアメリア姫」
殿下は、頬を紅潮させると、困ったように目をさまよわせながらも、こくりと頷いた。
「……ええ、喜んで、バーナード」
そうして、俺と殿下は、お互いにぎこちない動きで、ゆっくりと踊りはじめた。
─── 陽が落ちて、辺りが暗くなるまでずっと、俺たちの影は、重なり合っていた。
番外編完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。