六、鳳儀亭の逢瀬
董卓は病が癒えると入朝して議事を為し、呂布は方天画戟を手に随伴した。
董卓が献帝に見えて共に談合している間に、呂布は戟を提げたまま内門から出て行き、相国府へと馬を走らせた。馬を府の前に繋ぎ、画戟を離さず後堂へと立ち入ると、間も無く玉のような美姫の姿を認めた。貂蝉である。
「ここでは人目もございます……。庭園の奥の鳳儀停にてお待ちください」
呂布は言葉の通り径を往き、鳳儀亭の曲欄、その傍らに佇む。ややあって、貂蝉が花を掻き分け、柳を払って現れたが、果たせるかな、呂布には月宮の仙女のように見えていた。
貂蝉が涙を流して呂布に言うよう、
「妾は王司徒の血を分けた娘ではありませんが、実の娘のように可愛がられて、いつの日にか英雄に妻わせると仰っていたのです。将軍にお会いしてより、お側に参りまして箕帚する事で、妾の常日頃からの願いが叶うと考えておりましたが……董太師が邪なお考えを抱かれる事を、誰が想像し得ましょう。妾は、淫らに汚されてしまったのでございます」
呂布は堅く拳を握りしめている。
「直ちに死のうとも考えましたが、将軍に一言だけでもお別れを告げたくて、生き恥を偲んで参りました。今、幸甚にもお目にかかれたからには、もう思い残すところはありません。この体は已に汚され、もはや英雄に仕える事も出来ません。あなたの前で死ぬ事で、妾の思いが嘘偽りでない事を示したいと思います」
言い終えるや貂蝉は曲欄へ手を掛け、蓮池へ身を投げようとした。呂布はそれを慌てて抱き寄せ、涙ながらに言った。
「俺には、お前の心が変わらぬ事はわかっている! ただ共に語らえぬ事を恨めしく思っておったというのに」
貂蝉は呂布の手を引いて、
「今生であなたの妻になれないのなら、来世で契りとうございます」
「今だ。お前を今世で伴侶にできねば、英雄を名乗るなどとは烏滸がましい」
「今の妾には、一日が一年のように感じられます……! ああ将軍、妾を憐れんでくださるのなら、どうか、お救いくださいませ」
貂蝉を救う──呂布の脳裏に董卓の恐ろしい顔が過った。
「……俺は今、いとまを盗んでここに来ている。老賊に疑われはせぬかと心配だ。今は速くここを離れねばいかん」
貂蝉は去ろうとする呂布の衣を引いた。
「あなたは、どうしてそこまであの老賊を懼れているのですか。妾の身は、太陽を見る事も許されないのですか……?」
呂布はすぐに向き直り、
「俺がようように良策を立てるから。必ずまた来る。……今は、受け入れてくれ」
語り終えるや、方天画戟を提げて立ち去ろうとする呂布であったが、貂蝉は口を閉じない。
「妾が閨房の奥深くにいた間、あなたの雷轟の如き名望を耳にしました。あなたは……この世にただ一人の英雄だと! それが反対に、他者からの掣肘を受けているなどと……一体誰が想像し得たでしょう!」
そう述べるや大粒の涙を流す貂蝉。
羞恥と慚愧とを満面に湛えた呂布は、画戟を強く握りしめると、身を返して貂蝉を抱き締めた。先程と打って変わって、安慰の言葉が湯水の様に湧いてくる。
二人は寄り添い、また寄り添い、互いに離れる事を忍べずにいた。
さて一方、殿上で語らっていた董卓であったが、いつの間にやら呂布の姿が消え失せている事に胸騒ぎを覚え、献帝との会見を慌てて切り上げると、車に乗って相国府へ引き返していた所であった。
見ると府の前には呂布の馬が繋いであり、次第を門番に尋ねてみれば斯様な返答、
「温侯が後堂に入られたまま、まだ戻ってきておりません」
董卓は左右に怒声を浴びせて退がらせると、道に従って後堂の中へ立ち入ったが、呂布の姿は見えず。貂蝉を喚呼したが、こちらの姿もまた見られない。
急いで侍女に問いただすと、
「貂蝉さまなら、後園で花を愛でておいでしたが」
董卓が立ち所に後園へと至ると、鳳儀亭のもとに果たせるかな男女の影、男の片手に方天画戟──呂布と貂蝉が仲睦まじい様子で語らっているのがちょうど見えた。
「何をしておるか!!」
怒りの董卓が大喝一声。主君の出現に大いに驚いた呂布は、身を翻し、慌てて逃げ出そうとした。
怒ると見境のない董卓である。すれ違いざま呂布から画戟を奪い取ると、そのまま突き刺そうと迫って来た。
しかし呂布は健脚であり、董卓は肥満体ゆえに鈍重、追い縋る事などは出来ようはずもない。
「呂布ーっ! 貴様、逃がさんぞぉっ!!」
追いつけないと悟るや、董卓はあろうことか呂布に向かって方天画戟を力一杯投げつけてきた。
常人なら間違いなく死んでいるところであるが、そこは一騎当千の武勇を持つ呂布、飛んできた画戟を打って地に落とし、董卓が拾おうとする間に、はるか遠くへ逃げ去ってしまった。
呂布を追って園門を出た董卓は、飛び入ってきた何者かと鉢合わせとなり、その場に倒れ伏した。
まさに天にも届かん千丈の怒気、地に伏す肥躯に一群を作す、といったところ。
さて、この人物は一体誰なのか。
それはまた次回にて。
──第八回、おわり──




