一、陳留にて再起
〜この回から登場する人物〜
・陶謙(恭祖)132〜194
揚州丹陽の人。後漢の徐州刺史。正史ではしたたかな戦略家、演義では仁徳の人。
・馬騰(寿成)?〜212
扶風茂陵の人。西涼にて名高い存在。馬超の父。
・夏侯惇(元譲)?〜220
沛国譙県の人。曹操とは縁族に当たる剛毅なる将。
・夏侯淵(妙才)?〜219
夏侯惇の族弟。弓術に長ける。
・曹仁(子孝)168〜223
曹氏一族の将。若い頃は粗暴だが、徐々に一廉の名将に成長。
・曹洪(子廉)?〜232
曹氏一族の将。正史では助平で吝嗇家。演義では血気盛んな猛将として描かれる。
・楽進(文謙)?〜218
曹操配下の将。陽平衛国の人。
・李典(曼成)?〜?
曹操配下の将。山陽鉅鹿の人。
・程普(徳謀)?〜?
孫堅配下の将。右北平土垠の人で、鉄脊蛇矛の使い手。
・黄蓋(公覆)?〜?
孫堅配下の将。荊州零陵の人で、鉄鞭の使い手。
・韓当(義公)?〜226
孫堅配下の将。遼西令支の人で、大刀の使い手。
さて、陳宮は今にも曹操を殺めんとしていたが、忽ちに思い直した。
(私は国家の為にこの男をここまで逃したのだ。それを殺すのは不義というもの……。孟徳よ、これでお別れだ。私はどこか別の所へ行こう)
かくて剣を鞘に収め、夜が明ける前に陳宮は東郡へ身を投じた。
やがて目を覚ました曹操、陳宮の姿が見えないので尋思する。
(陳宮は前後に渡る我が言動から、私を不仁と見なして捨て去ったか……。久しく留まっているわけにはいかん、すぐにこの場を離れねば……)
かくて連日連夜馬を飛ばし、遂に陳留まで辿り着いた曹操は、すぐに父親に見えて経緯を話した。そして「家財を掻き集めて義兵を召募したい」と申し出たところ、父は言った。
「操よ、我が家には貯えが少なく、全て吐き出したとて成功は望めそうにない。ただ、この界隈には※孝廉の衛弘どのがおる、義を拠り所として巨万の富を築いたお方だ。もし彼の援助を得られれば、事を図ることも出来るのではないか」
(※世語には、孝廉の衛茲とある)
曹操は即座に宴席を設えて衛弘を自宅へ招き、このように告げた。
「今漢室には主無く、董卓が権威を弄んで君を欺き民を害す有様に、天下は切歯しております。私は社稷を救う事を志しておりますが……力が足りない事が恨めしい! そこで、あなたを忠義の士と見込んで、援助を求めに参じた次第です」
「私も久しく社稷の為に働きたいと願いつつも、いまだ英雄に出会えぬ事を悔やんでおったが、天は既に孟徳の如き大志を抱く英才を世に遣わしていたか……! 是非こちらからもお願いしたい、援助は惜しまぬ」
曹操大いに喜び、こうしてまず偽詔が発布され、早馬で各地に伝えられた。然るのち義勇兵を招集し、集めた兵に「忠義」の二文字を記した白旗を豎起させようとしたものである。
そして、数日と経たぬうちに呼び掛けに応じた勇士が雨の如くに結集した。
一日、陽平衛国の楽進、字を文謙、そして山陽鉅鹿の※李典、字を曼成が曹操のもとへ馳せ参じた。
(※正史では李典の従父の李乾が曹操に早くから付き従っていた)
また、沛国譙県の夏侯惇、字を元譲という男がいる。
彼は前漢の夏侯嬰の後裔であり、独学で槍術を嗜み、十四歳のときに師に就いて本格的に武芸を学んだ。その師を侮辱した者を殺害して隠遁していたが、曹操がこのたび挙兵するという噂を聞きつけ、族弟の夏侯淵とともにそれぞれ壮士千人を率いて合流してきたものである。
曹操の父はもともと夏侯氏であったが、曹家の養子となった経緯があり、曹操と夏侯惇・夏侯淵とは本来同族の兄弟に当たる間柄であった。
数日経たぬうちに、曹氏の兄弟である曹仁と曹洪もそれぞれ千人を率いて曹操の援助にやって来た。曹仁の字は子孝、曹洪の字は子廉といい、ともに兵馬の指揮に熟練、武芸に精通している猛者であった。
夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、楽進、李典といった将が次々と幕下に加わった事で曹操は大いに喜び、早速村中にて兵馬の調練を始めた。衛弘は家財の悉くを差し出して、曹操軍の為に鎧や旗を調達。曹操が董卓打倒の為に起ち上がったと聞いて、四方から糧秣を送ってくる者が後を絶たなかった。




