1.護身術に有効なのは親指
「ですからね、殿下。こうやって、眼を抉るんですよ」
バーナードが、自分の親指で「こうです、こう」と実演してみせてくれる。
わたしは、頬が引きつってしまわないように努力しながら、かろうじて笑顔を保っていた。
─── どうしてこんな殺伐とした話になってしまったのかしら、と胸の内で呟きながらも。
秋晴れという言葉がぴったりな、爽やかな空模様だ。
わたしのいるこの執務室も、窓から差し込む陽射しのお陰で暖かい。
わたしは今日も、朝から忙しかった。王補佐として、王宮内を足早に移動しては、いくつもの会議へ顔を出した。官吏たちの意見に耳を傾け、口を出すべきところは口を出し、沈黙を守るべきところは守った。謁見を願い出ていた地方領主たちの話も聞き、わたしが判断できる部分に関しては決断を下し、陛下に伺うべき案件に関しては預かりとした。
王妹であり、王の補佐官を務めるわたしの職務は、主に、話を聞いては裁断を下すことの繰り返しだ。
一通りスケジュールが片付けば、今度は机に積まれた、サイン待ちの書類がわたしを待っている。
書類の山を半分片付けた頃には、午後の陽射しもいささか傾きかけていた。
わたしが、身体をほぐすように軽く伸びをしたところで、わたし付きの侍女が、見計らったかのように、ティーセットを運んできた。
少し休憩なさいませんか、という彼女の言葉に頷き、わたしは執務用の椅子から、ソファへ移った。
それから、室内にいる護衛の騎士たちに、軽く世間話を振ったのだと思う。
王妹であるわたしには、わたし付きの近衛隊がいる。
今日、わたしの護衛騎士を務めているのは、近衛隊隊長であるバーナードと、新人のサイモンだった。バーナードは王室近衛隊全体で最強 ─── 否、王国で最強の騎士 ─── もしかしたら、大陸で最強かもしれない人だ。
そのためだろう、彼は新人と組んで護衛任務につくことが多い。新人がミスをしても、彼なら対処できるという考えだろう、おそらくは。
以前、わたしが「バーナードなら新人のフォローができますものね」といったら、彼の部下たちが顔を引きつらせて「いえ……、ミスをした部下なんて、隊長は平気で見捨てますが……。ですが、ご安心ください。新入り一人分の戦力がなくなろうとも、隊長ならば殿下をお守りするのに支障はありません。隊長もそれを見越しての配置でしょう」といわれたこともあったけれど。
とにかく、わたしは、新人のサイモンが早く職場に馴染めるようにと思って、「今日はいい天気ね」などの世間話を振ったのだ。そのはずだった。けれど、気づけば、いつの間にか、護身術の話になっていた。
「こんなにも天気がいいと、城を抜け出して、遊びに行きたくなってしまうわ」と続けたのがまずかったのかもしれない。十分に、冗談めかした口調だったのに、バーナードときたら、不審者が近寄って来たときの対策について話しだしてしまった。
「相手の眼を抉るんです。こうやって、指を突き出してね。簡単でしょう? これなら非力な殿下でも、楽に実行できますよ」
「……バーナード、それは少し、わたしには難しいわ」
「指を突き出すだけですよ? あぁ、爪が汚れてしまうのが気になります?」
わたしは思わず額を押さえた。爪。どうしてこの話の流れで爪の汚れ。もっと気にするべきことはほかにあると思う。
バーナードは素晴らしい騎士なのに『間違えて人間に生まれてしまった男』だとか『人の皮を被った呪いの魔剣』だとか『狂戦士より人の心がない狂犬』だとかいわれてしまうのは、この言動ゆえだ。
加えていうと、先ほどから、サイモンが明らかに怯えた顔をしてバーナードを見ている。職場に早く馴染んでもらいたいと思ったのに、これではまた、早々に辞められてしまいそうだ。わたし付きの近衛隊はいつも最少人数で頑張ってくれている。
もっとも、彼らにいわせると「まぁ、俺たち全員でかかっても隊長に秒で全滅させられますし……。戦力面でいうなら、隊長一人いるだけで王立騎士団以上ですし……。下手な奴が入ってきても、殿下の護衛の邪魔になったら、隊長が殺しかねないので、無理な増員は望みません……」とのことだった。いつも苦労をかけて申し訳ないと思っている。
わたしは、傍らに立つバーナードを見上げていった。
「身を守る術を教えてくれるなら、わたしに剣を学ばせてくれてもいいんじゃなくて?」
「殿下の仕事はいつから戦いになったんです? いつもいっているでしょう。剣を抜けるほどの間合いがあるなら、あなたが第一にすべきことは、逃げることです。俺が駆けつけるまで、全力で逃げてください。ほかは何も考えなくて結構です。素人が下手な応戦などしなくてよろしい」
「目つぶしは応戦に入らないの?」
「これは相手が至近距離にいる場合のやり方ですよ。無理やり迫られたりだとか、そういうときに使ってください」
なるほど、と、わたしは胸の内でひとりごちる。
単に不審者対策の話をされているのではなく、バーナードもまた、最近の王宮の噂を聞いていたらしい。
お兄様 ─── 陛下が、わたしの結婚を考えているという話を。
陛下が王位についておよそ二年が経った。国内も安定してきたといってよく、わたしにもお兄様にも、結婚の話が持ち上がっておかしくない頃合いだった。
そして、お兄様が結婚するためには、まず、わたしが結婚しなくてはいけない。我が国の事情として、そうなのだ。
ただ、わたしの結婚相手を見つけるのは、非常に難しい。現在、わたしに舞い込んできている縁談は ─── あえて確かめたことはないけれど ─── おそらくゼロだろう。一国の王の妹でありながら、二年前のあの一件以降、わたしは、国内外すべての花嫁候補リストから外れたといってもいい。
まあ、わたしは、今の生活に満足しているから、縁談がないことは構わない。
ただ、わたしが結婚しないと、お兄様が結婚できないという事情は厄介だった。
お兄様は、何とかするとおっしゃっていたけれど、本当になんとかできたのだろうか。
わたしがわずかに考えこんでいると、わたしたちの話を聞いていたサイモンが、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「でも、隊長……。殿下の傍近くに来ることができる方は限られていますし、高貴な方々に対して、その、眼を抉るなんてやったら、大問題になりますから、冗談でもあまりそういう話はしないほうが……」
「問題にならなければいいんだろう」
えっ、どうやって? という顔で、サイモンがバーナードを見る。
わたしもまた、怪訝な顔で彼を見上げた。
近衛隊最強の騎士は、あっさりとした口調でいった。
「死体が見つからなければ発覚しない」
沈黙が落ちた。
サイモンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
わたしは、どこから訂正したものかと額を押さえながらも、かろうじて言葉を選んだ。
「……バーナード、わたしが思うに、眼を潰しても人は死なないわ」
「えっ、そこですか!? 気にするところはそこなんですか殿下!?」
「もちろん、その程度じゃ即死はしません。だから俺が首を落としますよ。まさか、あなたにやらせるとでも思ったんですか? そんな真似、俺がするはずがないでしょう」
「ええ、そう、そうね……。でも、バーナード。……失踪も問題になるわ」
「もっと大事な問題がありませんか!? もっと根本的な!!」
「さっきからうるさいぞ、サイモン。殿下の前で騒ぐな。まぁ、多少は問題になるでしょうが、証拠がなければそれまでですよ。家出をした可能性もあるし、何なら身分違いの恋人と駆け落ちした可能性もある。そうでしょう?」
にこやかにバーナードがいう。
わたしが、なんと言葉を返そうか迷ったときだ。
わずかに困惑顔の侍女がやってきて、陛下付きの侍従の来訪を告げた。
「陛下がお呼びとのことです」との言葉に、わたしは、とうとう、縁談が決まったのだろうかと、頭の片隅で考えた。