1.
会社に戻る途中で信号待ちをしていると、ぽつり、首筋に冷たい感触が跳ねた。
振り仰げば雲ひとつなく青い空。
なのに落ち始めた雨は、熱された夏のアスファルトに溶けて独特の水の匂いを生む。
──ああ、日照雨だ。
ふっと浮かんだ言葉から、僕は逝去した祖母を懐かしく思い出す。
昔、郷里でもこんな天気雨に出くわした事がある。
こんなに晴れているのに、どうして雨が降るのだろう。首を傾げる僕に婆ちゃんはにかりと笑って、
「これはな──」
* * *
山にはモリガミサマがいらっしゃる。
婆ちゃんはよくそんな事を言っていた。
モリガミサマは二尾の白狐。森に、山に、そしてそこここの暗闇に棲まう悪いものから、眷族を率いてひとを守っていてくださる。
だからその昔、モリガミサマとその一族には休む暇なんてなかった。四六時中目を光らせていないといつ何時、何が悪さを働くか知れたものではなかったから。
けれど山の中にもやがて電気が引かれて街灯が入り、夜は明るくなった。そうしたモノたちは森や山のずっと奥の方へと追いやられて、気づけばモリガミサマたちはすっかり手空きになってしまっていた。
モリガミサマは守り神様。そして森神様。
野のものであるから、必要以上にひとと関わってはいけない。
だから今は森の社で独りきり、静かに過ごしているんだよ。
そう結ぶ婆ちゃんに、幼い僕は食ってかかった。
それじゃあモリガミサマが可哀想だ。皆の為に頑張ってくれたのに、用がなくなったらほったらかしだなんて。
すると婆ちゃんはにかりと笑って、
「だからな、毎年お祭りしてお慰めするのさ」
僕は母の顔を知らない子供だった。僕を産んで、すぐ亡くなったのだと聞いている。
父は町で働いていて、父だけの家に住んでいる。こちらには月に一度も顔を見せればいい方だった。
だから幼い時分の僕は殆ど婆ちゃんに育てられた。その婆ちゃんも昼は畑に出てしまうから、大抵は独りきりで過ごしていた。
婆ちゃんのうちは何もない田舎だったけれど、それでも退屈はなかった。
村周りの森の中は、子供の好奇心には宝の山だった。虫を捕まえ木に登り下生えをかけ転げて、一人ながらも日暮れまで遊んだ。
村へは人の往来が少ない、見知らぬ人間などまずやってこない。山と森とは深いけれど、子供の足で奥まで踏み入れるほど容易くもない。そんな周辺事情もあって、僕がどこを駆け回ろうとどう遊び歩こうと、およそ放任されていたのだ。
婆ちゃんが僕を信頼してくれていたのもあるだろう。服を汚そうが多少の傷をこしらえてようが、日暮れまでに帰れば何も問題はなかった。
「ちょっとくらいは怪我しとかんと、どれくらい痛いのかもわからん」
そう言ってにっかり笑っていた。
それでも。
退屈こそしなかったけれど、それでも寂しくはあった。
やはり遊び友達が、同じ時間と体験を共有する仲間が欲しかった。
婆ちゃんはいつだってちゃんと話を聞いてくれるけれど、やはり居るのは傍観者の立ち位置で、一緒に何かをしでかす共犯者のそれではない。
柊と出会ったのは、そんな漠然とした寂寥が濃くなり始めた頃だった。