8.勝利の褒美(前)
いつも読んでくださってありがとうございます。
書籍二巻購入のご報告もありがとうございます。本当にありがたくて拝見するたび拝んでいます。
そしてすみません、もう一話だけ続きます。
終わる終わる詐欺ですみません! 次話こそ本当に番外編②完結です。
二人きりで星空の下を歩く。
春の花が咲き誇る庭園を進み、桜の大樹の傍で木造りの長椅子に腰を下ろした。
わたしの胸は期待と不安に揺れていた。実をいうと、公務中もずっとライアンの言葉が頭から離れなかった。
そう、あの『褒美に望むのはえっちなこと』という発言である。
───あの発言と、訓練直後のバーナードの言葉。その二つを合わせたら、解は自然と導き出されるというものです。わたしにはわかります。なぜならわたしはバーナードと付き合いが長く、彼にめろめろで大好きだからです。
わたしは胸の内でこぶしを握り締める。
───そう、バーナードが褒美として望む色事があるとしたら、それはわたしに『人を誘惑する悪魔のような色っぽい装いをしてほしい』ということにちがいありません!!
完璧だ。完璧な推理だ。問題はそのような服を持っていないことと、紳士的で優しいバーナードのことだから、そういった褒美を望むことは失礼だと考えて口にしないかもしれないということだけだ。
───大丈夫です、バーナード。準備に時間はかかりますけれど、わたしも悪魔風の衣装をまとって立派にあなたを誘惑してみせます!
考えてみたら、わたしは彼の格好良さにうっとりと見惚れるばかりで、ちっとも誘惑できていなかったように思う。確かにバーナードはそこにいるだけで周囲の目を惹きつける魅力のある人だけれど、彼だって誘惑するだけでなく、される側になりたい願望はあるだろう。当然のことだ。
不安要素としては、はたして『人を魅了する悪魔風の色っぽい衣装』というものが、わたしに着こなせるかどうかという点だけれど……、そこは侍女のニコレットとよく相談しよう。彼女なら適切なアドバイスをくれるだろうし、わたしには王妹としての財力もある。普段は公務が忙しく、読書以外にはこれといった趣味もないので、有事に備えるという名目で溜める一方だけど、今こそまさに使うべきときだ。ルーゼン家当主が「金は使ってこそですよ、殿下」とたまに呆れ顔でいってくるのは、こういうときのためだったのかもしれない。
───バーナードを誘惑できる色香の漂う装い。ただしわたしでも着こなせる物を仕立ててもらうこと。これこそがわたしの財力の使い道だったのですね!
鼓動が早まるのを感じながら、隣に座るバーナードをそっと見つめる。
すると彼は当たり前のことのようにわたしのほうを向いてくれた。
ただし、そこに甘い雰囲気はない。
バーナードはひどく苦々しい顔をして頭を下げた。
「申し訳ありません、殿下。どうか緊張なさらないでください……といっても無理でしょうが。あの馬鹿のせいで、あなたを不安にさせてしまいましたね」
「い、いえ、大丈夫です。何も問題はありません」
「どうか信じてください。ライアンがいうようなことは一切考えていません。始めに俺が褒美の話を持ち出したのは、そんな理由ではないんです」
「あ、はい、もちろん信じています」
わたしは頷きつつも、内心で大きく首をひねっていた。
完璧な名推理だと思っていたのに、もしかして外れていたのだろうか?
紳士的な気遣いで口に出せないのだろうと考えるには、バーナードの表情は真剣すぎた。
「俺が褒美として願おうと思っていたのは、訓練として必要だと判断したこととはいえ、殿下を怖がらせてしまったことをお許しください……と申し上げたかったんです」
わたしは瞬いて彼を見た。
こげ茶色の瞳は真摯である。本心からのものだろう。
わたしは肩の力がするすると抜けていくのを感じた。
「そのことでしたら、謝らなくていいといったでしょう? 正々堂々とした勝負ですよ。お互いに恨みっこなしというものです」
「……殿下なら、そうおっしゃるだろうと思っていました。これはただの、俺の自己満足です」
バーナードが自虐的に笑う。それから彼は、悔いるように顔を伏せた。
「聞いていただけますか、殿下。俺は……、必要だと判断したからやりました。あなたへ殺気を向けることも、あなたを追い詰めることも、訓練として必要だと考えたからです。終わった後は、褒美の権利を使って謝罪しようと決めていました。ええ、ここまで俺が想定した通りです。チェスターの動きさえ予想外のことじゃなかった。考えていた通りに進みました」
だけど、と呟いて、彼は深く息を吐き出した。
やがて顔を上げたときには、その眉間には皺が寄り、こげ茶色の瞳は苦しそうに歪んでいた。自分を責めているようだった。
「だけど、あなたの悲鳴を聞いて、心底後悔しました。俺は何をしているんだろうと思った。俺はあなたを守るためにいるのに。言葉の矢を防ぐことができなくとも、身体だけは絶対に俺が守り通すと決めているのに。あなたに怖い思いなんてさせたくない。姫様が身の危険を感じて怯えるような事態には俺がさせない。そう思っていたのに、俺があなたを怖がらせた。訓練だからなんだというのか。俺は何をやっているのか、こんなザマでなにが護衛騎士だと……」
そう悔いの滲む口調でいって、バーナードは深くうなだれる。
聞いてほしいといわれたからには最後まで聞こう、と思っていたものの、わたしはついに耐えかねて、遮るようにその右腕を掴んだ。
「バーナード、訂正したいことは山ほどありますけど、まず、わたしは悲鳴をあげていませんよ」
「……俺の名前を呼んだでしょう。制止するように。やめてくれと、殺さないでと、恐怖の中で叫ぶように」
「ちがいます」
こげ茶色の瞳を覗き込むようにして、わたしはきっぱりと告げた。
「あれは条件反射というものです。襲撃犯に慈悲を乞うために呼んだのではありません。助けを求めて呼んだのです、必ず駆けつけてくれるあなたのことを」
バーナードが戸惑いを浮かべてこちらを見る。
彼は口元に手を当てて考え込んでから、申し訳なさそうにいった。
「殿下、俺にできることなら何でもしたいと思いますが、俺でも分裂して二人になることはできなくて」
わたしは思わずがくりと頭を下げた。
「わかっています。当たり前でしょう」
「……必死で逃げているうちに、俺が襲撃犯役だとお忘れになっていたということですか?」
「ちがいます。いいですか、バーナード」
わたしはつんとあごをそらし、高飛車に言い放った。
「あれは条件反射です。わたしは身の危険を感じると、とっさにあなたの名前を呼んでしまうのですよ」
無意味だとわかっていても、それでも。
「恐怖を感じると、勝手に声が出てしまうのです。あなたを呼ぶ声です。これは考えて行っていることではなく、身体が反射的にそうしてしまうのです。一種の刷り込みといっていいでしょうね」
言葉の意図を測りかねたように、こげ茶色の瞳がぱちぱちと瞬く。
わたしは彼に顔を近づけ、下から覗き込むようにして迫り、そしてにんまりと悪い顔で笑った。
「あなたのせいですよ、バーナード。あなたがいつもいつもわたしを助けてくれたから。何があっても、どんなときでも、大勢の敵に囲まれても、絶望的な状況の中でも、あなたがわたしを守り抜いてくれたから。だからわたしは、すっかり甘えてしまって、何かあったらあなたを呼ぶということが、身に沁みついてしまっているのです!」
びしっと事実を突きつけるようにいう。
バーナードに追いかけられても彼の名前を呼んでしまうというのは、誠に遺憾ではあるけれど、これはやむなきことなのだ。
「ええ、仕方がありません。どんなときでもあなたが必ずわたしを守ってくれるということは、一かけらの疑う余地もないのですからね!」
わたしは大いばりで胸を張って、高らかに告げた。
バーナードは呆気にとられた様子でこちらを見る。彼にしては珍しく、ひどく無防備な顔だった。
それからバーナードは、まるでじわじわとこみ上げてくるものに耐えるように、片手で顔を覆って呻くようにいった。
「あぁ、まったく……、姫様にはかなわないな」
その声は懸命に笑おうとしているようでもあり、感情の大波に耐えているようでもあった。困っているようでもありながら、慈しみにも満ちていた。
「どうか誇ってください、バーナード。わたしがあなたの名前を呼んだことは、悲鳴ではありません。あなたが素晴らしい護衛騎士であることの証明です。あなたがどれほどわたしを護り助けてくれたことか。あなたがいなければ、わたしは今ここにいませんよ」
星空の下で、春の花が咲く中で、彼の瞳を見つめて笑う。
わたしがいるのは、あなたがいてくれるからなのだと伝えるために。
夜色に染まった彼の瞳が瞬き、緩み、伏せられる。
そして最強の騎士で最愛の婚約者は、わたしに向き直ると、ひどく優しく微笑んだ。
こちらを見つめる夜色の瞳は甘く柔らかく、熱を帯びている。
まるで視線そのものが愛の囁きのようだった。
バーナードはおもむろに両腕を広げていった。
「ええ、殿下。俺はあなたの騎士です」
その声までも、ひどく甘くて。
「いつでも呼んでください。必ず駆けつけます。俺はあなたのバーナードですよ、アメリア様」
わたしはたまらない気持ちになって、ぼすんと勢いよく彼の腕の中に身体を預けた。誰にも負けることのない力強い腕が、今は優しく抱きしめてくれる。
彼の隊服を握りしめて、そっとささやく。
「……好きです、バーナード」
「ああ、俺もだ。俺もあんたを愛してる」