記憶の抜け殻
『記憶の抜け殻』
僕は忘れない。君といた記憶を。永遠には覚えられないから。生きている範囲で覚えておく。いつも、根暗な僕を明るくしてくれたことも。写真を見ると、よく付き合えたものだなって思う。いつも、いつも写真をベッドサイドに置いてある。歳の差は確か7,8年は離れていた。デートする時はいつも僕よりも早く動く。ゆったりとした僕と、ほんの少しだけせっかちな彼女は、いつも新鮮だった。
僕は自分でもつまらない男だと思う。あまりよく喋らないし、でも、彼女といる時だけはすんなりと会話ができた。授業は完全に、仕事と割り切っているからまだ口頭で注意できたりするのだが。
僕は、その頃、女子高の国語教師だった。僕はまだ就任3年目だった頃。彼女はバレンタインデーのチョコにアドレス付きの紙を添えて手渡してくれた。それが出会いだった。その頃は単に可愛いなとしか思わなかった。
いつの間にか傍にいて、いつの間にか付き合いがスタートして、そして、高校を卒業したら結婚しようって話になった。付き合い始めてから、2年ぐらい付き合っていた。僕はただ彼女といる日々を楽しんでいたが、彼女にとって僕は最高のパートナーではない。だから、別れをさりげなく言ってみた。
「結婚は他の男とした方がいいよ」と言った。
「何で?」
「マンネリさせるのは、嫌だし。結婚すると周りの噂を肯定する事になるだろう?」
「私は構わないと思うけど。意外とビビリなのね。大丈夫よ」
「まあ、別にクビになっても、働き口はまだあるけどね」
「どこ?」
「兄さんの所の会社」
「それなら、いいじゃん」
「捕まったら、父親がショック死してしまうかもしれないだろう」
「じゃあ、結婚するしかないね」
「お前は相変わらずだ。まあ、家事もできるし、主婦には向いているかもね」
そんな他愛のない会話をしていたのは、思い出せる。
あの彼女の様子が浮かんでくる。これも思い出せた。
結婚式を何が何でもしたい僕と、写真だけで過ごしたい彼女の意見の食い違いがあった。
彼女は「友達を呼ばなくなるけど、本当にいいの?」と可愛らしくすごんでみせた。
「でも親戚を呼ばないと……」
「引き出物考えるの頭痛いし、それにそんなにおめでたいとは思わない」
「わかった。要は結婚したくないって事だな」
「そういう意味じゃないでしょ。一緒に暮らしていく事に意義があるんだよ」
しばらく黙った。そして、仕方なく僕が折れる事となった。
可愛らしさはそのままで、大人びた色気も感じるようになった。大学に行けばもっと人生楽しめるかもしれないのにと、本気でそう思った。でも、彼女と一緒にいられるのは、正直嬉しい。時を過ぎる事に意外な一面を知り、また細かい気持ちの変化がある。
結婚生活は楽しかった。家にいると、まだ恋人の気分のままだった。春夏秋冬、二人は一緒だった。「子供はいらない」と彼女は言っていた。理由は不明だったが、僕もいらないと思っていた。普通は子宝と言われるくらい大切なものだろうけど、僕たちはそうは思わなかった。
ただ彼女は、メイクが長い。すっぴんで綺麗なんだから。マスカラもいらないから。メモとは十分パッチリしているから。そう言うのだが、彼女はメイクを楽しんでいるようだった。
「まあ、まあ」
そうして、僕の意見をあしらう。出来上がった顔を見ると、確かに数段綺麗になっている。少女だった頃の面影がない。何で僕を選んだのか本音を知りたい所だ。それぐらい差がついていると思う。僕はいつまでこの笑顔を見られるのか、わからなかった。
「今がよければいいじゃん」
いつも、ことある事に彼女はそう言っていた。そんな楽天的に見えた彼女が最後に笑った夜。僕は何故か不吉な予感がした。
そんな彼女がいなくなったのは、僕たちが結婚して3年の冬の日だった。何気なく家に帰ると、誰もいなかった。部屋を間違えたのかななんて、一瞬馬鹿な事がよぎったが、でも、部屋間違いではない。これを言ったら笑ってくれるかな。そんな事を考えながら、ずっと部屋で待っていた。留守電が入っていた。伝えられたのは、最愛な彼女の自殺の報告だった。
それ以来、僕はまた一緒に暮らせる時はもうないんだなと思い、瞼が熱くなった。悲しみは時折、僕の心を襲う。彼女にも闇があったのだ。いつも明るく振舞う内側でどす黒い感情があったのかもしれない。自ら命尾w落とす程の。遺書が無いから、余計辛い。やっぱり、僕と結婚したのは間違いだったのかもしれない。そう思いたくないが、そうだったとしか言いようが無い。あの微笑は別れの挨拶だった。自殺させるくらいなら、離婚した方が良かった。いつも、寝る前に隣にいるはずのない人の温もりが冷たくなっている。せめて理由だけは聞きたかった。
僕は日記を書くようになった。ブログでなく手書きに拘った。しばらくはまだよかったが、次第に鬱状態になってきた。それを振り払うように部活の指導を熱心にしたり、高校の進路相談に熱心に行ったりするようになった。
墓は少し遠いところにあるので、家にある仏壇で、彼女の死後の世界に思いを馳せながら、ただ彼女が地獄に堕ちていないだろうと願うばかりだ。極楽浄土に行って欲しい。彼女が安らいでいて欲しい。彼女の心の闇はもう晴れたかな。そうだといいと、本気でそう思っている。ただ何もできなかった。せめて彼女の死後の幸福を祈らせて欲しい。
悲しみは親密になるほど、記憶に強く残る。嫌いな奴の死なんて笑いにしかならない。だから、嫌いになってしまえば、今頃再婚して、今度こそ孤独にならないように、子供を作り、幸せで温かい家庭を築けたかもしれなかった。やけくそになった時、僕はいつも区役所前で撮った写真を見る。すると、少しは辛さが減っていく。
僕は孤独に耐えられず、死を意識する生活になっていった。本能が目減りして、彼女と同じ灰になり、また生まれ変わりがあるとすれば、違う人と結ばれる事を夢見るようになった。
彼女が自殺したのが、樹海だった事も奇遇だった。一度、20の時、僕は樹海に行った事がある。でも、結局死ぬ決心が付かなくて、自殺未遂に終わった。彼女は一線を越えたのだ。僕も越えなくちゃ。そう思うようになって、結婚指輪を嵌めてから、10年目の午前0時。僕は学校に前日付けで退職願を受理してもらい、身の回りのものは全て準備した。アパートは退去して、後は粗大ごみに出した。
今電車に乗っている。この先は片道しかない。10年前に戻ってきたような気がした。呼び名が「先生」がとれた時の事も覚えている。彼女は遺書を書かなかったから、僕も遺書を残す気はなくなった。写真を一枚持ってきた。何時もの通り見ていた、ベッドサイドにある区役所の前で撮った彼女の写真だった。