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初めましてのレイニー・ブルー

作者: 葉方萌生


僕がその少女に会ったのは、地元の総合病院に入院している母親の見舞から帰る途中だった。田舎の町で、電車なんかほとんど走っておらず、高校生の僕が遠出をするときの主な交通機関はバスだった。

今日も例に漏れず、肺の病気で入院している母親がいる病院へはバスで向かった。

天気予報では晴れと言っていたのに、母に会い、病院から出る瞬間、ポツポツと雨音が聞こえてきた。

うわ、どうしよう。傘持ってないや……。

家に帰るだけなので、多少濡れるのはいいんだけどなあ。

と、病院からほど近いバス停まで歩いていたところ、急に雨脚が強まり、あっという間に土砂降りになってしまった。

「最悪だ」

幸い、目的のバス停は屋根付きのバス停だったため、びしょ濡れにならずに済んだ。

が、この雨いつまで続くのだろう。夕立だから早く止むとは思うけれど、もし長引いた場合、無事にバスに乗れたとしても、降りてから家まで15分はかかる。困った。

僕はスマホに登録しておいた「バスの接近情報アプリ」を開いた。目的のバスは……え、20分遅れ……。

雨の日はよくあることなのだが、ガックリと肩を落として、椅子に座った。

他にバスを待っている人はいない。

耳にイヤホンをつけ、ノリの良いテンポの曲をかける。こうでもしないとこの憂鬱を吹き飛ばせない。

3曲。

聴き終わった時には、バスを待ち始めてから15分は経過していた。再度アプリを確認する。「遅れ25分」の赤文字がチラリ。

くそ〜〜。

これじゃ、宿題終わらないじゃん。英語の予習だってたんまりある。今日も徹夜コースなのか……。

と、より一層深く落胆したとき。

隣に、さっと人の気配がした。

女の子が、いた。

自分と同い年くらいか、年上か。いまいち判然としない。なぜならその人は明らかに日本人ではなかったからだ。

まず、肌が黒い。

長い黒髪は丹念に編み込まれて後ろで一つに括られていた。目は大きくて鼻はくっきりと鼻筋が通っている。彼女の生まれた国では間違いなく「美人」な部類に入るだろう。

それだけでかなりのインパクトだったのだが、何か物言いたげな様子で僕を見つめていたので、なんとなく無視できずに話しかけた。

「は、はろー」

「Hello」

お、通じた! 学校では英会話など全く勉強していないため明らかに不自然な発音だったにもかかわらず、彼女はふっと頬を緩め、笑ってくれた。

「あの、どうかされましたか?」

ここからは僕の拙い英語と彼女の流暢な喋りの攻防戦が繰り広げられた。といっても、僕の方が英語をあまり話せないと悟ったらしい彼女が、簡単な言葉でゆっくりと発音してくれたため、なんとか会話をすることができたのだが。

「泊まれるところがないか探していたら、水が、空から降ってきて困っていたんです」

ん。

彼女は今、なんて言った。

「水が空から降ってきた」? 

雨のことをそんなふうに表現する人と初めて出会ったので、僕は「雨のこと?」と聞き返す。

「雨……? ああ、これが、“雨”なんですね」

WowとかOhとか呟きながら、突然彼女は目を輝かせて降り続く雨を眺めていた。なんだ、何がどうしたっていうんだ。雨でこんなにテンションが上がる人間がこの世にいたのかと不思議に思う。

「失礼ですが、どこから来たんですか?」

「遠い国です。ご存知かは分かりませんが……」

彼女は伏し目がちに、とある国の名前を口にした。名前は知っている国だったが、それを世界地図に当てはめるとどの辺に位置するのか、地理が苦手は僕には判然としない。ただ、その国が日本からは遠いところにあるということだけはなんとなく分かった。

「私の国は一年中暑くて、めったに雨が降りません。実は私、今初めて雨を見ました」

なんということだ。

かなり遠い国から来た黒人の少女と話をしているというだけで僕にはとても珍しい出来事で、だぶんこの田舎で暮らしていればもう二度と味わうことのできない体験だと思っていたのに。

加えて彼女は今日、人生初の“雨”を体験したというのだ。

先ほどよりも強く激しく降る雨が、時折僕の足下で跳ね返って足を濡らした。彼女はサンダルを履いており、とっくに足の裏までびしょ濡れになっているだろう。

「雨、うっとうしいでしょう。どうしたって濡れちゃうし、傘を忘れた日なんか最悪です。今の僕みたいに」

僕が自虐ネタで自分の鼻を指して笑って見せると、彼女もふっと頬を緩めて微笑んでくれた。初めて見えた彼女の笑顔が僕の心に優しい灯火をつけてくれた。

「そういえば、名前、聞いてもいいですか。僕は三秋輝良(みあきあきら)といいます。あ、今18歳です」

自己紹介をする時、僕は決まって語呂遊びみたいな自分の名前をありがたく思う。一度聞けば覚えてくれる人がほとんどだから。

彼女は、「ミアキ、アキラ」とたどたどしく発音をし、僕の名前を必死に覚えようとしてくれているようだった。なんだかその光景が、初めて言葉を喋った小さな子供みたいで可愛らしかった。

「私は、アンリ。もうすぐ16歳。よろしくね、アキラ」

にっと白い歯を見せて握手を求めてくるアンリ。日本人同士だと、初めましての際にこういうフランクな態度を取れないので、ドキドキしながら彼女の手を握った。

アンリは歳下だった。

外国の人って、どう見たって大人っぽく見える。彼女の年齢を聞くまで、もしかしたら大人な女性なのかもしれないと思い緊張していた。

しかし、歳下だと分かると一気に心が和んだ気がする。

「アンリはどうして日本に来たの?」

見たところ、家族や友達と旅行に来ているという感じはしない。もしも観光目的で日本に来たのならば、どこの観光雑誌をあさっても載っていないような田舎町ではなく、いかにも観光地らしい場所に行くだろう。


彼女は僕の質問に、しばらく口をつぐんでいた。僕は、自分の英語がどこかおかしかったのだと思い、「えっと」とうろたえる。しかし、降り注ぐ雨の線見つめる彼女は、憂のあるまなざしで何度か瞬きをした。

その瞳は、明らかに僕の質問になんと答えようか迷っていると語る。

「信じてくれないかもしれませんが」

決心がついたのか、アンリはそう前置きをして話し始めた。

「私は、自分の国から逃げてきたんです。とある国の皇子と結婚させられそうになって。その人のこと、そうしても好きになれなくて……。それが嫌で日本に逃げてきました」

彼女の言う内容は、およそ僕の想像力がおよぶ範疇を超えていた。訳ありなんだろうとは思っていたが、まさかそんな物語の出来事のようなことが原因で、遠い国に一人で来ているなんて。

ん、待てよ。

今彼女は、「とある国の皇子と結婚させられそう」だと言った。それって、いわゆる政略結婚というやつか? まがいなりにも受験生である僕は、歴史の授業で覚えた単語で彼女の状況を整理しようと努めた。

「そうだったんだ。大変だね。“政略結婚”だなんて、アンリは貴族なんだ」

いつの間にか彼女に心を許していた僕は、先ほどよりも堂々と英語を話すことができている。

彼女は僕の言葉に、頬を染め両手をぎゅっと合わせて握り込んだ。

「こう見えて私、王女なので……」

もじもじと、アンリは肩を揺らしていた。とても恥ずかしい告白をしてしまったという意識が、彼女の中にあるようだ。

「え、いま、なんて? プリンセス?」

これまた予想だにしていなかった彼女の言葉に、僕は彼女のことを二度見した。

ようやく普通に会話ができるようになってきた相手が、急に神々しく輝いて見える。

こんなことがあっていいのだろうか。

今頃、彼女のお国の人たちは大騒ぎをしているのでは。

というかその前に、いま自分と話している少女が本当にそんなたいそうな身分の娘だなんて、信じられない。

しかし、彼女の左手の薬指にはまっているダイヤモンドの指輪が僕の目に飛び込んできて、彼女の話に説得力を与えた。

「はい。信じてもらえなくても良いです。その結婚の憂鬱が、晴れたらいいなって思ってるだけだから」

先ほどよりも強く握り込まれた彼女の両手が、痛々しく思えてきた。


相変わらず雨は止まない。夕立なのに、意外と息が長い。アンリの気分がこれほど落ち込んでいる時にもかかわらず、意地悪な雨だな。


雨に人の心を読めという方が無理のある話なのだが、どうせなら彼女にもっと美しい景色を見せたかった。ここは田舎で観光地は何もないけれど、晴れた日に青々と連なる山が見える時は、心が洗われる気がするのだ。


「正直、びっくりしたよ。まさか君みたいな外国の女の子が、王女だなんて。あ、いや変な意味じゃなくて。こんなところで出会ったのが、奇跡だと思って」


まったく僕は、何を言っているんだろう。

出会ってすぐの女の子にこんなクサイ台詞を吐くなんて、どうかしている。

けれど彼女は、僕の心とは裏腹に、もともと大きかった目をさらに大きくしてこちらを見つめた。

「……確かに、奇跡かもしれないです」

「え?」

「これまで私、普通に誰かと会話をするにも常に監視されてきました。私を護る人たちが私に危険が及ばないようにそうしてくれていたのだけれど、それがとても窮屈で。だからこうして、あなたと話せるだけでちょっと心が軽くなりました」

「本当に?」

「はい。私が言うんだから、間違いありません」

胸を張って断言する彼女が、しっかりと意思をもった一人の人間であることを感じさせ、僕の胸がジンと熱くなった。

「私、帰国したら言おうと思います。アキラと話していて勇気が湧きました。皇子と結婚する話、一度考え直して欲しいって。それがもし叶わなくても受け入れる。私の役目は、国の人たちを守ることだから」

アンリは歳下なのに、僕よりもずっと自分を貫いているように感じた。思えばこうして一人で遠い異国に来ることだって、どれだけ勇気がいっただろう。

それに比べ、僕は……。

「アンリは、強いね。僕は君が羨ましいよ。アンリはきっと、幸せになれるさ。その隣国の皇子と結婚するにせよ他に好きな人ができて、その人と結ばれることになったとしても。

アンリみたいに勇敢な女性を、僕は見たことがないからね」

心から、そう思う。


お、少しだけ雨が弱まってきた。チラリとスマホのアプリを見ると、あと10分ほどでバスが到着するらしい。

ほっとすると同時に、少しだけ淋しい気もした。バスが来れば、彼女ともお別れだろう。


「ありがとう、アキラ。アキラは何を悩んでいるの?」


どうしてか、彼女は僕に悩みがあるのだと見抜いていた。

彼女が国を守らなければならない立場にあるせいだろうか。いま、隣で話をしている人物の機微を察知する力に長けているのだ、きっと。


「僕は……。進路のことで、ちょっとね」

「進路? それって、将来とか未来とかそういうの?」

「そう。でも、すぐそばにある未来。大学をどうするのか、とか就職するのか、とか。アンリの悩みに比べたらちっぽけで、笑っちゃうだろ」


高校三年生になってからというもの、先生や周りの友達の間ではもっぱら「どこ大学を受験する」という話題で持ちきりになった。

僕の通う高校は進学校のため、ほとんどの人が大学を受験する。それは、先輩たちの進路を見ても明らかだった。

自分には到底及ばないような名だたる有名大学の数々。地元から通えてそこそこレベルの高い大学。お金はかかるけれど就職に強いと言われる私立大学。

皆一様に大学受験の憂鬱や進学先の話題を語らった。

もちろん、僕もその中の一人になるはずだった。

高校三年生の春を迎えるまでは。


今年の4月に、母が病気で入院をした。僕には父親がおらず、母が女手一つで僕を育ててくれた。もちろん、働くのも家事をするのも母一人。家事は妹が手伝うこともあったが、僕は何もしていなかった。

そんな母が入院したのだ。幸い、命に関わるような病気ではないが、放っておけばどうなるか分からない。手術や入院費にお金がかかる。今は保険でなんとか賄っているが、いつ何が起こるか分からなかった。


そんな中で迎えた受験という問題。

僕はもともと周りの皆と同じように大学受験を希望していたが、その気持ちが今では揺らいでいる。


「どうして? それって立派な悩みだと思います。少なくとも私には、あなたの苦しそうな声が聞こえます」


アンリは僕に近づき、右手のひらを僕の胸に当てた。

突然のことに、僕は驚く。心臓がドクンと大きく跳ねた。どうしよう、今の、絶対彼女に伝わったはずだ……。

年下の彼女に、しかも外国とはいえ王女だと名乗る少女に、僕は良い意味で心を荒らされている。


「アキラ、本当は自分で“こうしたい”って思うことがあるんでしょう。だからこそ、悩んでいるんじゃないですか」


ど真ん中だった。

彼女が僕の心のど真ん中に触れた。


「……そうだね。君の言う通りだ」

「よかったら聞かせてください。ただ聞くことしかできませんが。私はあなたと無関係な人間だから。変なわだかまりも生まれないでしょう」

優しい彼女の求めに、気がつけば、僕は自分の思いを全てぶちまけていた。


「英語を勉強したいんだ。そのために、外国語大学に進学したい。でも、うちの母親が入院してて。迷惑かけられないなってね。妹もいるし、僕が我慢すれば妹は確実に大学に行ける。僕が働けば、母さんは楽できる」


家族のことを思えば思うほど、夢を見る自分に罪悪感を覚えた。

僕が自分のやりたいことを優先すれば、家族を不幸にするかもしれない。

そんな考えが頭から離れず、今日も病室で母と喧嘩をしてしまった。

母は、僕がやりたいようにやれと言う。行きたい大学に行けと言う。

けれど、僕はこれ以上母を困らせたくなかった。

何が正解なのか、どうすれば家族みんなが幸せになれるのか、分からない。

こんなこと、赤の他人のアンリに話したところでどうなるわけでもないのに。不思議と母性あふれる彼女を前にすると、全てを包み込んで許してもらえると思った。


「やっぱり」


僕の吐き出した想いを聞いて、彼女は深く頷いた。何を納得したんだろう。


「あなたの欲しい“答え”はこの胸の中にあるわ」


今度はトンと僕の胸を軽く突く。


「アキラがやりたいようにすることが、お母さんを幸せにすることではないでしょうか。私は、政略結婚を迫られて、国の偉い人たちは皆私と皇子を結婚させようと必死です。国を発展させるために。でも、私の母や父は、本当は私が幸せになることを望んでいるのだと信じています」


いや、信じてみたいと思いました。今日この場所で。


彼女が白い歯を見せてニコリと笑う。

ほら、見てください、と彼女が遠くの空を指差した途端、いつの間にか雨の音が聞こえなくなっていることに気づいた。


雨と霧で先ほどまで見えなくなっていた山たちが少しずつ姿を現した。雲の切れ間から、光の筋が降りてきて、濡れた地面や草木をキラッと輝かせる。

夕暮れ時。橙色の光は、雨が降らない日より一層、雨上がりの今日はその美しさを際立たせた。


「綺麗……」


思わず口に手を当てて目の前の自然の景色に心を奪われているアンリが、世界で一番美しい生き物だと感じた。


僕たちは今日、「初めまして」でお互いの憂鬱を晴らした。

なんだか不思議な出来事だ。


遅れてきたバスがようやくバス停の前に泊まった。僕はバスに乗り、彼女の方を振り返る。


「一緒に、来ない?」


泊まる場所を探していると言っていた彼女。ここに一人置いていくのは憚られたので、僕は彼女に手を伸ばす。

——というのは建前で、本当は少しでも長くアンリと一緒にいたかった。

さすがに、うちには泊められないけれど、一緒にホテルを探すことくらいはできるだろう。


「ありがとう。喜んで」


アンリの手が僕の手に触れた。


バスの運転手が発車のアナウンスをして、バスはゆっくりと動き出す。僕たちの人生は、ここから始まるのかもしれない。


家に帰ったら、まずは妹に相談してみよう。そして、母さんにも。


雨の日は憂鬱だけれど、今日ばかりは心が晴々とした。アンリとの「初めまして」のおかげだ。



【終わり】



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