六、曹操孟徳
さて、盧植の軍営まで至った劉備、帳に入りて礼節を施し、つぶさにやって来た次第を告げた。
盧植は大変に喜び、かつての教え子を帷幄に留め、昔話に花を咲かせた。
時に張角の軍勢は十五万、対する盧植の兵力は五万、広宗にて相防ぎ合っていたが、いまだに決着の着く気配はなかった。
盧植は劉備に述べた。
「私は今張角を囲んでここから動けぬが、やつの弟の張宝と張梁が潁川におり、彼方は皇甫嵩と朱儁が食い止めている。玄徳よ、お前に私の兵を一千預けよう、元々部べていた人馬とともに潁川へ向かい、官軍と協力して賊を打倒するのだ」
劉備は拝命し、その日の夜に軍を引き連れて潁川へ発った。
この時、皇甫嵩と朱儁の統領する軍勢が賊を防いでいたが、なかなか下す事が出来ず、長社まで退いて草原に陣を結んでいた。
皇甫嵩と朱儁の計略としては、
「賊が草原に布陣してきたら、火攻めを用いるべきだろうな」
かくて兵士たちに命じ、それぞれに束ねた草を一掴み持たせた上で草陰に埋伏させた。
その夜、俄かに大風が巻き起こり、二更の以後に一斉に火が放たれた。皇甫嵩と朱儁はそれぞれ兵を率いて賊の根城に攻め入り、火の手は天まで焦がさんばかりに舞い上がる。賊軍慌てふためき、馬に乗る事も鎧を着ける事も適わぬまま這う這うの体で奔走していった。張宝と張梁は敗残兵を引き連れ、光に群がる虫のごとく、道を争って脱出しようとした。
そこへ怱卒と、一様に紅の旗をはためかせ、賊の行く手を遮るように陣頭に躍り出た一団が。閃光のように罷り出でし首魁の将は、身長七尺(169センチ)、細いまなこに長い髭、官位は騎都尉に拝されて、生まれは沛国譙県なり。
彼こそは姓は曹、名は操、字を孟徳である。
曹操の父・曹嵩はもともと夏侯姓であったが、中常侍の曹騰の養子となったことに因み、姓を曹と改めたものである。曹操の幼名は阿瞞、また一名を吉利といった。
曹操は幼い頃放蕩三昧、歌舞を好み、権謀を善くし、機智に富んでいた。放蕩ぶりが度を過ぎていたため、ある時叔父が曹操を叱り、曹嵩に言い付けた事があった。曹操はすぐに一計を案じ、叔父の見ている前でわざと倒れて、
「中風で動けないんです」
と、偽って述べた。吃驚した叔父からの知らせを受け、曹嵩が慌てて曹操の様子を見に来たが、当の曹操は素知らぬ顔である。
「そなたの叔父が『中風で動けない』と言っておったが……もう治ってしまったのか?」
と訊ねられ、曹操は、
「私は初めから中風なんぞに罹っていませんが? 叔父さんは私の事を嫌っていますから、嘘を吐いたんでしょう」
曹嵩は曹操の言葉を信じ、以降は一切叔父の言葉に対して聞く耳を持たなかった。こうして、曹操の放蕩ぶりはますます酷くなったという。
当時、橋玄という者がおり、曹操に対してこのように言ったことがある。
「天下がまさに乱れようという時、『命世の才』でなければ国を救うことはできまい。できるとすれば……それは、君であろうか?」
また、南陽の何顒の言。
「漢室はまさに滅びようとしている。天下を安んじられる者がいるとすれば、間違いなくこの男だろう」
そして汝南の許劭。彼は人物批評の第一人者として知られており、曹操に見えてこう述べている。
「君は、治世の能臣、乱世の奸雄である」
曹操は許劭のこの言葉に大喜びしたという。
その後、二十歳で孝廉に推挙されて郎となり、洛陽の北部都尉に任命された。曹操は赴任してすぐに五色の棒を十本余り作らせ、四方の門に懸けておいた。禁を破る者がいれば、たとえ豪右貴族であろうと必ず罰した。
中常侍の蹇碩の叔父が刀を提げて夜行した際、曹操はちょうど警邏を行なっており、これをひっ捕らえて棒刑に処した。この事から、内外で敢えて法を犯さんとする者はいなくなり、曹操の威名は洛陽中に響き渡ったのである。
その後曹操は頓丘の令となり、黄巾の乱が起こるに及んで騎都尉を拝命した。率いし歩兵騎兵は五千、潁川の戦の助勢に参上した所であった。張梁と張宝が敗走する段となって曹操は退路を塞ぎ止め、黄巾を一網打尽、万余の首級をあげ、旗指物を奪い取り、金銀鼓馬といった多大な戦利品を獲得した。
張梁と張宝は血路を開いて逃げ延びたが、曹操は皇甫嵩と朱儁が通過したのを見るや、すぐに追撃に出た。