王様の耳は、ロバの耳
王様の耳は、ロバの耳。
それは床屋の穴へと、囁くための儀式の言葉。
けして目立つ方ではなくって、何でもそこそこ出来るけど得意なこともこれといってなくて、何の変哲もないよくいる高校生だった私は、同じような立場の誰かと入れ替わったって、大して支障のないつまんない人間だなんて屈になることは多かったけれどそれでも、案外私は色んなものを持っていたらしい。
失ってから初めて、そのことに気がついた。
口うるさいけど優しい両親に可愛くないけど仲は悪くない妹、一日三食のご飯に学校の授業、いつでも読める本や漫画にネット環境にスマホやゲーム、好みの洋服に少しずつ集めたアクセサリー。放課後には商店街を友達とぶらついてカフェでだらだらと他愛も無い話をして、かっこいい男の子を見つけたらきゃあきゃあはしゃいで、昨日見たテレビの話題で盛り上がって、好きな芸能人の出てる番組は必ず録画して、休みの日にはちょっぴり化粧をして遊びに出かけて、ライブに行って、映画館に行って、ファミレスでドリンクバーひとつで何時間も粘って、おしゃべりでちっとも進まないテスト勉強をして。
あんまりにも当たり前にありすぎて、代わり映えがしないものだから、つまんない毎日でひとくくりにしてた全て。
何の前触れもなく突然、月が二つある世界に放り出された瞬間。
私はその全てを失ってしまった。
知らない世界で私が失ったのは、それだけではない。
身に着けていた制服や鞄の中身は勿論、私の中にあった色んなもの。
矜持とか尊厳とか、信用とか安心とか。
笑顔とか希望とか、貞操とか自由とか。
こちらの世界で一月も経たないうちに、根こそぎ奪われつくした。
それでもまだ、恵まれてる方ではあると思う。
失った自由は三年かけてある程度は取り戻せたし、身体のあちこちに傷やケロイドは残っているけれど、欠けた所はない。来たときは全く分からなかったこちらの言葉も、よっぽど専門的な話でない限り理解出来るし話すことも出来るようになった。
何より、今まで生き延びている。
あっさりと人が死ぬこの世界では、生きているだけで運がいい。
特に死ぬ事の多い、ハンターなんて職業についてるなら尚のこと。
きっとこの世界は、元居た世界とどこかで繋がっているのだと思う。
魔物が居て、ダンジョンがあって、魔法があって、神様が実際に現象として存在するけれど、ヒトの形も性質も、私の知るものと大きくは違わない。
まるでゲームの設定みたいな世界は、全くの無関係だと言い張るには共通している部分が多すぎた。
いくつかのダンジョンの最深部に到達すれば、神の祝福を受けられ何でも望みを叶えてもらえるとの伝承もあり、その具体的な願いの中には、世界の扉を開くなんてものもあった。
その扉の向こうには私の世界があって、過去に同じようにこちらへと放り出された誰かが、それを願ったのだろうと。
半ば眉唾扱いされているその話を信じた、信じたかった私は。
取り戻した自由を全て、ダンジョン攻略へと注ぎ込んだ。
戦う術なんて、何一つ知らなかった。
けれど自由を奪われていた間には、ろくに武器も持たず魔物と相対させられることなんてしょっちゅうで、守ってくれる存在なんて無くって、戦わなければ簡単に死ぬような状況だったから、否が応にも身についたものがあったし、何でもそこそこしか出来ない私の特性は、こちらでは何でもそこそこ出来るという利点となった。
どんな武器でもある程度扱えるし、魔法も普遍的なものならそこそこは使いこなすことが出来る。真っ向から同じ力で向かい合えば敵わない存在であったとしても、そこそこをうまく組み合わせれば勝ちを拾える。勝てなくとも、うまく逃げ延びて先に進むことは出来る。
レベルアップの概念はなく、必ず倒さなければならないボスなんてものも存在しない。深部に向かえば向かうほどダンジョンを徘徊する魔物は強くなるけれど、隙を突いて進む技量さえあれば、強くなくても先に進むことは可能だった。
そうは言っても、伝承のあるダンジョンは桁違いに魔物が強い。隠れて進む事すら困難な相手と分かって特攻するほどの無謀さも持ち合わせては居なかったから、ダンジョンの内部や街の外に数多存在する魔物を狩って生計を立てる狩人となって、戦う術を磨き性能の良い武器や防具を仕立てる事に日々明け暮れた。
消えない傷は増えてゆく。心の休まる暇は無かった。
それでもただ闇雲に目標に向かって生きる毎日は、楽だった。
何も余計な事を考えなくて済んだから。
本当に帰れるだろうか、とか。
帰れたとして、傷だらけの身体は元に戻るだろうか、とか。
身体が元に戻ったとしても、中身はちゃんと元の世界に適応出来るだろうか、とか。
自分でもぞっとするほど、暗い光を宿すようになった瞳は、周囲に受け入れてもらえるだろうか、とか。
余計な事が頭を占めるようになったきっかけは、些細なこと。
久しぶりに、元の世界の夢を見て。
大好きだったバンドの、ライブを観にいって友達とはしゃいでる夢で。
目を覚まして、夢の名残を懐かしんでいた私は。
大好きだった筈の、バンドの、ベースの彼の名前を。
欠片も思い出せなくなってることに気づいて、愕然とした。
慌てて記憶を改めると、思い出せないものが多すぎて更に呆然とする。
目ぼしいものは全て奪われつくしたと思っていたのに。
過ぎる時間は緩やかに、記憶すらも奪っていっていた。
こちらに来て最初のうちは、信じたくない現実を忘れたくって、眠る前にはいつも向こうの事を思い出していたけれど、そのうちそんな余裕すら持てなくなった。
思い出を夢見る代わりに、どう生き延びるかを思案するようになった。
どのように動けば死なないかを模索して、どうすれば自由のない状況から抜け出せるかを考えるようになった。
私の自由を奪っている元凶をうまく出し抜く方法を、殺した時のリスクを、殺さずに逃げた時のデメリットを。
考えているうちにいつの間にか、記憶を掘り起こす作業を怠るようになってしまっていた。
元の世界では、忘れたって思い出せなくったって、簡単に調べる手段がいくつも存在していた。
けれどこちらでは、誰かに尋ねることすら叶わない。
忘れてしまったら、自分で思い出す以外取り戻すことなんて出来ない。
そんな単純で当たり前の事実を、改めて突きつけられて慌てて、記憶を取り戻すべく必死で頭の中を探ったけれど、何人かのクラスメートの名前と、きっかけとなったバンドのベースの名前を、思い出すことはなかった。
こんなに色んなものを忘れてる状況で、向こうに帰って大丈夫なんだろうかと、不安を覚えてからは、努めて向こうの事を思い出すようにした。
そうして思い出を掬い上げて丁寧に詳細を炙ってゆくたび、足りないものに気づいてしまって、新しく生まれた不安が育ってゆく。
一つ思い出せても、二つ三つ忘れていてば、その分元の世界が遠くなってゆくような気がした。
一度思い出したものを、再び忘れてしまうことだって少なくなかった。
何かに書き付けて保存しておけば一番いいのだけれど、もし誰かに見つかってしまえば面倒なことになる。
こちらのものと違う文字は、一目で異質なものと分かってしまう。
異質なものは、排除されるか金のなる木として目をつけられる。
未知の文字は、おそらく後者だろう。そうすれば確実に、面倒事に巻き込まれて自由が裂かれてしまう。
肌身離さず身に着けていれば絶対に大丈夫だと断言出来るほど、楽観的にはなれなかった。
せめてと寝る前に口に出して、随分と薄くなった日本語をとりとめもなく呟いてはみたけれど、独り言は空々しく響いて、宙に融けて消えてゆく。
留まることもないまま、消えてしまう言葉は、余計に不安を煽るばかりだった。
トコヤを買ったのは、日々募ってゆく不安の吐き出し口が見つからず鬱々としている時だった。
たまたま近くを通った奴隷商の店の前で。
聞こえた客と店員の言葉に、私は思わず足を止めた。
「うーん、喋れないんじゃあなあ」
「煩くないって点では結構重宝されるんですがね」
喋れない、奴隷。
ピンとくるもののあった私は、行き先を変えて店に足を踏み入れる。
店頭にはいくつか見た目の良い奴隷が並べられていた。
きっとこっちに来たばかりだったら、その光景に何かしら思うところがあった筈なのに、ぴくりとも感情が動かないことに少し切なさを感じつつ、淡々と店員に希望を告げた。
「喋れなくて、文字が書けないのを探してるんだけど」
提示した条件に店員がいやらしく笑って連れてきたのは、二人の男と一人の女だった。
三人ともガリガリに痩せていて、顔色が悪い。覗く肌には、鞭の痕がいくつも見える。今までの三人がどういう使われ方をしてきたか、非常に分かりやすい。店員の笑みの意味も、私も同じような使い方をするのだと思ったのだろう。
奴隷の扱い方は、大まかに分けて二つある。
力で支配するか、ある程度の対価を与えて支配するか。
隷属な魔法なんて便利なものはないから、どちらにしても加減を間違えれば反抗を許すことになる。
目の前につれてこられた三人は、前者の扱いを受けてきたのだろう。
悲鳴を出せないと言う点では、そういう趣味でもない限り、声が出ないってのは利点になり得るだろうから。
奴隷である事を示す刺青のせいで街から逃げ出すのは非常に難しいけれど、隙を見せれば命を奪われる可能性が無いとは言えない。
普段の私なら、けして手を出そうとは思わなかっただろう。
だけどその時は、どうしても必要だったのだ。
吐き出す言葉を受け止めてくれるものが。
誰にも秘密を、けっして漏らす事のないものが。
王様の耳はロバの耳。
懐かしい、元の世界のお話の一つ。
けして言えない秘密を囁くための、床屋の穴。
あれは最後には漏れてしまったけれど、要は秘密を漏らすための手段が存在してなければいい。喋ることも文字を書く事も出来なければ、私が未知の言葉を喋ることを誰かに伝えることは不可能だ。
それに。
いざとなれば、処分してしまえばいい。
少なくとも自分に害が及ぶ可能性と比較して、奴隷の命を案じるほどの優しさは既に持ち合わせてはいなかった。
引き合わされたうち一人の男は、トラウマにより声を失っただけと分かったので選択肢からは消去する。
残り二人は、男の方が呪いによるもので、女の方が怪我によるもの。ただし怪我の方はまだ完治している訳ではなさそうで、治った場合には声が出るようになってしまう可能性があるのでこちらも無し。
必然的に、選べるのは一人となる。
呪いも解呪される可能性はある。けれどその可能性はあまり高くはない。
呪いを解くには高位の神聖術を扱えなければならず、その使い手はさほど多くは無い上に、無償で相手の同意も得ぬまま手当たり次第に呪いを解いて回る厄介な聖人なんてそうそう居ない。少なくとも私は出会ったことがない。
だから私が望まない限り、呪いが解ける可能性は極めて低い。
多少懸念はあったものの、私はその男を買うことにした。
男の値段は、銀貨二枚分。
家族四人がたった一月、満足に暮らせるだけの値段でしかなかった。
トコヤ、と名づけた男は、まだ少年といっていい年頃で、時折警戒の籠もった視線は向けてくるものの、基本的には大人しく従順で、すぐさま逃げ出そうとする素振りは見えなかった。
最初のうちは特に何かをさせることもなく、ご飯を食べさせ新しい服を与え、定宿に奴隷用ではあるけれど新しい部屋をとってやり、ただ様子を見るに留める。トコヤはそんな扱いに戸惑ってはいるようだったけれど、特に不審な様子を見せることもなく次第に受け入れていった。
私の泊まる部屋に、連れてきたのは買ってから一月と少し経ってから。
おそらく夜の相手をさせられると思っていたのだろう。
強張った表情のトコヤを椅子に座らせ、聞いていろと告げると困惑したようにじっとこちらを見つめた。
その、緑色の瞳に向けて。
私は話しかける。
随分と昔、ファミレスで、友達と喋ってた時みたいに。
『んー、えっと。そうだ、智子はね、可愛くって性格もいいから結構もてるのに、男に全然興味なくってさ。口を開けば電車の話ばっか始めちゃうの。完全に鉄ヲタだけど、本人は鉄ヲタじゃなくてただの電車好きだなんて主張してて。何が違うのか全然わかんないけど、智子的には違うんだって。電車見に行くの、たまに私も付き合わされてさー。電車の名前とかわかんないけど、意外と面白かったな』
日本語で誰かに向けて話しかけるなんて久しぶりで、独り言の時とは勝手が違って、いざとなれば何から話せばいいのか分からなくって、上手くいかないかもって思ってたけど、口を開けば考える前にすらすらと言葉が飛び出してきた。
智子は仲の良かった友達の一人で、しょっちゅう話を聞かされてたから覚えてたはずの、電車の名前は出てこない。
『常磐線、そう常磐線がお気に入りで、よく写真撮りにいっちゃ送りつけてきて。全然興味ないけど、一応保存しておいたらいつのまにか、スマホに電車フォルダなんて出来ちゃうくらい』
だけどとりとめもなく話しをするうちに、するりと思い出せなかった単語の一つが、自然と飛び出してくる。一人で言葉を呟いていた時には、けして起きなかった現象だ。嬉しくなって、もっともっとと話を続ける。
そういえば、あの漫画を貸してもらってた。あの先生が嫌いでよく文句言ってた。あのアイドルのこと毛嫌いしてて、あの花が好きだった。
話すうちに数珠つながりに蘇ってくる記憶が嬉しくって、もっともっとと捲くし立てる。
トコヤは相変わらず困った顔をしているけれど、大人しく座って私の話を聞いている。瞳は常に、こちらに据えられたまま。
意味なんて全く通じていないのは分かっている。
けれど誰かに聞いてもらうっていうだけで、恐ろしく口は滑らかに言葉を紡ぎだしてくれた。
結局その日は、話の止めどころを見つけられなくて、夜更けまで話してしまったせいで、次の日の予定に多少支障が出てしまったけれど。
さすがにちゃんと睡眠はとろうと寝不足の頭で決意したけれど。
それからもしばしば、話しすぎて寝不足になることはあった。
家族のこと。仲の良かった友達のこと。学校のこと。
話しているうちにどんどん記憶が蘇ってきて、家族の話がいつの間にかファミレスのメニューの話になってたことなんてしょっちゅうで。
覚えている童話のこと。好きだったテレビ番組。苦手だった数学のこと。
時には都道府県を上から順に並べていって、最初は四十しか思い出せなかったのに最後には全部言えるようになった。
一人しりとりを続けて、思いがけず出てきた単語に機嫌よく笑って、年号を暗唱して、カタコトの英会話だって披露した。
流行ってた歌を歌って、お気に入りの小説の内容を事細かに語って、一度だけバレンタインに本命チョコを作ったのに渡結局せなかった事を話して。
それほどお喋りな方ではなかった筈なのに、いつまでもいつまでも話す内容に困ることは無かった。
同じ話も何度かしたけれど、その度に別の事を思い出して、更に話は広がってゆく。
懐かしさに引き摺られて、さみしい、帰りたいと繰り返して泣くだけの日も、少なくは無い。
そんな時もトコヤは、私の言葉を黙って受け止める。特に慰めようとはしないけれど、部屋からいなくなりもしないし、私へと向けた視線を外すこともない。
そういえば、一度だけ。
泣いている私に向けて、恐る恐ると手を、伸ばして来たことがあった。
けれどそれをにべもなく払ってからは、トコヤは床屋の穴で居る時に、話を聞く以外の行動を起こすことはけしてなかった。必要以上に近づいて来ることも無かった。椅子に座って、じっと耳を傾けるだけ。
その察しの良さと、優秀な床屋の穴っぷりが心地よくて、私はトコヤに向けて話しかけることをやめられない。
王様の耳は、ロバの耳。
それが床屋の穴へと秘密を注ぎ込む合図だと決めたのは、トコヤに知らせるためではなく自分のためだ。
区切りをつけなければ、私たち以外の耳のある場所で、無意識に日本語を口走ってしまうかもしれない。注意深く辺りの様子を探って気配が無いのを確認して、けして部屋の外には聞こえない潜めた声で話すことを忘れて、物語と同じ展開を辿って秘密をばら撒いてしまうかもしれない。
だから自分に言い聞かせるために、小さな声で呟く。
王様の耳は、ロバの耳。
その言葉は次第に、私の心の拠り所となっていた。
トコヤは買った時より背が伸びて、二年目には私の身長を追い越した。ガリガリだった身体には肉もついた。
私より強くなられると具合が悪いから戦う術は教えていないけれど、それなりに力もないと困るからある程度は鍛えた。
簡単な買い物なら任せられるようになって、さほど魔物の強くないダンジョンには荷物持ちとして連れてゆけるようにもなった。少しずつ頼める仕事は増えていって、野宿の時は見張りを任せられる程度には信用出来るようになった。
深層を目指す事は諦めていない。
本当に望みが叶うならば、傷一つ無い身体に戻って、元の世界に帰りたいと強く願っている。
けれどもしも、それが叶わなくても。
トコヤが居れば、床屋の穴さえあれば。
きっと絶望せずに生きていけると、思うようになっていて。
私が帰還の途につかない限り、トコヤはずっと私の、床屋の穴であり続けるのだと思い込んでいた。
奪われる時は突然、こちらの都合なんてお構いなしに訪れるって、知ってた筈なのに。
「オル兄! オル兄だよね!」
トコヤを買って、ちょうど五年目。
トコヤを連れてダンジョンに潜った帰り、夕方、馬車の中で。
一緒になった別のハンターの一人が、まじまじとトコヤの顔をみつめると、驚いたように声をあげたかと思うと、みるみるうちに目に涙をためて泣き始めた。
一体何事かとぽかんとしている私をよそに、見知らぬハンター達は涙を流す彼女を気遣い始める。どうやら同じパーティーのメンバーだったようだ。
彼女がずっと生き別れた幼馴染たちを探しているのだと、頼んでもないのに話し出したのはそのパーティーのリーダーらしき壮年の男。まるで娘を見るような泣いている女へと向ける柔らかな眼差しに、恐らく嘘ではないのだろうと判断する。
何年経っても、この世界に生きる全てを信頼することなんて出来ないけれど。
心底の悪人しか存在しない訳ではないと、納得は出来ずとも理解はしているつもりだ。
彼女はこの大陸とは別の大陸出身で、幼い頃に村を山賊に襲われ、何もかも失ってしまったという。
村で一番幼かった彼女は必死で村人達に守られ逃がされ、どうにか近くの町へと駆け込めたけれど、すぐに騎士と共に村へと戻った彼女が見たものは、物言わぬ躯と成り果てた家族や村人の姿だった。
けれどその中には彼女がオル兄と呼んで慕った少年と同じ年頃の少年少女たちの亡骸は存在せず、絶望した彼女には彼らが生きていると信じることこそが、唯一の希望となったらしい。
泣きじゃくってうまく言葉が出ない彼女をパーティーのメンバーが落ち着かせる間、リーダーは粗方の事情をざっと説明してきた。
聞いてもないのに聞かせたのは、私の同情を誘うためでもあったのだろう。
彼女の幼馴染を、取り戻すために。
私にトコヤを、手放させるために。
トコヤが彼女の言うオル兄と同一人物であることは、残念ながら間違いはないようだ。
だって目を見開いて瞳に驚愕を乗せたトコヤの唇が、誰かの名前を紡ぐのを見てしまったから。
その表情はとても、知らぬ人間に人違いをされた故の戸惑いには、見えなかったから。
ああ、終わりだ。
私の床屋の穴は、今日、こいつらに奪われる。
また、奪われるのだ。
すうっと心が冷えてゆく。
「そんな、奴隷なんて、なんで……オル兄? なんで何も言ってくれないの?」
「……もしかして声、出ないのか?」
「なんで! ひどい! なんで!」
冷めた目で彼らを眺めていると、ようやくトコヤが話せないことに気づいたらしい。
トコヤの幼馴染とやらに、きっと睨まれる。
「私が何かした訳ではないよ。最初から、彼は喋れなかった」
「嘘! あなたが何かしたのよ!」
「……他のハンターに確認してもらってもいい。彼を買った奴隷商、が覚えているかは分からないが、そちらに確認してもらっても問題はない」
幼馴染は私を敵と認識したようで、興奮した様子で詰め寄ってくるけれど同じように激昂してはやらない。
揺らした感情を露にすれば、付け込まれる。いかなる時も平静の仮面を被っていなければならない。
そうで無ければ、あっという間に何もかも奪われてしまう。気づいた時には全て、失ってしまう。
私がこちらに来て学んだことだ。
激しやすい彼女が生きて来られたのは、よっぽど周りに恵まれてきたのだろうと決め付けて一瞬鼻白んだものの、内心を悟られないように、あちらが望むであろう情報だけを淡々と提示してやった。
「買値は銀貨二枚。買ったのは五年前だ。いろいろと投資もしてきたけど、仕方ない。彼の働きも差し引いて、金貨二枚で手を打とう。破格だろう?」
「……っ! オル兄を物扱いしないでっ!」
困ったことに激昂した彼女では話にならなかったけれど、他のパーティーメンバーが間に入って仲裁してくれる。
彼女とは違って話もちゃんと通じるようで、値切りもせずその値段で構わないと、すぐさま懐から金貨二枚を取り出した。未だ引渡しも完了していないのに迂闊だとは思うけれど、わざわざ指摘なんてしてやらない。
「確かに。手続きは、明日でも構わない? さすがに今日は疲れてるから、気力が残っていない」
「ああ。こちらの宿を教えておこう。そちらの宿も教えてほしい」
「……分かった」
拠点を教える事に多少の抵抗はあったけれど、すぐに割り切った。どうせ明日中に、引き払う予定だ。大して問題はない。
馬車の速度が、次第に緩やかになってゆく。そろそろ街に着く頃合だ。
完全に停止する前に、立ち上がって入り口に向かう。
「待ってくれ、彼が喋れない理由は?」
「金貨一枚」
背中にかけられた声に振り返らずに応えれば、すぐさま金貨が飛んでくる。
掴むと同時に馬車から飛び降りた私は、一度だけ振り返った。
「呪いだとさ!」
トコヤは、じっと私を見ていた。
床屋の穴で居る時と同じように、静かな目で、何もかも受け止める瞳で、じっと。
その胸に泣きじゃくる幼馴染を抱えたまま。
けっして、私に向けて手は伸ばさない。立ち上がりもしない。
当然だ。
トコヤをそういう風に躾けたのは、私なのだから。
トコヤが伸ばした手を、叩き落としたのは、私なのだから。
視線を逸らして、街中へと歩き出す。
もう振り返りはしない。
「オル兄! わたし、私ねっ! 神聖術使えるのよ!」
「運命だねえ」
「そうだな、神様も粋な計らいするじゃねえか」
遠ざかってゆく馬車から、一際はしゃいだ声が聴こえてきて、つい、笑ってしまった。
本当だ、運命みたいだ。
生き別れた幼馴染が、奇跡的に再会して、一人が抱える問題を解決する方法を、都合よくもう一人が持っているなんて。
まるで物語みたいだ。主役は彼女の、ハッピーエンドで終わる物語。
私はさしずめ、中途半端な悪役ってとこだろうか。
ふふんと鼻で笑って、歩調を速める。
いつもならダンジョンの帰りは、途中で酒場に寄って飯を食べるけれど、今日は真っ直ぐ宿へと向かう。
受付で主人に明日引き払う旨を告げると、一気に階段を上って部屋へと駆け込んだ。
そのまま、無造作に荷物を詰めてゆく。トコヤの荷物は、あとで宿の主人に処分してもらえるよう頼んでおけばいい。
ああそうだ、トコヤが喋れるようになってしまうんだった。
ふと、去り際に聞こえた言葉を思い出す。
私の秘密がばれてしまう時は、ちゃんと処分しなければならないんだった。
ぼんやりと考えて、首を振る。
本当は処分しなきゃ駄目だけれど、もし今そんなことしたら、あの幼馴染が絶対に許さないだろう。そちらの方が面倒事が大きくなる。だから私は、トコヤを処分する訳には、口封じに殺してしまう訳にはいかないのだ。
それじゃあ手放さなければ良かった?
いいや、そっちも駄目だ。私が頑として主張すれば手元に置き続ける事は出来たけれど、そうすればずっとあの幼馴染の居るパーティーに追い掛け回されるだろう。簡単には諦めてくれそうにない。そんな面倒な状況に巻き込まれる訳にもいかない。
仮に、もし。
トコヤが私の秘密を喋るとしても、今日すぐにって訳ではないだろうから、すぐにこの街を去ってしまえばさすがに追いかけてなんて来ないだろうし、それに、随分とお人よしそうで善人ぶってたから、秘密を知っても積極的に誰かに売るとも限らないし。
だから、べつに、殺さなくっても。
……ちがう。そうじゃない。
荷物を纏める手を止めて、煩いくらいに頭の中に響いてた、言い訳を否定する。
もしも秘密がばれて面倒事が降りかかってくる未来が確定していても。
それで私の命が脅かされる事が分かっていたとしても。
トコヤを処分してしまうことは、私には出来ない。
『……ばっかみたい』
主人が奴隷へ命令する以外の、まともな会話なんて一度もしたことがない。
奴隷以上の扱いだって、したことがない。
鞭で打ったことはないけれど、別にそれはさして特別なことでもない。
奴隷を丁寧に扱う人なら、暴力を働かない上に賃金やら休みまで提供する事もあるらしい。
そういうのに比べたら、私のトコヤの扱いはごくごく普通の奴隷の扱いでしかなかった。
私がトコヤにしたことはただ、トコヤが分からない言葉で語りかけることだけ。
トコヤは私の話を聞いていただけ。
たったそれだけで、互いの指先が触れたことすら数えるほどしかなかった。
トコヤはただの床屋の穴でしかなく、失えばまた、新しいものを買えば良い、その程度のものだったのに。
喋れず文字も書けない奴隷なんて、探せばすぐに見つかるから、いくらでも替えのきく存在だった筈なのに。
『ばかみたい、ばかみたい、ばかみたい』
なのに、あろう事か私は。
いつの間にか随分と、トコヤに心を移してしまっていたようだ。
すぐに新しい床屋の穴を買う事なんて考えられなくって。
誰かに渡してしまうくらいならと殺すことも出来なくって。
あの幼馴染ならトコヤを悪いようにはしないだろうと思うところもあって。
奴隷でなくなってダンジョンの中を連れまわされる必要もなくなら、そちらの方がいいだろうと。
私のものでいるより、あのパーティーと一緒に居たほうが、安全で優しい暮らしが送れるだろうと。
私の元に留めて置けないのなら、せめて。
幸せになってくれたら、と。
願ってしまうくらいには、いつの間にかトコヤが、大切なものになってしまっていたらしい。
『ほんと、ばかだ……』
この世界に生きる何もかも、信じることなんて出来ない。
善人の顔をしていたってすぐに裏切るし、それが犯罪だとしても罰する法だってろくに存在してないし、あったとしたって金で如何様にも歪められてしまう。
そんな中で大事なものなんて作れば、命取りになる。どうにか他人に利用しようとする輩に、付け入らせる隙になる。
だから石ころ一つ分の価値しかなくったって、そんなもの、作る訳にはいかなかった。
トコヤも、いつでも切り捨てる気でいた。
つもりだったのに。
一度自覚してしまえば、簡単に捨ててしまえそうにない。
早くここを離れなきゃ。
焦りながら荷物を纏める作業を再開する。
トコヤが私のものでなくなるのは、大事にしてくれそうな相手に託せたのは、都合が良かったのだと思い込んで。
二度とトコヤと会うことが無いよう、遠い街へ拠点を移そうと頭の中で地図を展開させて。
攻略しかけの伝承つきのダンジョンは、別のダンジョンに変えるしかなさそうだ。
途中の層までの魔物の傾向と攻略法は見つけているけれど、仕方ない。
帰還の可能性とトコヤの近くに居る危険性の排除を天秤にかければ、あっさりと後者に傾いてしまうんだから。
ばかだなあ、私。
苦笑いでもう一度、心の中で呟いてため息をつき、きゅっと荷袋の口を締める。
元々それほど、荷物は持ち歩かない方だけれど。
一人分だとこんなに少ないのかと、慣れきった二人分の荷物との差異に、感じた寂しさのままぽつりと呟いた。
『王様の耳は、ロバの耳』
おそらくはもう、二度と口にすることのない言葉。
この部屋で、何度も何度も口にした、秘密の告白の合図。
最後にありったけ、秘密を吐き出していこうと口を開いたけれど、いつもみたいにうまく先が続いてくれない。
家族のこと、友達のこと、学校のこと。
何でもいいのに、特別なことなんて何も話したことなんてないのに、何にも音にはなってくれなかった。
『おーさまのみみは、ろばのみみぃ』
コンコン、と。
控えめなノックの音が響いたのは、何十度目かの秘密の合図を呟いた頃。
何度口にしても秘密はするりと出てきてくれなくて、半ばやけっぱちで呪文のように繰り返していた私は、瞬時に獲物に手をやり身を固くする。
もう随分と遅い時間、誰か尋ねてくる予定もない。予期せぬ客人は、大抵が厄介なものと相場が決まっている。
しかし扉の向こうの気配を探っても、不思議と殺気は感じない。代わりに、ひどく緊張した空気が漂っていた。
すぐさま命のやり取りに発展することはなさそうだとして判断して、扉は開けぬまま客人の名前を問うた。
「誰?」
「……。トコヤ、です」
ばかじゃないの、と。
胸の内で悪態をつく余裕が出来たのは、少々の躊躇いのあとに紡がれた名前を聞いてすぐ、扉を開けて、そこにいるトコヤを部屋の中に招き入れ、いつもの椅子に座らせてからようやく、だった。
「……あんたの荷物は、部屋にそのままある。必要なものがあるなら、持っていきなさい」
切り出したのは、こちらから。
生じた期待を振り払いたくて、平静を装って告げたつもりだったけれど、上手くはいかなかった。少しだけ言葉尻が震え、途中からトコヤの顔を見ることが出来なくなった。
初めて聞いたトコヤの声は、思ったより低くて落ち着いていた。
随分と長く呪いの影響にあったせいで、まだ上手く喋れないのだろう。どこかぎこちない印象を受けた。
「あ、の」
「ああ、それとも今すぐ受け渡し完了させたいって話? 待ちきれないって訳ね」
何か話し出そうとするトコヤの声を遮って、つらつらと言葉を並べてゆく。
だって、別れの言葉なんて、聞きたくなかったし。
ありえない期待を、もう少しだけ感じていたかったから。
「聞いて、ください」
けれど、いつまでも逃げることを、トコヤは許してくれなかった。
真っ直ぐに見つめられて、そう告げられてしまえば、それ以上煙に巻く言葉も思い浮かばない。
観念して、どうぞと先を促す。
「あなたが、面倒を、嫌っていることは、知っています」
分かったような事を言われるのは、好きじゃない。この世界の人間には、特に。
だけどトコヤの言葉を否定する気は起きなかった。
いつもとは、逆。
じっと目をそらず、トコヤを見つめて、その口から生まれる音に、耳を傾ける。
「あなたが何も、信じてないこと、知ってます」
そうだ、私は何も信じていない。
トコヤのことは大事だけれど、信じているかと言われれば首を傾げざるを得ない。
野営の見張りを頼めるくらいには、金を預けて買い物に行かせられるくらいには、信用しているけれど。
すぐには私の秘密を話さないだろうとは、信じているけれど。
それでも必要に駆られれば、いつかは話すに違いないとどこかで思っている。
「簡単に俺を手放す、ことも」
それも、当たり。
現に私は簡単にトコヤを手放した。たった金貨二枚で、トコヤを売り渡した。
トコヤだって、分かっているはずだ。
つまり私にとっては、トコヤはそのくらいの価値しかなくって。
だからトコヤにとっては、あの幼馴染たちと一緒に居る方が、幸せになれるってこと。
「それでも」
なのに、トコヤは。
私の期待を、肯定する言葉を告げる。
「あなたのものでいたいです」
私と一緒に居たってトコヤは幸せになれないのに。
私の元ではトコヤは奴隷でしかなかったのに。
奴隷としての扱いしかしてこなかったのに。
「ずっと、トコヤで、いたいです」
そんな、そんな、そんな。
馬鹿みたいなことを。
馬鹿みたいに私に都合の良い事を、口にする。
「……っ、ばかじゃないの……っ!」
「……ええ。リファにも、幼馴染にも、同じこと、言われました」
たまらず搾り出した悪態にも、堪えた様子もなく困ったように眉を寄せるだけ。
つい受け入れてしまいそうになるけれど、首を振って突き放す。
「リファって子が納得するとは思えないし」
「一応、彼女のパーティーの人たちは、納得は、してくれました。説得、してくれるって」
それは納得しているとは言えない。絶対に文句を言いにやってくる筈だ。
そんな面倒なの、たまったもんじゃないし、それに。
「呪い、解いてもらったんでしょ。金貨二枚も貰っちゃったし、解呪分もタダって訳にはいかない」
「それは……、すみません、ごめんなさい。ご飯、しばらく抜いてください」
「……ばかっ!」
お金の事を告げれば、しゅんと肩を落としたものの、納得した訳でもないらしい。
意外と図太いことを言い出すから、思わず叱り付けてしまう。
「あの、宿で、待ってるとき、狩り行って稼ぎます。だめ、ですか」
「一人で死なれても困るのよばかっ!」
たとえ感情が揺れたとしたって。
けして相手に悟られてはいけない。いつだって冷静な仮面をかぶっていなきゃいけない。
そうじゃなきゃ付け込まれて、何もかも奪われてしまうから。
なのに私はみっともなく剥き出しの感情をそのままトコヤにぶつけていて、投げつけた声は震えていて、わかりやすく動揺していて。
そうなった時点で、きっと。
私の負けだったのだ。
「私が必要なのは、喋れず文字の書けない奴隷、それだけよ」
「なら、また、呪い、貰ってきます」
「奴隷から解放するつもりもない」
「うれしい、です」
「……あんたが弱味になったら、切り捨てる」
「あなたに迷惑、かける時は、死にます」
「……っ、ばか、ばかばかばかばかっ!」
脅しても突き放しても、怯むことなく答えを口にするトコヤに、先に根をあげたのは私の方。
「ほんとに、いいのね?」
「はい」
「ずっと私のとこで、奴隷ってことだからね?」
「はい」
「ずっとずっと、ずーっとだからね?」
「はい」
それはもう、説得の体裁すらとっていない、確認の言葉。
トコヤがずっと私のものだと、念を押すためだけの。
こんなに感情を露にした言葉なんて、久しく口にしていない。
その弊害だろうか。
どこか甘えた口調になっていた事に気づいて、恥ずかしさに口を噤んで俯いた。
翳った、視界の端。
トコヤの手が、ゆっくりと伸ばされるのが見える。
誰かに触られるのは、嫌いだった。
特にそれが男だと、どんなに鍛えたって怖さは拭えなくって、必要以上に身構えてしまっていた。
怖がっていることを悟られたくなくて、容赦なく叩き落としてきた。
でも、今。
近づいてくる手に、不思議と恐怖は感じない。
『王様の耳は、ロバの耳』
頬に。
その指先が触れると同時に、秘密の合言葉を口にする。
『ばーか』
精一杯の悪態を、秘密の言葉で囁いて。
その手のひらに、自分から頬を寄せて。
小さく笑って、静かに目を瞑った。