21.めでたし、めでたし
その日は、朝から晩まで、会議に会談にと、予定が詰まっていた。
夕食も、沿岸地方の領主たちとの会食だった。しかし、予定された政務としては、それが最後だった。
わたしは会食を終えると、すぐさま湯浴みをして、今度は書類を片付けるために、再び執務室へ戻った。
空はすでに、月の女神が微笑む頃合いだった。
薄暗い回廊を、ランプのほのかな揺らめきと、月明かりだけが照らしている。
冬が足音もなく忍び寄る季節だ。夜の回廊は、息を吸うだけで、芯から冷え込むようだった。
幸い、執務室は、暖炉に火が入れられているおかげで暖かい。
しかし、護衛についているバーナードも、チェスターも、湯浴みを済ませたというのに、今から仕事を始めるのは賛成しがたいという顔をしていた。
バーナードには、正面切って「お身体が冷えますよ。今夜はもう休まれたらいかがですか」と諫められた。
─── わたしは、内心で、ふふふと悪い顔をしていた。
心配してくれるのに申し訳ないとは思うけれど、これも計画の内である。
※
一通りの書類を片付けると、そろそろ休むといって、今度は私室へ向かった。
わたしの私室は、王女時代から変わらずに後宮にある。
お兄様にまだ妻子がいないこともあって、現在の後宮はそれほど立ち入りが厳しいわけではない。それでも、近衛隊であっても、傍に付き添えるのは、私室前の回廊までだ。中へ入ることは許されない。表向きは、一応そういうことになっている。
見張り番の衛士が、私室の扉を開けてくれた。
わたしは一歩中へ入って、そこで、いかにも今思い出したという顔をして、振り返った。
「あぁ、うっかりしていました。明日のことについて、話し忘れていたことがあります。バーナード、中へ入ってください。あなたに伝えておくべきことがあります」
バーナードが、ぎょっとした顔になった。
しかし彼は、すぐにいつも通りの冷静な表情を取り戻すといった。
「では、ここでお聞きします、殿下。そちらには入れませんので」
「でも、バーナード。わたし、すっかり身体が冷えてしまいました。このままでは風邪を引いてしまいそうです」
バーナードが『だから湯浴みの後に仕事なんかするなといったでしょうが』といわんばかりの眼をした。
わたしは、ふふふと邪悪に笑って告げた。
「早く暖炉の傍へ行きたいわ。あなたも中へ入ってください。暖炉の前で、話をしましょう」
それだけをいって、さっさと私室の奥へと進んでしまう。
背後からは、低く唸るような声が「他言無用だ」と、脅しつけるようにいうのが聞こえた。それから、扉の締まる音がした。
わたしが満面の笑みで振り返ると、バーナードは、思い切り渋い顔をしていた。
彼は扉を背にして立ったまま、こちらへ来てくれる様子もない。
「話し忘れていたこととは何ですか、殿下」
「あなたが好きです、バーナード」
「……………………。一日一回の朝の挨拶でしたら、今朝すでに伺いましたが」
「あれは挨拶ではありません。愛の言葉です」
「わかりました。ご用件がそれだけでしたら、失礼いたします」
「待ってください。わたしたちはもっと、婚約者としての時間を持つべきだと思いませんか!?」
わたしが拳を握って訴えると、バーナードは、ひどく冷めた顔をした。
それから、彼は、ふっと、嫌な感じに笑っていった。
「俺の意見を述べさせていただいても?」
「どうぞ。聞きましょう」
「では ─── 、こんなくだらない真似をするために先に湯浴みをしてから執務室に戻ったのですか殿下は何を考えていらっしゃるんですか連日の激務でお疲れだというのに自分から身体を冷やす真似をしてそれほど体調を崩したいのですか阿呆ですか殿下は俺が何度休んでくださいといったら聞く耳を持ってくれるんだ婚約者としての時間だとふざけるな今すぐベッドに入って毛布をかぶって温かくして寝ろ」
「……そんな畳みかけるようにいわなくても……、あとバーナード、息継ぎはした方がよいですよ……」
「今すぐベッドへ行け。寝ろ。休め。 ─── 俺のいいたいことは以上です、殿下」
バーナードがにこやかにいう。
その笑顔ときたら、完璧に、血塗れの猛獣のそれだった。
わたしは、彼を宥めるように、片手を突き出していった。
「卑怯な手を使ったことは謝ります。ごめんなさい」
「謝らなくていいからさっさと寝室へ行って休んでください。だいたい、侍女たちはどこへ行ったんですか」
「ふふっ、全員、この時間帯は入ってこないように頼んであります」
「最悪だ……。わかりました、サーシャを呼んできます」
「そんな……っ、せっかくの二人きりなのですよ!」
「男と二人きりになってはいけないと教わらなかったんですか、殿下は!」
「あなたは婚約者だからいいのです!」
「まだ結婚していないから駄目です!」
わたしとバーナードは睨み合った。
おかしい。二人きりになったら、もっとメロメロで甘々でいちゃいちゃな雰囲気になるはずだったのに。
わたしは少なからずガッカリして、しょんぼりと肩を落としていった。
「あなたは……、わたしと二人きりになりたいとか、そういうことを、思わなかったのですか……?」
バーナードが、一瞬、息を詰まらせたのがわかった。
彼は、やがて、大きく息を吐き出すと、ずかずかとわたしの近くまで歩いて来て、止まった。恋人というほどには近くない、いつもの護衛としての距離だ。
わたしが恨めしく彼を見上げると、焦げ茶色の瞳は、困ったようにわたしを見つめていった。
「それは、思いましたよ。今だって、思っています。あなたの時間が欲しいと。 ─── でも、殿下。俺は、何よりもまず、あなたが健やかでいてくれることが大事なんです。あなたが元気でいてくれるなら、俺はそれだけで」
「わたしはあなたといちゃいちゃすることも大事だと思っています!」
「そういちゃいちゃ……、ちがう! 俺は真面目な話をしているんですよ、殿下!」
「わたしも大真面目です! ……そっ、そうです、身体が冷えてしまいました、バーナード!」
「だから今すぐベッドへ入って」
「あなたの身体で温めてください!」
「 ─── ………………すみません、殿下。今、なんと? 幻聴が聞こえた気がするんですが」
バーナードが、額を押さえていう。
わたしは、身振り手振りで、何もない空間をぎゅっと抱きしめてみせた。
「雪山で遭難したときには、こうやって、抱きしめ合って、温め合うのだそうですよ」
「なんだそのクソ知識。……あー、いえ、殿下はどこでそんな珍妙な情報を仕入れてきたんですか?」
「侍女たちがそう話しているのを聞きました」
「全員解雇しましょう」
バーナードは、それから、「平常心、平常心、首が一つ、首が二つ……」と呪いの言葉のようなことをぶつぶつと呟いた。
わたしは首を傾げて尋ねた。
「なにを呪っているのですか、バーナード?」
「呪ってはいませんが、死にそうな気分になってはいます。まったく、殿下はどうしてそういうところだけ箱入りなんでしょうかね。普段はちっとも箱に入っていてくれないくせにね」
「意味がわかりませんが……、ひとまず独り言はやめて、わたしといちゃいちゃしましょう」
焦げ茶色の瞳が、じろりとわたしを見下ろしていった。
「……参考までに聞いておきたいんですが」
「なんでしょう」
「殿下のいう、その、いちゃいちゃというのは、具体的にどういった行為を指すんですか?」
「そ……っ、それを聞くのですか……!?」
「ええ、まあ。考えの相違があるとまずいですからね。むしろ相違しかない気もしていますが」
なるほど、と、わたしは頷いた。
もしかしたら、バーナードにとっては、こうやって話をしているだけでも、十分にいちゃいちゃしているという認識なのかもしれない。何なら、護衛として傍にいるだけでも、いちゃいちゃ扱いなのかもしれない。きっとそうだ。そう考えると納得がいく。婚約者になったというのに、彼がちっとも距離を縮める様子がなかったのも、これで説明がつくだろう。そうとも、わたしの魅力が足りないわけではなかったのだ。認識のずれが問題だったのだ。
わたしは、コホンと一つ咳払いをして、バーナードを見上げた。
……もっとも、見上げるといっても、こういうときのバーナードは、いつも少し背中を丸くして、なるべくわたしと目線の高さを合わせようとしてくれる。
護衛中は、背中に鉄の板が入っているといわれても不思議ではないほど、背筋をビシッと伸ばしているので、わたしと向き合うときだけだ。
わたしが見上げすぎて首が痛くなったりしないようにと、気遣ってくれる。そういうところも、優しい人だと思う。
「バーナード、これはわたしが小耳にはさんだ情報なのですが」
「すでに嫌な予感しかしませんね」
「結婚前であっても、婚約しているのであれば、その……、きっ……、キスくらいはするものだそうですよ!?」
わたしは羞恥に耐えて告げた。
ここまでいってもダメだったら、もう引き下がるしかないと思った。
バーナードは、特に表情を変えなかった。
彼はただ、二歩ほど近づいてきた。バーナードが、わたしの正面に立つ。
それは、護衛ではなくて、恋人の距離だった。
「殿下」
「はっ、はい!」
「俺が前にした、護身術の話を覚えていますか?」
「は……? ……ええと、どういった話でしたか……?」
「護身術としては、相手の眼を抉るのが有効だという話です。親指で、こうやってね」
「ああ……、そんな話もしましたね……。ですが、それが今、何の関係が……?」
こんなにどきどきさせておいて、まさかわたしをからかっているのだろうか。
わたしは、そう、恨めしく睨みつける。
バーナードは、気に留めた様子もなく、淡々とした口調で続けた。
「俺は片目なら失っても大丈夫です。なくしたことはありませんが、自分の身体のことなので予測はつきます。片目なら、失っても、殿下をお守りするのに支障はありません」
「待ってください、バーナード。本当に、いったい何の話を……」
わたしが戸惑って見つめると、彼は、少しだけ微笑んだ。
焦げ茶色の瞳は、困っているようでもあり、自制しているようでもあった。どこか危うくもあり、ゾッとするような輝きも帯びていた。
そして、それらすべてをひっくるめて、愛に満ちているような眼差しだった。深い深い愛を、湛えているような瞳だった。
「アメリア様。少しでも嫌だと思ったり、怖いと感じたら、ためらわずに、俺の眼を抉ってくださいね」
どうしてそんなことをいうのか。
そんなことをするはずがない。
嫌だと感じることがあったとしても、そのときは口でいう。
あなたの眼を抉るなんて、わたしにできるわけがない。
……そう、言いたいことはたくさんあったのだけど。
恋人の距離にいるバーナードが、その硬い指先で、わたしの頬に触れる。
それだけで、わたしは、反論は後回しにしようと決めた。
それから ─── 、バーナードが、いつもよりも深く身を屈めてきたので、わたしは、そっと目を閉じた。
その後のことについては、そう。
─── わたしが親指を使うことはなかったとだけ、いっておこう。
完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。