二、呂布の決意
董卓はその日のうちに下知して郿塢へと戻り、百官は倶に拝礼して見送った。
貂蝉は車上にあったが、稠人の中、遥かに見えるは呂布の姿。彼の眼差しが車中に向けられている事を察して、貂蝉は偽ってその面を掩い、痛哭の体を装った。
車が遠く過ぎ去ったのち、呂布は土岡の上に轡を緩め、その巻き上げる塵埃を眺めやり──そして歎惜した。もはや、取り返しのつかぬものかと。
忽ちに背後の一人が問うてきた。
「温侯は何ゆえに郿塢まで付き従わず、ここで遥か先を眺めて慨歎しておられるのですかな?」
呂布がかの人を見やれば、これぞ司徒王允である。
「やつがれは此の所微恙(軽い病気)を患っておりましてな。門を閉じ、外出せぬようにしていた故に久しく御目通りがかないませんでした。今日は太師が郿塢へ戻られるそうで、病をおして見送りに参ったのですが、却って喜ばしき事に将軍にお晤いできました。ところで……将軍は何故このような所で長嘆しておられるのです?」
呂布は言う。
「まさしく、司徒どのの娘御の為だ」
王允は仰天して言った。
「あれから随分経ちますが、いまだなお娘と将軍との結納がお済みになられていないとは」
「貂蝉は、あの老賊から寵愛されてすでに久しいぞ」
王允またも驚いて、
「そんな事が……! 俄かには信じられませぬ」
呂布がこれまでの次第を告げると、王允は天を仰いで地団駄を踏み、暫しの間閉口していたが、ややあって、
「太師がかくも禽獣のごとき振る舞いをなさるとは、思いもよりませんでしたぞ!」
かくて呂布の手を引き、王允は言う。
「一旦我が家へお越しくだされ、話し合いましょう」
呂布は王允に隨いてその邸宅へ向かった。個室へと通され、歓待の酒宴が開かれると、呂布は鳳儀亭での出来事一遍を事細かに告げた。
王允は歎息して、
「太師は我が娘に淫虐を働き、将軍の妻をも奪った事になりますな。まこと天下の物笑いにございますが、笑われるのは太師ではなく、その横暴を放置しているやつがれと将軍にございますぞ。しかるに、やつがれは老邁にして無能の輩、事を為すには不足というものです。惜しむらくは、将軍のごとき蓋世の英雄ですらもまた、かような恥辱を受けたままなす術もなく事態を傍観しておられる事で……」
呂布はもはや天をも貫かんばかりの怒りの形相で、机を叩いて咆えた。王允は慌てて、
「老いぼれが失言を申しました。将軍よ、怒りをお収めくだされ」
呂布が、
「あの老賊めを必ずや殺す事を誓う。そうする事で、我が恥を雪いでくれようぞ!」
と述べるや、王允は急ぎその口を掩った。
「将軍、滅多な事を仰るものではございませんぞ! この老いぼれにも累が及ぶかと思うと、震えが止まりませぬ」
「大丈夫が天地の間に生まれ落ちながら、どうして鬱々として久しく人の下におれようか!!」
「将軍の才を以ってすれば、確かに董太師を制する事もかないましょうが……」
呂布はそこで肩を落とす。
「ただ、あの老賊を殺したいと内心で考えてはおっても、いざ実行に移せば親子の契りを違える事になってしまう……。さすれば俺は後世の人々に何と言われよう、それが気掛かりなのだ」
王允は微笑を浮かべた。
「将軍の姓は『呂』、太師の姓は『董』ですぞ。方天画戟を投げ付けられた時、果たして親子の情愛などはございましたかな?」
呂布は奮然として、
「……そうだ。司徒どのの仰る通りだ。俺は、自らを誤るところであった!」
王允は呂布の胎が已に決まったと見るや、このように説いた。
「将軍がもしも漢室を扶翼なさるのであれば、すなわち忠臣と申せましょう。青史に名は伝えられ、百世に芳声が流布されます。将軍がもし《《董卓》》を助けようとなさるのならば、すなわち反臣にございます。あなたの伝を描く史家の筆は、万年に臭聞を遺しましょうな」
呂布は席を離れ、王允に跪拝して言った。
「俺の意は已に決まった。司徒よ、疑ってくれるな!」
王允、
「ただ恐れるのは、事が成就せねば、反対に大禍を招くという事です」
すると呂布は刀を抜き放って臂を刺し、滴る血潮を以って誓約を立てた。王允は跪き、拝謝する。
「おお……おお。漢の祭祀が断たれずに済みます。将軍の義挙を皆が歓迎いたしましょうぞ。決してこの事は他言せぬようにお願いいたします。機会を見て、計略が定まればまた互いに報せ合いましょう」
快諾した呂布が去って行くと、王允は即座に僕射の士孫瑞、司隸校尉の黄琬との間に話し合いの席を設けた。
士孫瑞の見解としては、
「今は主上のご病気が癒えたばかり。一人弁の立つ者を郿塢へ使いに遣り、董卓との会合の場を設けましょう。一方で呂布に天子の密勅を授けて朝廷の門内に武装兵を埋伏させ、董卓が入ってきたら誅戮する──これが上策と申せましょうな」
「なるほど……。誰を行かせましょうか」
黄琬の問いに士孫瑞答えて、
「呂布と同郡の出である、騎都尉の李粛がよいでしょうな。董卓の手により今の官職に降格させられ、甚だ恨みを抱いておるそうです。董卓にしても、かつて目をかけていた男ですから、彼がやって来たとあれば疑う事はございますまい」
王允は「よし」と言い、呂布へ協議を請うた。
呂布が言うよう、
「李粛か。昔日、俺に丁原を殺すように勧めたのもあの男であったな。もし彼が董卓への使者に立つ事を肯んじぬようであれば、俺が先に斬って捨てる」
かくて、秘密裏に李粛のもとへ人が遣わされ、呂布は彼に対して述べた。
「以前、貴公は俺に丁原を殺し、董卓に帰順するよう説いたのであったな。今、董卓は上は天子を欺き、下は生霊を虐げており、罪悪は貫盈し、人も神も共に憤っておる。そこで、今度もまた頼まれてもらいたいのだが……貴公は天子の詔を郿塢へと伝え、董卓を入朝させるのだ。兵を埋伏させてやつを誅戮し、協力して漢室を扶翼し、共に忠臣となろう。さぁ、ご尊意は如何か」
李粛、
「私の方でも、兼ねてよりあの国賊を除き去りたいと考えておりましたが、心を同じくする者がおらぬ事を悔やんでおったのです。今、将軍がかくの如くに思い立たれた事、まさしく天意でしょう。あな、私がどうして二心を抱きましょうか」
かくて箭を折って誓いとすると、王允は雀躍した。
「貴公がこの大事を務め得たならば、顕官になれぬ心配なぞする必要はございませんぞ」




