第十一話:港湾労働者組合、壊滅
九朧城。底部。
九朧城が現在のように海に沈む以前は『一階』として利用されていた場所。今は魚と海藻と少しの貝類しか住んでいないような、ほぼ廃墟になっている区画。
時刻は夕暮れであり、灰色の雲のわずかな隙間をついて、夕日がかろうじて顔をのぞかせている。
そんな場所に、二人の男がいた。
疲労困憊した様子で、半分海に沈んだ『二階』の窓枠にしがみついている。
コッコが打ち倒して、縛って海に落とした、シャコの兄弟たちだ。
「大丈夫か? ポート」
「うう……回復薬は飲んだのにまだ折られた膝が痛む……」
オレンジ色に染まった海の中に半身をつけたまま、二人は身体を引き揚げる体力も無い。
当然だ。ダクトテープでグルグル巻きにされ、海の底へ沈められた所から復帰しなければならなかったのだから。ナマコのように海底を這い、沈んでいた瓦礫の中の鋭そうな部分にダクトテープを擦りつけてほどいて、ようやく今になって浮かんで来れたのだ。
二人ともフォースフィールドを持つ異能者だ。そのおかげで着水の衝撃で怪我をしたり、海底で窒息したりはせずに済んだ。
だが一連の脱出には体力も霊力も大幅に消費した。今や完全にグロッキー状態である。死なないことは、無事であることを意味しない。
「あの女騎士め……まさか本当に海に落とすなんて」
「悪い。兄貴。やはりもう一口回復薬を貰えるか。膝に力が入らない」
隠し持っていた回復薬を回し飲みする二人。スキットルに入れていたので、多少の衝撃にも耐えられるようになっている。
兄が弟に銀色のスキットルを渡し、弟はそれを一口飲む。そのたった一口でも霊力はすぐに回復し、全身を巡り、細胞を賦活させ傷を癒していく。
霊力。それこそ、かつて月からもたらされたという力。
次元都市に満ちる霊子に作用し、エーテリウムを編んで霊子外骨格を組み上げ、基底現実を切り刻んでフォースフィールドを形成し、霊波となってエーテルネットワークを走る『何か』。
そう。わからないのだ。霊力とその関連技術そのものが、すでに異常存在なのだ。
もちろん。霊力が異能者や異常存在にとって重要なリソースであることは間違いない。異常でなくても、傷や病気を治すとか、生命にとって『何か重要な力』であることも広く認知されている。
だが、その霊力を恵んでくれる『月』が何なのかについては、研究者の間でも意見が分かれている。霊力がどこからきてどこへいくのかについて、答えられる者は誰もいない。
ちなみに『月』はこの都市では『にく』と読まれている。その意味も『肉』とほとんど同じで、今では単に略字として扱われている。
このシャコ兄弟は、『月』の字の読み方も知らないかもしれないが。
それでも、回復薬は役に立つ。
「エイ男の奴も捜しにいかなきゃな。きっとどこかでノビてるはずだ」
「上に報告もしなきゃな……作戦としては失敗だし、全く気が重いことだが……」
窓枠にしがみついたまま、これからのことについて相談する二人。
ここまで時間がかかってしまったので、もはやコッコの足取りを追うのは難しい。ストームルーラーについても、報告しなければならないことが増えた。ただでさえ疲労で身体が重いのに、ますます腰が重くなる。
ため息も出てくる。
ヤキが回ったというにも、あんまりな惨状だ。
そんな時。
「いいや。その必要はない。言いたいことがあるならここで聞こう」
廃墟の暗闇から現れる、白い頬。
窓枠にしがみつく二人を足元に見下ろす、大柄な鮫族の男。
「きょ、局長!?」
港湾労働者組合局長。トニー・ジャオ。
広い肩を器用に作業服に納めて、首元には紫色のネクタイを締めている。
「イナバのねぐらを念のため張らせていたが……その様子だと何かあったんだな?」
「い、いや、ええと……」
しゃがみ込み、鈍色の甲殻に覆われた二人の顔を覗き込むトニー。
「いや、言わんでいい。とっくに事態は把握している。アナトリアの女騎士が出てきて、お前らをぶちのめして行ったんだな? 可愛そうに」
「も、申し訳ございません!」
頭を下げる二人。
元々窓枠にしがみついているだけで、既に十分頭の位置は低い。しかし、これで足りぬなら再び海の底まで沈んででも頭を下げよう。そんな勢いだ。
「集金係の方でも、アナトリアの騎士が出てきたって報告を聞いたしな。赤い髪を二つにくくった、白いコートのタレ目のガキだろ」
「はい。その通りでした。タレ目でした」
「目は金色だったか?」
「はい。金色でした。いけ好かないくらいの金色です」
「メスガキだったか?」
「それとはジャンルが違うと思います」
「……話に聞いた限りだが……似てるな。アイツに。特に金色でタレ目ってのが」
少しだけ、トニーは丸い瞳を遠くの空に向ける。
何かを反芻するように、止まって、また視線をシャコ兄弟に戻した。
「どちらにしても。そんなに実力差があったんじゃあ、お前らじゃ捕縛は無理だったろう。仕方ないさ」
「力が及ばず……」
「いいんだよ。もう気にしてない」
トニーは。極めて落ち着いた口調でシャコ兄弟を諭す。
片手を出して、シャコ兄弟の弟の方の手を握った。
「局長……!」
そのまま、トニーは腕を掴んで、海面から引き揚げて。
ぐしゃ。
シャコ兄弟の、弟の方。ポート・チャン。その上半身が、瞬きする一瞬で消えてしまった。
「……はい?」
残ったシャコ弟の下半身は、血とか体液とか臓物をこぼしながら、ずぼんと音を立てて海中に沈んでいく。
そして。そして。それっきり。
それ以上、シャコ弟には何もない。呼びかけても返事は来ない。
「お前ら、もういいよ。後は俺様がやる」
片手でシャコ弟の『上半身』をひっつかみ、その甲殻ごとばりばりと噛みちぎっているトニー。ゆでエビでも食べるみたいな気軽さ。作業服が血で汚れるにも構わず、むしゃむしゃと咀嚼する。飲み込む。
「ちょ、ちょっと待って局ちょ……」
「遠慮するなよ」
そしてトニーの腕はもう一つある。
ただ片手で掴んで、頭を引きちぎる。特別な技術とかトリックではなく、単純に純粋な暴力。そこには生命を潰すとか、人格を抹消するとか、そういった大きさや重さや熱の通った意志は存在しない。
食べられる木の実を偶然見つけたから、もいで齧ってみたとか。
そんな程度の。意識の『薄い』行動に過ぎない。
「……ふん」
だから、すぐに飽きて、『食べ残し』は海に放り捨ててしまった。
二人がそれっきり浮かんで来なくなっても、トニーはもはや気にしない。忘れている。思い出そうとも思わなくなる。
「やはりダメだな。砂みてえな味しかしない。まあ、こっちの方はそこそこ、役には立ちそうだが……」
トニーは、その霊力で霊子を集めて、エーテリウムを形成する。
祈祷機やMDは、技能を制御するための補助装置でしかない。方法さえ知っていれば、エーテリウムの生成はそう難しい話ではない。
だが、トニーがエーテリウムで形成したのは、左右一対のハサミだった。
カマキリの鎌にも似た、特徴的に大きなハサミ。
「左でジャブ。右でストレート……ね」
ワンツーパンチの要領で、適当な壁に向かって両のハサミを打ち込んでみる。
すると、二つの振動波が壁を伝って進んでいき、ある一点で重なって、そこだけが激しく振動する。轟音と共に、粉々に砕け散る。
そうして破壊されたのは、トニーがいる窓とは別の、何軒も遠く離れた部屋のコンクリート壁だった。
「面白いな。これは、使ってみるのが楽しみだ」
満足げに頷くトニーに、水平線ギリギリまで落ちた夕日が差している。
トニーのその白い頬を、紅く、紅く、紅く照らしている。
「そういえば。アナトリアの騎士は、まだ食べたことはなかったな」
トニーは。大きく裂けた口から、鋭く列を成す牙を覗かせて。
沈む太陽に向かって、凄惨に笑って見せた。
次回。第十二話:マリカの素敵な晩餐会




