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(……いつの間に!?)
女王が驚くのも無理は無い。
剣の修練を欠かさぬソフィアだ。人が迂闊に近寄れば気配で判る。
ここまで、顔と顔がつく程に女が寄っているのを気付かないなどあるはずが無い。
「……」
その女は土埃にまみれ、虚ろな目でソフィアを見ていた。
ボロを纏い、手入れの全くされていない髪が顔にかかっている。げっそりと痩けた頬、鎖骨が浮いていた。
「な……何者か?」
「……」
痩せた指が震えながら伸びる。
その指がソフィアの首、輪を書いた斬首線の刺青をなぞった。
「……っ、ひ」
ひぃいやああああぁぁぁ……!
女のひび割れた唇から大音量の悲鳴が溢れる。
咄嗟の事にソフィアは仰け反りたたらを踏んだ。
ひぃいいいぃぃぃ……!
ああああぁぁぁ……!
割れた唇から血を滲ませ、髪を掻きむしりながら叫ぶ。女の両目からボタボタと涙がこぼれ、噴き出す様に落ちていく。
「へ、陛下!何事です!?」
セナが駆け寄る。
女王は片手で彼を制した。
(こやつが……)
監獄島に留め置かれていた泣女なのか……?
気も狂わんばかりに泣き叫ぶ女は、這いつくばる様にソフィアの許を離れ、林の奥へと消えて行った。
「な……何なのです、あの女?」
青冷めるセナの疑問には答えず、ソフィアは自分の首に手で触れた。
秋の終わり、肌寒さを感じる中で、じっとりと汗ばんでいる。
女王は息を整えると、従者に顔を向けた。
「大事無い。馬車に戻ろう」
「しかし……」
「寒くなってきた。陽が落ちるのも早くなったからな、戻るぞ」
屋敷に戻った女王は、特段変わった事も無く夕食を済ませると、独り居間として使っている部屋の暖炉に火を点し、ゆったりとした椅子に座った。
暖炉の上には亡き父と女王自身の肖像が掲げられている。
父の肖像をふと眺める。
彼の首には女王と同じ斬首線が引いてあった。
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女王ソフィアの先祖が統べた国は、音に聞こえた勇猛さを誇ったという。
史家の記すには、代々の王は皆『斬首線』と呼ばれる意匠の刺青を首に彫ったとある。
それは取れるものなら取ってみせよ、との傲慢な覚悟の表れとみなされていた。
しかし、亡き父がソフィアに語ったところによれば、我が王家は戦上手ではあっても内政の才に乏しかったのだという。
内政を一つ誤れば民を苦しめる。それは戦の比では無い。王たるもの何事かを成す為には首を賭けて事に当たれ。斬首線にはその様な自戒が込められているのだと。
斬首線の中央、遠目に鋏の如く見えるは交差する二本の剣。それは先祖が統べた亡国の旗、そこに描かれた紋章である。
首を断たれたならば、この紋章は両断される。
内政を誤れば王家の者と謂えど首をはねられる。戦で首級を挙げられるより不名誉な事であると知れ。亡き父はそう語った。
ソフィアは自らの斬首線を指でなぞった。
林の中で怪しげな女になぞられた通りに。
ローワン看守長から聞かされた話を思い出す。
(……あの女が)
ローワンの云う泣女であるならば……
……女王の死期は近い、という事なのであろうか?
泣女は人の死を予言する女怪である。
あの女が真に泣女であるかは判らない。単なる流浪の狂女であるかもしれなかった。
しかし、ソフィアには自分の死相を見出だされた様に感じられた。
(何を馬鹿な……)
薪が時おりパチパチと爆ぜる音を立てている。
火掻き棒で薪を掻くと暖炉の炎が赤々と揺らめいた。
「お茶をお持ちしました」
セレナから受け取った茶器に口をつけ、ソフィアは息をついた。
「泊まり込みの準備はどうか?今日は一人でやらせてしまったな、許せ」
「いえ……怪しげな女に出会われたとか?」
「なに、大事無い。こちらに危害を加える類いの者とは違う」
茶器を返すと女王は一つ伸びをする。
「今日は何やら疲れた、早めに休むとしよう」
「御意。寝台の支度を調えて参ります」
居間に独りとなったソフィアは、亡父の肖像をまた仰ぎ見た。
隣に飾られた自分の肖像に目を移す。
赤い軍装を着て椅子に腰掛ける姿を描いたものだ。
(……流行りのドレスなど着ておけば良かったかもしれぬ。今一つ色気が無いな)
やがて寝台の用意を終えたセレナが呼びに来ると、女王は椅子から腰を上げ、居間は無人となった。
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