四、孫堅文台
十里ほど引き下がって幕営を張った朱儁が反撃に転じようとした折り、東のかたから出し抜けに一群の兵馬が到来した。その主将、広い額に闊き顔、虎の体に熊の腰、呉郡富春に生を受く、姓は孫、名は堅、字を文台である。
この孫堅、孫武の後裔である。
彼は十七歳の時、父とともに錢唐へ向かった折に、海賊が商人達の財物を掠め取り、それを岸辺で分け合っている場面に出くわした事があった。
孫堅は父親に、
「この賊どもは撃ち破る事ができます。私に討たせてください」
と述べると、かくて奮然と刀を手に取って岸に上がり、大きな声で威嚇するとともに手で東西に指図をして、あたかも大勢を喚呼しているかのように見せかけた。官兵が自分たちを捕まえに来たのだと勘違いした海賊達は、即座に財物を放り出して逃走、孫堅は更に海賊どもを追い、首級を一つ挙げて戻ってきたという。
この一件で孫堅の名は周囲の郡県に広まり、推挙を受けて校尉となったものである。
その後、会稽の妖賊の許昌が朝廷に造反、「陽明皇帝」を自称して数万の軍勢を集めた。孫堅は郡司馬とともに義勇兵を募り、集った千人を組織して州郡の軍勢と協力、見事に許昌を討ち果たし、その子の許韶をも斬首した。揚州刺史の臧旻が戦功を上奏して孫堅は塩瀆県の丞に除され、やがて盱眙、下邳の丞に遷った。
そして、黄巾の乱が起こるに及んで、郷里の若者や行商人を集め、淮水・泗水の精鋭千五百人余りと募兵に応じた次第であった。
揚州で勇名を馳せた孫堅の加勢を朱儁は大いに喜び、ただちに孫堅に命じて南門を、劉備に北門を攻撃させ、朱儁自らが西門から黄巾を叩いた。三方面からの一斉攻撃を受けた黄巾は、果たして東門から逃走していった。
先陣を切って城壁によじ登り、賊徒二十余りを斬り倒すは呉の虎孫堅。黄巾が壊乱する最中、趙弘が馬を飛ばし、直接孫堅を討ち取らんと槍をしごいて突きかかったが、孫堅は軽やかな跳躍を見せてこれを回避、反対にその槍を奪い取ると、突きを浴びせて趙弘を馬から落とし、今度は馬を奪って黄巾党を千切っては投げ千切っては投げ、縦横無尽に暴れまわった。
孫仲は賊軍を引き連れて北門から脱出しようとしたが、劉備軍と正面から出くわしてしまい、戦意を喪失してただ逃げ惑うばかり。劉備は弓を引きしぼって一箭、遠ざかる躯体に正確に命中し、孫仲は馬から転げ落ちた。
残余は後方に隨う朱儁の大軍が掩殺、漢軍は数万の首級を挙げ、降伏してきた者は数え切れない程の数にのぼった。南陽を皮切りに、周辺の※十数郡はすべて平定された。
(※十数県の誤記?)




