17.呻く男
あの後、チェスターは、訳知り顔で、執務室を出て行った。
それから、すぐにサーシャがやってきた。長年の侍女は、両手で顔を覆ったままの殿下に、優しい声をかけて、ふかふかのタオルを渡し、新しい紅茶をローテーブルの上に用意した。最後に俺を力いっぱい睨みつけると、部屋を出て行った。
そして、俺は今、殿下と二人きりだ。
いつものように傍に立っているのでも、あるいは膝をついたままの姿勢でも構わなかったのだが、殿下は、ソファを片手でぱしぱしと叩いて、隣に座るように促した。その顔は、タオルに埋めたままだった。
俺は、殿下との間に、人がゆうに二人座れる程度のスペースを開けて、腰を下ろした。執務室のソファが無駄に長くて良かったと思う。
しかし、そろそろ顔を見せてくれないだろうかと思うのだが、それを口に出したら、殿下を追い詰めてしまうのだろうかと、判断がつかずに、俺は若干途方に暮れていた。
俺に、恋愛経験なんてものはない。女と寝たことはあるが、それだけだ。俺は、普通の人間の感情の機微すらよくわからない。つまり、どう動くのが、一番殿下の心に沿えるのがわからないのだ。
殿下が待てといわれるなら、いつまでも待てるが、何もいわれていないのに、待ったままでいいのだろうか。俺から声をかけるべきなのか? でも、かけて大丈夫なのか?
わからん。チェスターが戻ってきてくれないだろうか。あいつに、その辺で立て看板でも持って、指示出しをしてほしい。こういうときに、どうするのが一番殿下を傷つけないやり方なのか、俺よりあいつのほうが真っ当な判断が下せる気がする。
俺がそう、逃避のように考えていると、殿下は、ふかふかのタオルから、少しだけ、俺のほうへ向いてくれた。きれいな空色の瞳は、まだわずかに潤んでいる。
「……気持ち悪く、ないのですか?」
俺は、質問の意図が掴めずに、眉根を寄せた。
殿下は気分が悪いということか? それならすぐに休むべきだが、しかし、今のいい方だと、俺のほうが気分が悪いのではないかと案じているように聞こえる。なんで俺が?
「俺は問題ありませんが、殿下は、体調がすぐれないんですか? それなら、すぐに医者を」
「ちがいます! ……わたしに結婚を迫られて、気持ち悪くないのですかと聞いています……!」
俺は、そこで、ようやく、昨日の会話を思い出した。
あっと、バカみたいに口を開けて、それから、思わずいってしまった。
「もしかして、昨日のあれは、俺に探りを入れていたんですか? 一般的な意見が聞きたかったんじゃなくて?」
殿下は、赤く染まった頬を、さらに紅潮させると、ぷるぷると震えながらいった。
「何事も、事前調査は大切です……!」
「そうですね。ごもっともです」
「さあ、正直にいうのです……! わたしはショックを受けたりしませんから!」
そんな、傷つく覚悟はできているといわんばかりの瞳で見ないでほしい。
俺があなたを不快に思うことなんて、あるはずがない。それはいっそ不可能だ。
しかし、誤解させたのは俺だった。俺は、どう説明したものかと、頭を悩ませた。だって、まさか、昨日のあれが、そういう意味だったとは思わないだろう。俺はてっきり、チェスターとの結婚のことで悩んでいるのだとばかり思っていたのに。殿下が想定していた結婚相手は、俺だったのか。そうか。そうか……。
殿下は、キッと俺を睨みつけていった。
「もしかして、わたしをからかっているのですか、バーナード」
「そんな不敬な真似はしませんよ。どうしてそう思うんですか」
「あなたの顔が笑っています……!」
「あぁ……。それは、仕方ないですね。殿下にも責任があります。大いにあります。あなたが呪いの魔剣の封印を解いたせいです」
「やはりからかっていますね!?」
ちがう。本当に違う。これでも俺は、結構真面目にいっている。
まずは誤解を解こうと、俺は口を開いた。
「昔……、俺が殿下の護衛になってまだ日が浅い頃に、殿下より自分のほうが俺を上手く使えるから、俺を自分の配下に寄越せといってきた、中年男がいたのを覚えてますか? 鎧にまで、じゃらじゃらと宝石をつけていた男です」
「あぁ、いましたね。きらびやかな鎧の……、彼は、ネルズ子爵でしたか」
「俺はああいうのが気持ち悪いんですよ。殺すつもりだったのに、殿下が止めるから」
「たしかに礼を失した人物でしたが、それだけで剣を抜いてはいけません。……それほど気持ち悪かったのですか?」
「ええ、ものすごくね。俺はですね、殿下。俺を“使いたがる”連中全員が気持ち悪いんです」
「それなら、わたしも同じでしょう。いえ、わたしはむしろ、今まさに、あなたを騎士として使っているところですね……!? もしかして、我慢してくれていただけで、ずっと気持ちが悪かったのですか!?」
「ちがうって。聞いてください、殿下。俺が気持ち悪いのは、俺を利用したがる連中です。そういう意味で、俺を欲しがる連中のことをいっています」
「わたしも、今まさに、国のためにあなたを利用しようとしていますし、あなたを欲しがっています……!」
「ちがう! なんでそうなる!? ……いいですか、殿下。俺はあなたを気持ち悪いと思ったことなど一度もありませんし、この先もあり得ません。だってね……」
これを言葉にするのは、気恥ずかしいことだった。
自分があまりにも自信家になったような気がした。自惚れが過ぎているようにも感じたし、未だに夢のようにも思えた。
しかし、殿下がじっと俺の言葉を待っていたので、俺は、眼を泳がせながらいった。
「だって、あなたが欲しがっているのは、俺の心でしょう……?」
殿下は、ふかふかのタオルを置いて、俺のほうへにじり寄ってきた。
そして、機嫌のよい猫のように、にんまりと笑った。
「照れているのですか、バーナード?」
「殿下、距離を詰めるのはやめてください。護衛に対して近づきすぎです」
「いっておきますが、わたしが欲しいのは、あなたの心だけではありません。あなたと、手を取り合って、この先の人生を、共に歩んでいくことを望んでいるのです。つまり、わたしが狙っているのは、あなたの妻の座です……!」
「わかった、わかったから近づくな、俺の全部はあなたのものだ、あの日にとうにあなたにくれてやった、あなたが受け取らなかっただけですよ、わかりましたね、問題は解決です、わかったら可愛い顔をしてじりじり近寄ってこないでください、やめろ、来るな、あぁくそ、あんた甘い匂いがする……、ちがう! そんなこと考えていません、いいですか姫様、それ以上近づいたら、俺はこの部屋を出るからな!」
「ふっ、ふふふふふ、顔が真っ赤ですよ、バーナード」
「誰のせいだと思ってるんですか!?」
姫様が、ふふふと嬉しそうに笑った。信じられないくらい可愛い笑顔だった。
くそ、信じられない。この人はときどき、最悪にたちが悪い。
俺は、ソファの端へと、これ以上不可能なほどに密着して、最大限、殿下から距離を取った。
「バーナード」
「なんですか、殿下。いっておきますが、それ以上近づいたら、チェスターを呼びますからね」
「………、わたしのことを、その……、すっ、すきですか!? 女性として!」
「好きですよ。今の俺が、それ以外の何に見えるんですか」
「あっさりいいましたね!?」
「というか、いつ何時、どう尋ねられようと、あなたに対しては好き以外の言葉がないので、俺にそんなことを聞くだけ時間の無駄です」
「無駄ではありません。大事なことです」
「俺としては、殿下にこそ、本当に俺でいいのか、よく考えて頂きたいんですが。……俺だったら、こんな男、絶対に選びませんよ」
「わたしは、あなたのことが、ずっと好きです」
俺は思わず呻いてしまった。
今まで、人生で一度たりとも、敵の刃を受けたことのない身だが、殿下のその言葉だけは、俺の心臓を貫くようであり、燃やすようでもあった。
殿下は、にこにこと笑っていった。
「あなたが好きです。……あぁ、ずっとそういいたかった。いえることが嬉しいのです、バーナード。あなたが好きです。ずっとずっと愛しています」
俺はしばらく呻いた。
今回のサブタイトルを『間違えて人に生まれたと評判の狂犬騎士ですが、麗しの王妹殿下に溺愛されています~殿下、それ以上近づいたら、チェスターを呼びますからね~』にしようか迷いました。