2.兄王と狂戦士
お兄様の執務室へ入ると、ソファを勧められる。
わたしが腰を下ろすと、お兄様もまた、ローテーブルを挟んで向かいに座った。
「皆、席を外してくれ。妹と二人きりで話がしたい」
王の言葉に、室内にいた補佐官や、護衛の騎士たちが、一礼して退出していく。
しかし、動かない人影もあった。
一呼吸おいてから、わたしは、出て行くそぶりもなく立っている、わたしの右隣を見上げた。
お兄様もまた、非常に嫌そうな顔をして、そちらを見つめていた。
「バーナード、あなたも外で待っていてくれる?」
疑問形ではあるけれど、命令だ。彼にだってそれはわかっているはずだ。
けれど、バーナードは、眉根を寄せていった。
「俺がお傍を離れたら、誰が殿下を守るんです」
「ここに不審な者はいないでしょう?」
「殿下の兄君がいます」
お兄様のこめかみに、青筋が浮かんだ。
「わたしのお兄様よ。この上なく信頼できる方だわ」
「俺は信用できません」
あっさりといわないでほしい。お兄様のこめかみの血管が切れそうだ。
わたしは、太ももの上で手を組むと、眼差しに力を込めて、長身の騎士を見上げた。
「剣を抜けるほどの間合いがあるわ、バーナード」
「……ええ」
「何かあれば、あなたに教わった通りに逃げて、あなたを呼びます」
「……かしこまりました、殿下」
バーナードが、渋々といった様子で、退出していく。
部屋の扉が閉まる音を聞き終えてから、お兄様が、たまらずといった様子で叫んだ。
「何かあってたまるか! 私はお前の兄だぞ、アメリア!」
「ええ、本当にごめんなさい、お兄様」
「お前が謝ることじゃない……っ。ただ、あの男を見ていると、いつか、私に限界が来そうでな……。怒りのあまり、剣を抜いてしまうかもしれない」
「お願いですから、それはやめてくださいな」
「ああ……。私が剣を抜いたら、バーナードは、躊躇なく、私の首を刎ねるだろうからな」
お前を簒奪者にするつもりはない、と、お兄様が疲れた様子でいう。
「あの狂戦士め……。お前の安全以外は、何一つ気にしないときている。奴に爵位を与えて、近衛隊の隊長職につかせたときには、これで少しは成長が見られるかと期待したが……、ふっ、私もまだまだ、考えの甘い若造だったようだな……」
「お兄様は十分頑張ってらっしゃいます。それに、バーナードは、お兄様より年下ですよ」
「あれは本人の自己申告だろうが! 『覚えていないので、殿下と同じ歳でいいです』などと言い放った男だろう? 信じるな。あれは本心から、自分の歳も経歴もどうでもいい男だ。人間の皮を被った呪いの魔剣だ」
わたしは、こほんと咳払いをした。
「お兄様。バーナードは、確かに、王宮ではそぐわない態度を取ることもありますが」
「あるというか、それしかないだろう」
「ですが、彼はわたしたちの恩人です。そうでしょう?」
国王陛下の薄青色の瞳を、じっと見つめる。
お兄様は、深いため息をつきながらも、仕方なさそうに頷いた。
「そうだな。ああ、わかっている。わかっているからこそ、私もこの縁談を決めたんだ」
縁談。
わたしは、軽く瞬いた。やはり、わたしの縁談が決まったのだろうか。
思わず、問いかけるようにお兄様を見つめる。
すると、お兄様は、妙にきまりの悪そうな顔をしていった。
「アメリア。先に伝えておこう。私の縁談は内定している」
「お相手は、やはり……?」
「ああ、お前が思っている通りだ。だからこそ、お前の縁談を先に公表しなくてはならない」
どうして、わたしが先に結婚しないといけないなんていう、厄介な事情ができてしまったかというと、それはもとを辿れば、先代の国王、わたしとお兄様の父親に行きつくだろう。
わたしたちの父親は、悪い人ではなかったのだと思う。
だけど、王には向かない人だった。気弱な方で、たやすく周囲の意見に流された。耳障りの良い世辞を好み、自分の眼で事実を確かめるようなことはしない人だった。
それでも、わたしとお兄様がまだ幼い子供だった頃、先代の宰相が存命の時代は、まだぎりぎりの所で国は回っていた。けれど、彼が事故死し ─── それが本当に事故だったのかどうか、今となっては真相は闇の中だ ─── 国は荒れた。
汚職がはびこり、賄賂は横行し、税は上がり、何度も反乱が起こった。隣国に攻め込まれたこともあった。今になって思い返してみれば、よく、我が国が地図の上から消えてしまわなかったものだと思う。
お兄様は、王太子として、最善を尽くした。
最終的には、実の父親に剣先を向けて、ここで死ぬか退位するかと迫ることになったけれど、わたしは常に全面的にお兄様を支持した。口さがない人々が何といおうとも、お兄様は国を守るために死力を尽くしたのだ。
およそ二年前のことだ。
お兄様はついに即位し、新王として国内の平定のために駆けずり回った。
そして即位から二ヶ月も経たない頃に、我が国に隣接する北と西の二国から、ほとんど同時に、お兄様へ縁談があったのだ。
これが問題だった。
北と西の二国は仲が悪い。どちらを選び、どちらを断っても角が立つ。この場合の角が立つというのは、我が国との戦端が開かれかねないという意味だ。
それに、お兄様としては、まだ王妃を迎えるどころではなかった。治世を安定させることが最優先であり、結婚のために費やす時間はなかった。
両国からの申し出を、穏便に断る理由を探して、お兄様もわたしも頭を悩ませた。
重臣たちも含めて悩みに悩んだ末に、両国へ返した答えがこれだった。
「私は家長として、まず妹の結婚の面倒を見てやらなくてはいけない。妹が結婚しない限りは、私も自分の縁談など考えられない」
半ば破れかぶれの回答だ。ここで二国から『では妹君を我が国の花嫁に』などという返答が来たら打つ手はなかった。
しかし、まず来ないだろうという見込みもあった。そして、その予測は当たっていた。
両国からお兄様宛の縁談が来るよりも、一ヶ月ほど前の話だ。各国の要人を招いた夜会で、ある事件が起こったのだ。
それ以来、わたしを妻にしたいと望む国はなくなった。
わたしを迎え入れることは、すなわち、他国の一軍を無傷で引き入れることも同然だといわれているからだ。
……だけど、あれからおよそ二年も経つ。
お兄様には王妃と後継ぎが必要だ。北でも西でもなく、南の隣国との同盟強化を図るために、王女を妻として迎えたいという話は以前から出ていた。水面下で動いていた話だったけれど、ようやく確約まで漕ぎつけたのだろう。
そうなれば、あとは、北と西への言い訳が立つように、わたしが先に結婚するだけだ。
「……ですけど、お兄様。わたしを妻にしてもよいという奇特な方は現れたのですか? それとも、やはり、リッジ公爵に?」
公爵は御歳80歳だ。どうしてもわたしの縁談が決まらないようなら、妻に迎えてもよいといってくれている。
「この歳まで生きましたからな。眠ったままポックリいくのも、狂犬に首を刎ねられるのも、たいして変わりませんわ」といってくれた好々爺である。
わたしは、誓って、バーナードにそんな真似は許さないといったのだけど、公爵は笑うだけだった。多分、信じてもらえていない。
お兄様は、真剣な顔でいった。
「公爵を死なせるわけにはいかない」
「お兄様まで、そんなことを……」
「アメリア。可愛い妹よ。私はお前を、誰よりも信頼している。愚かだった父よりも、離宮にこもりきりの母よりも、誰よりもだ。お前だけが、幼い頃から、一心に私を支えてきてくれた。そのうえで、改めて、お前に問おう。王家の一員として、どのような縁談でも受けるといってくれるか?」
「ええ、お兄様。とうに覚悟はできております。……ただ、相手がいればですけれど」
「相手ならいる。バーナードだ」
わたしは、まじまじと、お兄様を見返した。