赤き復讐者
本作は以前投稿した二つの炎をリメイクする機会がありましたのでその際にリメイクしたものです。
リメイク前の作品も見ていただければ有り難いです。
「お前と俺、どっちが勝っても恨みっこなし。それでいいな?」
「問題ない」
「話が分かるようで助かる。お前の首を取って、俺は全てをここで終わらせてやるよ」
「終わるのは君だ」
「その台詞、そっくりそのまま返却してやるよ」
冷たき風が覆い尽くす漆黒の闇の中、時期はずれな服装を身に纏った者が二人。一人は、紅色の髪に緑の瞳を輝かせる男だ。白のVネックに紫色のTシャツ、その上からはグレーのジャケットを纏い、その胸元には銀色のリングが紐に吊るされ、輝いている。黒のボムトスにスニーカー、そして髪型は一くくりという斬新な出で立ちをした男だ。
そして、そんな男と静かに対峙するもう一人――それは彼の忌まわしき『敵』。
どんな手を使っても、いかなる手を使おうとも、いかなる罵詈雑言、卑怯と罵られようが――
絶対に、確実に、必然に、堅実に、着実に、必ず――
潰したい、壊したい、破壊したい、撃滅したい、崩壊させたい敵である。
男は言う。
「さぁ、全てを終わりにしようぜ――お前を潰して、オレは全てを完結させる」
正義。比較的よく耳にする言葉ではないだろうか?
いや、一度は聞いた事があるはずだ。正義と悪。しかし、悪というのは正義の対義語ではない。正義の対義語、それは不義だ。だが、今はそれを語るという場所でも無ければ時ですらない。
正義と不義。善と悪。光と闇。一般的に考えればこの2つは常に相反する存在同士。決して、絶対に、この二つが歩むはずが無い。それが世界の真理でもある。
だが、最近よく耳にする『ダークヒーロー』と呼ばれる類はどうなるのだろうか? この『ダークヒーロー』などと呼ばれる代表的な例をいくつか挙げるとするならば、DEATHNOTEという作品の夜神月やスターウォーズのダース・ベイダー、この辺りが代表格だろう。しかし少なくとも、どちらかは一度くらい、聞いた事があると筆者は信じたい。
さて――
そろそろこの簡単な考察も終わりにするとしよう。この物語はこのような哲学じみたものを書くためのものではない。一人の男の物語を描き、そして後世に伝えていくものなのでもある。
ダークヒーロー、という存在は一般受けには、正式名称を、『アンチヒーロー』と言われる。あくまで補足情報。
この物語をあっさりと、簡単に今まとめて言ってしまえば――それは復讐劇だ。全てを奪われた男が、全てを奪うために繰り広げる、長くも虚しく、そして短い瞬間を生き抜き、正義と悪を見つめて考えた。
残り少ないその人生を描いた物語である。
そう、全てを――家族も、友も、価値も、何もかもを奪われた悲惨な虚しく、そして悲しき男、赤石鴛。
この物語は、そう――三年前のある一日から幕を開ける。
正義と悪、二つを纏い奔走する復讐劇。ひたすらその想いを炎のように絶やさぬ、男の一日は――平穏はこんな風に崩れ去る。
◆
その日は珍しく徒歩で出社した。朝の八時頃は常に電車はラッシュになる。それは日常茶飯事。妻である陽子は車やバスでいいのに、と言ったのだが俺はあえて今日は徒歩を選んだ。
理由なんて無い。細かい事を言い出してしまえばはっきり言って面倒だし、俺はそういう類の専門家ですらない。ただのサラリーマンだ。
いつも通りの商店街を通り過ぎ、そして電車の来る十分前には駅に着いた。俺はよく電車の来る1分前辺りでこの駅に来るがその時は常に大混雑。だけれども、今はスムーズに移動できた。定期券を改札口で通しそのままホームへ。移動は極力歩くために階段を使うのだけれど、自宅から駅まで歩いたからエスカレーターで昇る。
その時、アナウンスが鳴り響く。俺が行くホームの反対側にどうやら電車が一本来るらしい。十分前だけども駅って言うのは本当に忙しいものだ。
一瞬だった。
突然のように、そいつはやってきた。全身が黒ずくめで、背丈なんかも俺よりでかい。見るもの全てを呑み込むかのようなそんなものを持っている、そんなモノを感じる。はっきり言って第一印象は底の知れない、とか何者なのだろうかコイツなんてもんじゃない。怖い。恐ろしい。この二つだけだ。
しかも、だ。他の連中は何人もいるのに一切気づかない。俺だけが、そう、俺だけが気付いていて、他の連中は皆、「誰、そいつ?」とか「そんなやついたのか?」のような態度。いや――もしかすると、こいつはあえて俺だけにその存在を、自身を曝け出しているのかもしれない。そう考えるだけで無性に怖くなるし、そりゃ恐ろしくもなる。
張り詰めるような時が数分程流れた。恐らくだが、五分も経っていないのにもう一時間も経過したのではないだろうか、言えるほどに俺の背筋は凍りついていた。静かにごくり、と息を呑む。そして、目線を左右に向ける。今更なのだが、そいつは俺の横を通り過ぎて現在、俺の背後を取っている。勿論、背後といっても、ある程度距離を置いてはいた。
考えたことも無かった。存在感でも消しているのではないか? と思ってしまう。俺だけが知り、そして気付いているという現実。しかし、他の皆は誰も知らないという現実。気付きもしない。そうなれば答えは一つ。存在感を消している。
そう考えることがあの時出来ただけで俺は自分を誉めてやりたい。上出来だ、と。だが俺はその先をあえてしなかった。怖くて出来なかったのだ。
比較的俺の身長は高いほうで、今年の春に健康診断で測定したが、一八〇はある。しかしやつはそれを更に上回っている。でも、それは十二分にありえるのだから責めようがない。例えるなら、チェ・ホンマンなんて身長が二一八もあるらしい。噂だと世界にはさらに、それを上回る人間もいるらしいから世界なんて広い。そう考えれば、これはこれで自然な選択だったのではないだろうか? 身長もだが、その圧倒的な違和感と恐ろしい何かは俺をヤツから引き離す最大の要因にもなっていた。
だから、駅のホームに電車が到着したと同じに俺は一目散に駆け出して、電車に駆け込むよう、乗車した。後列でもないのに駆け込み乗車を行った。簡単だった。この恐ろしく、おぞましい何かから逃亡したい。たったそれだけ。俺がふと、窓を見つめるとたまたまだったのかホームの方を向いていた。どうやら気付かない内にホーム側にたっていたらしい。電車が発車するという合図のベルのチャイムを鳴らす。ヤツが唐突に口を開いた。勿論、それが男か、女かなんて認識できない。だが、はっきりと声は聞こえなかったが、何を言っているのか理解できた。
「サヨナラ」と。ヤツはそう口にした。
その日の俺はさっさと仕事を終わらせた。早く家に帰り、陽子や秋春に会いたかったからだ。あ、秋春って言うのは俺の一人息子のことだ。陽子のヤツが聞かないから渋々俺が折れて、今の秋春という名前になったのさ。
陽子曰く、春のように明るく、秋のように静かなイメージと共に季節の変わり目でも元気でいれますように、という意味を込めたらしい。中々な発想力の持ち主だなぁ、とか俺は思っている。
そして、俺がさっさと仕事を終わらせるとヅラ、とあだ名で呼ばれる飯原課長が俺を呼び出した。飯原課長は頭の上が綺麗に整った黒髪。ハゲだというのだが、それをあえて隠すために今は黒の頭髪のカツラを被っているらしい。因みにヅラというあだ名は新入社員一同信じられない、という言葉が定番文句。俺も例外なくそのうちの一人で、今の話も先輩から聞いたくらいで本当か嘘かは分からない。当の飯原課長は時代の流れだ、とか言ってもうこのあだ名を正式なものとして認めようとしている。まぁ、俺の個人的な意見としてはもっと強気になって反対してほしいもんだ。でも、反対しないということは同時にそれは本当だ、ということを認めていることになる。
――考えただけで想像したくなる、飯原課長のハゲ。というのがちょっぴり俺の中に含まれる本音だったりもする。
「赤石。お前さん、今日はやけに早く仕事が片付いたな」
「えぇ……はい、まぁ」
「なんだ、悩み事か?」
「いえ、そんなわけじゃないですよ。今日は気分的に早く家に帰って休みたいな――と思ったくらいで」
「……そっか。まぁそれでいいのなら私は何にも言わん。だがな、赤石。世の中人間は1人では食って生きていけない。悩み事だって同じことだ。一人であっさり解決できることは悩み事ではない。しかし、一人で思考したのにも関わらず手が打てない、これが悩みっていうものだ。それをちょっと考えてくるのはどうだ?」
やけに真剣になってその事を口にした飯腹課長は今でも思う。
この世界であの人を超える最高の上司は存在しないんではないか――と。
俺はとにもかくにも、会社を出て一目散に家に向かった。背後や周辺に違和感は感じなかった。勿論、それは社内でもだ。しかし――
俺は見てしまった。あの炎を。忌まわしき赤色を。思い起こしたくも無い悲しみを。そして――痛みを。
今から三年前の十一月九日。午後四時三十六分。俺の家が炎によって溶けていった――悪夢の日。そして同時にそれから約四時間後には秋春が死に、そのさらに五時間後には――陽子が死んだ。午前一時二十三分、赤石陽子が、俺の大切な人達が、家族がみな消えた。
俺はあの日、どれくらい涙を流し、どれくらい叫んだのだろうか。喉は枯れ切り、涙によって顔中がぐしゃぐしゃに崩れている、と看護師は言った。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて――泣きまくった。
それが全ての始まりだった。
「………嫌な夢を見たもんだぜ……。もう朝か……」
男が一人、目を覚ます。周囲は何も無かった、と言えば嘘になるだろう。あたり一面はガラスの破片や掃除をされていないのか汚れきった空間が静かに佇んでいる。
男の名前は赤石鴛。現在懸賞金二百万、という首のかかった犯罪者である。最も、彼の知り合いは皆、全滅しているために彼のことをよく知るものは誰一人としていない。勿論、前述に挙げた飯原も殺害された。一年と三ヶ月前のことだった。そして、それを行った最有力の人間、と言われているのがこの赤石鴛なのである。
現在、二十八歳。職業は現在無職。容疑は放火と殺人。現在まで約百人近くが殺害され、現在警察が彼の身辺者全てをガードしている状態にまで発展している。
当然、日の目を歩けない彼は朝、というのが嫌いだった。しかし、そんな彼もある人物と連絡を取る必要があったのだ。
鴛はジーパンの右ポケットから携帯を取り出すと、それを使って電話を始めた。
「もしもし、俺だ。鴛」
「鴛か。何の用だ? オレとてそんなにお前とは話せないのだぞ?」
「分かってる。それを見越して連絡した。頼みがある。構わないか?」
鴛の携帯の奥から響く声は鴛よりも野太く、そして低い声。大方、相手は男だろう。
鴛はその相手を信頼しているような口ぶりでこう話した。
「今日中に三万、準備してくれないか? そろそろ動こうと思う。警察にどうやら気付かれたらしいからちょっと不味そうだ」
「またか。お前、相変わらずツメが甘いな。まぁいい、じゃあ今いるところを調べてまた連絡する。その後、使いの者を送からな。三万でよかったな?」
「あぁ。助かる」
「ん、じゃあそろそろ切ってくれ。盗聴される危険が無いわけではないからな」
「了解。んじゃ」
そう告げると鴛は電話を切った。あの人物は信頼できる。
鴛はそれから小一時間程度、適当に暇をつぶした。今後の逃走経路や暇つぶしに少し物事を考えたり、そして軽めの食事を口にする。
だが、鴛は常に意識していた。自身の忌まわしき因縁を。そして、忌むべき敵を。
それは鴛のみが知る事実にして真実。鴛は知っていた。この事件は仕組まれたものだと。もっとも、それを知ったのは鴛が今の生活に入ってからである。
いや、鴛だけではない。もう一人いる。あの男ならば、あの人物ならば気付いているかもしれない。
そして、不意にその人物は姿を現した――。
「久しぶりだな、鴛。三ヶ月ぶりか……。こうやってお前の姿を見るのは」
「……アンタも諦めが悪いもんだ。いや、それ以上にアンタ以上に優秀な刑事はいないのか?」
「バカ野郎。お前が何かをしている事くらい警察はお見通しだ。で、さらにおれはいくつかの考えがあるわけだ。お前が犯人じゃねぇってことくらいおれは昔から思ってる。まぁいいさ、今は逃がしてやるよ。どうせここにもおれ一人しかいないからな」
「………いいのかよ、絶好のチャンスなんだぜ?」
鴛はその男を試すような口ぶりをする。その男は鴛よりも背丈は低いものの、口元の髭、さらにはスーツが男の貫禄振りを露にしていた。
そして、そんな彼の口調は常に余裕ぶっている。
「構わない。おれとお前の仲だ。まぁ、職場じゃ敵だがな。今はプライベートだよ、トイレ行くっていう口実な」
「……呆れたもんだぜ、岸岡さんよ」
「へっ。それがおれなのさ。………十五分以内にこの近隣から失せな。容赦はしねぇ」
それがこの時の最後の言葉だった。鴛はすぐさま手持ちのバッグを手に、その場から駆け出す。逃走だった。
そしてそれから何時間も走った。街を出て、道という道を走り、近くの生い茂った森に逃げ込んで鴛は荒くなった息を吐き出し、新鮮な息を吸う。
この逃亡生活は何かしらマイナスな部分だけでなく、こういった体力面の強化を促していた。正直やろうと思えばマラソンの走者にもなれるのではないか、とまで鴛は思ったくらいである。
その時、彼のポケットが振動した。この電話に入れてある電話番号は一人だけだから特定は楽だ。
「もしもし」
「鴛。今どこにいる?」
それが第一声で返ってきた言葉だった。鴛はとりあえず、今の現状を口にすると共に、金の件は少ししてからがいい、と言う。相手もそれに同意した。
「色々急な変更ですまないな、マスター」
「構わんさ。お前は警察で狙われるような男じゃない。真犯人を突き止めるんだろ? だったらオレはいつまでも付き合ってやるよ、地獄の底だろうがな」
「サンキュー……っと」
そう口にした矢先、鴛は電話の止めた。パトカーが近くを通ったからである。息を潜めて、近くの物陰に身を隠した。
――どれほど経っただろうか。鴛は少しだけ顔を外へ出し、周囲の様子を伺う。こういう時は大概、自分が思ったほどの時間はほとんどの場合経っていない。
そういう事を分かりきっているのか、は至極警戒心を持って周囲を見渡した。運がいいのだろう、鴛の視界に警察はいなかった。しかし、安心はできない。
捜査網は恐らく今鴛のいる近辺まで広がり始めている。早く逃げなければ間違いなく捕まる――そう考えたのか、鴛は大きく道を反れ、岩肌のある山岳方面へと逃げる。そっち方向にも人がいる可能性は拭えないが、しかし、行かないよりは間違いなくマシだ。たとえ、それが罠だったとしても。
思った以上に人はいなかった、というよりは驚くべきことに警察の手が一切及んでいなかった。考えようによっては大チャンスだが、山中で遭難でもしたらそれこそアウト。間違いなく捕まってしまう。鴛にとっては悩ましいところでもある。
「よし、行くか」
即決。到着僅か五分であっさりと、決まってしまう。
その山岳は岩肌があれていて、山登りの道具を持たない鴛にとっては困難極まりない、そんな状態の山登り。
そして――その頃。鴛を追う岸岡――岸岡龍治は一度捜査本部へと引き返していた。鴛とは過去に数度、対決しており同時に鴛をもっとも追い詰めている刑事なのではあるが、未だに捕まえることが出来ない。
ルパン三世に例えるなら、この岸岡は銭形警部というべき存在である。
もっとも、今回引き返した理由はそれだけではない。鴛の関連する事件、全てにおいての情報を再度整理しようとしているのだ。
「…………三年前の鴛の家が火災。焼け跡から遺体が二つ発見………。いつ見ても不自然だ。人間関係を調べてもあいつは何の異常も無かったのに人の手による火災というのが未だに信じられん。ふむ……」
そんなことを一人、静かに呟きながら岸岡は他の関連する事件資料を取り出す。全ての被害者が死亡し、その近くには必ず赤石鴛の目撃情報。そう考えると、確かに鴛がこの事件を起こしたようにも聞こえなくない。
だからこそ、警察は彼を犯人としたが、少なくともこの男――岸岡龍治の意見を述べるなら、彼は犯人ではないと言いたい。しかし、それでは真犯人をどう炙り出すか、それ自体も分からない。
――そんな時。
「岸岡先輩!」
ふと、岸岡の背後から声がかかる。声は乙女のような声域をしていたところから大方、女性だろう。岸岡が静かに言った。
「遙。何の用なんだ? ん?」
岸岡が椅子から立ち、振り返った先に見えた人物。桃色の髪をし、岸岡よりも少し小さいくらいの背丈。胸の大きさは軒並みのようである。そして同時に、若々しい肌を持った一人の女性――遙、と呼ばれた人物がそこにいた。
「いえ、先輩が戻ってると聞いて」
「そうか。いや……事件の資料を洗いざらい調べなおしていたところだ。赤石鴛を一刻も早く逮捕するための情報収集だ。次は逃がすわけにはいかないからな」
「さ、さすが先輩! もう次のことを考えているんですね!」
「まぁ、あくまで逃げられた、というのは可能性に過ぎないさ。一応念には念を入れないといけないからな。遙はこんな本末転倒な先輩の真似はするなよ?」
「いえ、先輩は計画性があっていいですよ! すぐに様々な可能性を見出そうとするんですから!」
「そうか……誉めていただいて、そいつぁ光栄だ」
岸岡の軽めの笑みに遙は黒めの笑みを浮かべると、岸岡の右腕に自身の腕を通して抱きついてくる。遙の胸が岸岡の右腕に密着した。
「お、オイ! 遙、止めないか!」
「いやですよぉ~。先輩が晩御飯奢ってくれるって言うなら……話は別ですよ?」
遙の言葉に岸岡は少し思考した。正直ストレスを紛らわすためのタバコを買うお金はそんなにない。しかも正直財布はもう厳しい。銀行から引き出せなくも無いのだが、そんなことをすればすぐに妻がうるさくなるだろう。
色々な思惑が頭を過ぎるが、うまくいかない。やがて岸岡はドッと深いため息を吐いた。
「………分かったよ、奢ってやる。ただし、絶対に安いのにしろよ! タバコ買いたいんだよ」
「わっかりましたー!」
その言葉と共に遙の腕が岸岡の右腕を離れる。しかし、顔は満面の笑みを浮かべていた。勿論、黒い笑み。
だが、気持ちを切り替え、岸岡は言う。それは指示だった。
「………で、とりあえずだが、この辺りに捜査網を少し張る。10人程度でいいだろう。周囲を囲む感じでいい」
「分かりました、先輩」
岸岡の雰囲気に合わせ、先のお調子者とも言えるような雰囲気を完全に払拭した遙はそそくさとこの空間から出て行く。
「秋本遙………ね。色々すさまじい新人だな、ありゃ」
再び椅子に座った岸岡は静かにそう呟いた。
最初に言っておこう。この物語のヒロインとも言うべき存在、秋本遙はこの瞬間、物語にフェードインする事になる。
そして、その頃。
「やっと………着いた………」
岸岡が遙に捜査網を張る指示をしてから数時間後、鴛は山岳地帯を越えていた。鴛の入った側はすでに捜査網を張られているが鴛が今いる場所へは最低でも後1時間から2時間半ほどかかる。
今急げば逃走はより強固なものとなる。地図を広げた。
「………ターゲットがいやがるじゃねぇか」
ニヤリ、と鴛の口元が自然と歪んだ。そして地図を仕舞うと移動を開始する。徒歩三時間ではあるのでリスクこそあるがその街には鴛の事件に関係する人物が潜んでいる。
情報を得ること。それが真実へと、自らの無実を正真正銘なものにするためには必要不可欠なのである。
決断をすぐにマスター、という例の人物へと知らせる。
「マスター、ちょっと動くわ。オレのために」
「………悟られるなよ」
「分かってる。思い切り暴れてくるわ」
「それをよせ、と言ってるんだ」
「まぁいいじゃねぇか。このところ不機嫌だったんだ。ちっとは勘弁してくれよ」
「………好きにしろ。警察にバレるなよ」
「分かってるよ」
いつもの鴛とは違う口調で話す男。しかし、それも鴛そのもの。大きく歪ませたその口元から開幕の言葉が出現する。
「さぁ、祭りを始めようじゃねぇの――」
鴛の右ポケットから姿を現す黒き物体。それはマスターの力を借りて手に入れた、我が国の陸上自衛隊が使用していると言われる拳銃。またの名を、こう言う。
SIGSAUERP220と。
◆
正義とは何か? 悪とは何か?
それを語りだせば、恐らく議論は永遠とやむことは無いだろう。理由など簡単である。世界は、生きとし生ける生き物全てが殺し合うことで成立している。
例を挙げなくても簡単だ。草食動物を家畜に、肉食動物は反映し、やがて死に絶えた動物の肉や骨などは植物たちが養分として吸収する。
そして、植物たちを草食動物は食べる。他にも微生物などがこの世界には存在するから今述べたとおりに一〇〇パーセントなるとは限らないが、しかしそれでも相当な高確率でこの理は世界の常識として通用するだろう。
それが現実である。
さて、今のはあくまで野生動物で例えだ。では今度は人間の番である。人間は正直語りだせば、本当にそれこそ止まらなくなる。それは、人間が今までに行ってきた行動の数々は正直並べれるわけがないからである。
極端な意見から言ってしまえば、戦争はその一番の例だろう。自分たちが全て、自分たちが正義。他――敵は全て悪。
これが戦争の現実である。戦争だけでなく、紛争やテロなどもこれには当てはまるだろう。
しかし、筆者が思うに、それは実に滑稽でありながら、くだらないものだと思う。現実を見れば、社会は全てその理に囚われている事になる。世界は知らず知らずの内にそれが当たり前となっている。
日本は戦争をしない、という絶対方針を掲げてはいるが、今の世界の情勢を見るにそれはもう不可能ではないか、と思う。しかし、筆者としては今の日本のこの絶対方針、実に素晴らしい。
しかし、その素晴らしいがゆえに我らが祖国は世界の厳しい認識から遅れているのである。自分がいつ死ぬのか分からないサバイバル。
海外では銃などの所持を認めているらしいので、そういう考えからいけばいつどこで、誰が死ぬのか、自分がいつ息絶えるのかという事を今の我々は一切の如く意識していない。
精々、しだして年老いた頃にその意識を始めるくらいだろう。病気にでもかかっていない場合は。
赤石鴛は、ある廃墟と化したビルを中心にターゲットの追い込みにかかっていた。勿論、真犯人は知らない。
だからこそ故に、その僅かな目撃情報を彼は調べ上げる。一歩一歩。確実に――彼は動くのだ。
そして、街に到着してから早三日。ターゲットに彼は遭遇した。
「ふぅん……つまりは、何にも知らないんだな?」
「ッ! ――ッ!!!」
「……………」
今の現状。それは路地裏で鴛が1人の男を脅迫する絵図だった。
男の口内に銃を無理やり押し込み、一応の確認をしてから鴛は質問を始める。しかし、収穫は無い。
鴛は聞いてもこれ以上は無駄だと判断したのだろう、口内から銃を引き抜いた。途端に男は息を思い切り吸う。その矢先。
「……ガ……!?」
非情とも、冷酷とも言える一発が正面から男の心臓を貫いた。一応、射撃はある程度できる鴛であるが、念のためと言わんばかりに何発も撃ち込む。
勿論、男はすぐに息絶える。苦しみながらの死。
そして、鴛は呟いた。男の死体を静かに見下しながら。
「同格なんだよ。テメェも。あの真犯人と」
鴛はすぐさま、口内に入れた銃をブンブンと振り回し、唾液を追い出す。そして、すぐにその場から離れた。
時は夕闇を迎えた警察署。一本の電話が唐突に鳴り響き、岸岡らはすぐに出動した。本来ならば管轄でない岸岡が出向くというのはどう見ても不自然極まりないのであるけれど、彼がどうしても行くと五月蝿いし、またこうも言った。
「赤石鴛関連の可能性があるかもしれない」
勿論、後者の意見の方が明らかに現実味もあった。その影響もあってか、彼もこうして現場に向かう事が叶ったのである。
そして、現場に到着してみれば岸岡の予想通りの展開となった。男が一人、無残な殺され方をしている。心臓を何発も撃ち抜く殺し方。この時点で大方の予想はついていた。よって、岸岡龍治は告げる。
「今すぐこの街に包囲網を張っていただきたい」
「なんですと? ここは貴方の管轄ではない。勝手なことを――」
「これは恐らく、赤石鴛による犯行です。心臓を無駄に何発も撃ち抜くといったやり方は正直ヤツくらいでしょう。ヤツの癖はいつになっても直らない。最も、拳銃やら銃弾のサイズにもよりますが……ヤツの持つ銃は我が国の陸上自衛隊の所持するSIGSAUERP220。一応、確認を取っておきたいのですぐに鑑識を回して下さい。死体を見る限り、まだ一日も経っていないようですし」
「わ、分かりました……」
岸岡の素早い分析力に感服したのだろうか――はたまた、降参でもしたのであろうか、現場の刑事は岸岡の言葉を鵜呑みにし、その言葉通り行動を始める。
岸岡は現場から少し距離を取ったところで、中身の寂しい有り金を奮発して、タバコを一箱購入する。
そして、壁に背を任せ、静かにタバコを吸い始めた。
「鴛。お前はなぁにしようとしてるんだ……」
同時刻。鴛は既に街を出ていた。理由は単純明快、たまたま人ごみにまぎれていた際にパトカーを発見したからである。
もっとも、こんなにあっさり脱出できるとも思っていなかったのだが。
そして、今彼が何をしているのかというと――
「マスター、俺だ。金を今渡せるか?」
「あぁ、問題ない。ところで今、どこにいる?」
「………川梨町と市の境目だ」
「……なるほど。分かった。じゃあ川梨町を待ち合わせにしよう。使いのモンを送るから受け取れ。合言葉はいつものでかまわないな?」
「かまわねぇ」
「じゃ、GoodLuck」
マスターのそんな言葉が最後に通話は途切れた。英語のしゃべり方は流石にうまい。マスターとは直接会った経験があるのではあるが、彼の本来の職務は喫茶店のマスター。漫画やアニメにも出てきそうなよくありげな何でも知っていそうな雰囲気を持つパターンの人間である。最も、彼は単純に鴛の人間味を気に入って手を貸してくれているから鴛にとってはありがたい支援者である。
マスターの使いとやらと落ち合う川梨町というのは文字通り、梨の栽培がとても盛んな町だ。その町はしかも川の流れる流域にのみ、陣を張るようにして梨を収穫している。そんな方法でずっと収穫されてきた。だからこそ川梨町と呼ばれているのだという。
川梨町は現在地からバスを数本乗り継いだ先にある。急げば警察の検問にかかるような事も無いだろう。鴛は静かに歩む。目的は未だに達されていない。
達されるためにはもっと材料が、資料が必要だ。やがてやってきたバスに乗り込んで、見つかる危険性の非常に低い座席で正体が露見しないように留意しつつ、彼は静かに身を屈めて到着のときを待つ。
川梨町に着いたのはそれから約三十分後のことだった。川梨町に着いて、彼は真っ先に待ち合わせ場所に指定されたコンビニを訪れる。
「あんたがマスターの使いか?」
場所はアイスクリーム売り場。そこでアイスを選んでいた男に鴛は小声で声をかける。男は静かに頷いた。
「あんたが鴛さんだな。マスターが気に入る理由が分かるもんだ。これが約束の金だ。受け取ってくれ」
「……わざわざすまなかったな。俺のために。気付かれないように早く帰ってマスターに伝えてくれ」
「あぁ。そうさせてもらうよ」
男はそう告げると、足速にコンビニを後にした。バニラバーをきっちり買って。
(あいつこの時期にアイスって……)
そう静かに思う鴛の気持ちも分からなくはないだろう。今は――冷たき風が覆う、冬の季節なのだから。
「………マスターもきっちり仕事してくれるじゃねぇかよ」
鴛は封の中を見て静かに微笑んだ。中にあったのは何も金品だけではない。マスターが独自の情報網で掴み取った彼なりの提供できる情報もまた、中に付属されていたのである。
時は変わる。
それは始まりを告げる生の瞬間もあれば、終焉を告げる死の瞬間もまた同様。
「………なるほど。コイツは中々な手土産を持ってきてくれたもんだ」
「…………」
静かな喫茶店の中で終始無言を貫き通す者と饒舌な者。しかし、今の状況を見れば、この現実は有り得ないのである。
「岸岡」
「ん?」
ガラスコップを布巾で磨く動作をし続ける人物――岸岡は随分呆気なさそうな反応を示す。それが逆に不気味だった。対する人間としては。
「あぁ――お前が持ってきてくれた死体のおかげで変に冷静になれた。どうにも、影響されちまったのかも……な」
そうやって岸岡は淡々と口にする。赤石鴛を追う岸岡龍治の実父にして、赤石鴛の旅と復讐を影でアシストするマスターとは彼のこと。
そして――そんなマスターと対する人物の間には1人の人間の死体が転がっていた。それは、ほんの少し前まで鴛と金品のやり取りをしていたあの人物である。
「それにしても――」
突然、マスターが切り出す。今までは彼と対する者が言葉を口にしていた以上、普段ならばそれは存外平凡のことのように見える。
今のこの状況下でそれを成し得るのは正直不可能に近い。いや、まず出来ないはずなのだ。だというのにも関わらずそんな不可能をなし得てしまうマスターはただのバカなのか、そうでないのか――答えは聞くまでも無い。
「今まで表舞台に一切上がらなかったお前さんが今更急に表舞台に躍り出るとは、中々面白くなってる。良い企みでも閃いたのか?」
「…………」
「まぁ、鴛の野郎もお前さんが動いたなんて情報、すぐにでも手に入れれるさ。どうだい? 鴛の電話番号、ゲットしておく?」
マスターはズボンのポケットから小さな紙を取り出す。そこには携帯電話の十一桁が記されていた。
「…………貰っておく」
そう呟いて、奪い取るように紙を取る。
「さて、真犯人さんよ。オレを殺りに来たんだろ? 殺ればいい。それでお前が良い、というのであるなら」
「そうだな……そろそろフェードアウトしてもらわなければ困る。そしてお前もまた同様だ、岸岡順治。お前たちを殺せば、赤石鴛に助勢する力は一切無くなる」
「えげつねぇ野郎だ。あそこまで赤石鴛の全てを奪い去っておいて、なおまだ奪うか。怨恨か?」
「そう、怨恨だ。ただの怨恨」
「いい具合に饒舌になってきやがったな。怨恨なんてあいつはするわけがねぇと思っていたが……」
「そう、赤石鴛自身の怨恨ではない。赤石鴛はたまたま近かった。ただそれだけ。当の本人は狙うだけ無駄だったから」
「とばっちり……いくらなんでも無茶苦茶だろ」
呆れ口調で岸岡順治は正当な意見を述べる。
「もう語るのはたくさんだ」
おしまいにしよう――と真犯人は言う。
そうだな、と岸岡順治は言う。それが岸岡順治の生前最期の言葉であった。
静かな喫茶店に響く銃声は一人の人物をストーリーからフェードアウトさせる。
――数時間後、順治の店の常連客により、通報を受けた警察が彼の死体の検分をする。勿論、下された死因は射殺だった。
そして、この事件が――物語を終結へと導く、重要な出来事となることを知る者はまだいなかったのである。
◆
「貴方が赤石鴛………ですね!」
銃口を突きつけ、静かに降伏するように、と告げる声。それは女性だった。
赤石鴛を追う警察官はさほど少なくは無い。
茶を基調としたビジネススーツを身に着け、鴛の前に立ち塞がる女性――それは岸岡龍治を慕う後輩、秋本遙であった。
「そうだけど何か?」
「逮捕します」
「出来るのか? お前なんかで。見たところ、なりたてだろ」
「逮捕する、と言ったら逮捕するんです。あたしは貴方みたいな犯罪者を許すつもりはありません。それがあたしの正義です」
「正義……ねぇ。そんな安っぽい正義を張られても俺には一切の如く通じない」
「………なら試してみますか?」
「別に構わない」
鴛が駆け出し、同時に遙も飛び出す。遙も警察の人間なのだから多少の護身術は身に着けている。そして、鴛もまた、この長き旅路を通じて護身術をある程度ではあったが身に着けていた。
双方が双方の衣服に接触しようとした瞬間、両者の携帯が振動した。全く同一のタイミングで起こったのである。
「マスター?」
「先輩?」
鴛、遙の両者が戦闘を中止して携帯に出る。その発信主もまた、驚くべきことに――同一だったのだ。
「………鴛、それに遙か。二人とも、まさか同じ空間にいるのか?」
「アンタ、何でマスターので……」
そう、通話の発信主。それは岸岡龍治である。マスターこと、岸岡順治の実子なのだから岸岡が通話を発信してもそれはおかしくないのだろうし、一方で岸岡の判断力、思考力があれば自らの父が鴛に助力していたことを見破ることなど造作のないことだろう。
「………鴛、携帯をスピーカーモードにしろ。出来るな?」
「………………分かった。ただし」
「分かっている。遙、話が済むまで絶対に手を出すな。これは鴛にとっても重大な話だ。本来ならば署で話してやりたいところだが――それでも、お前にこの男を捕らえる事が可能という保障が何一つ無い以上は今ここで言うべきだとおれは判断する。警察官失格と――罵られても」
「分かりました、先輩」
遙も不服な気持ちでいっぱいだろう。しかし、そんな気持ちを無理やり抑え、遙は頷いた。言葉、という形での了承を彼女は取る。
「赤石鴛。お前にずっと助力していたマスター……おれの親父、岸岡順治が――」
岸岡の話の途中で、鴛は突然叫んだ。その先の言葉を彼は既に理解しているかのように。いや――この切り出し方で気付かない方が寧ろ異常だろう。
「言うな! それ以上………言うな………ッ」
「………殺された。何者かに」
岸岡の言葉も怒気に包まれている。自身の父親が殺害されたのだから、当然の怒りだ。そしてその先の言葉はこうだった。
「お前、おれの親父にまで手を下したのか?」
「………違う。マスターと最後に会話を交わしたのはほんの2、3日前だ。その時は元気だった」
「………まぁ、どっちにせよお前は違うだろうな。少なくとも、お前と親父の店の方角は真逆。殺しに行って、元の位置に戻ることを2、3日で出来るような移動距離でもまた無い。………すまなかったな、お前じゃないと分かっているというのにも関わらず、お前を疑ってしまって」
「…………………………」
岸岡はさらに続けて言う。
「今回の件、明らかに何かがある。お前にずっと協力していた親父が突然殺された以上、おれはお前が殺したとは考えにくい。なら今までの事件もそうだ」
「で? 結局、何が言いたい」
「………お前はこの件にこれ以上手を出すな。明らかにお前を陥れようとする者の大きな罠だ。それにずっと気付いてやれなかったおれが今更な事を言うようだが――おれはこれ以上お前に手を汚してほしくない」
「………断る。あいにく、既に殺しの世界でしか生きていない人間でね。俺は俺のやり方で本当の敵を見つけ出す。俺のやり方に口出しをしないでもらおうか」
暫しの沈黙。長年、二人が築いた絆、仲。全てが一瞬にして崩落していくのを物語る時間だった。
やがて、岸岡が重い口を開いた。まるで、鴛に言い聞かせるように。
「……………それが本当に正しい正義なのか? お前、何を口にしているのか分かっているのか? そのままだとお前も真の敵――真犯人と同じだぞ。どっちも変わらない。世界の『敵』で世界から見れば『悪』でしかない。それを理解しているのか?」
「………もう決めたんだよ」
その言葉と共に通話が切れる。いや、鴛が一方的に切った。遙の姿は既に無かった。不自然でこそあったが、遙は遙なりに最善の行動を取ったのだろう。
鴛は彼女のことを責めるつもりは微塵たりとも無い。
「マスター…………」
鴛の静かな声が辺り一面を包む。同時に、その言葉は一瞬のうちに消えていった。
流石は岸岡龍治。もう気付いたのか。
何者か?など、聞くまでも無いだろう。
赤石鴛を嵌めた人物、これで全ての説明はつくはずだ。
岸岡龍治の感の良さは昔から薄々感づいてはいた。だからこそ、警戒はしていたのだけど――しかしそれでも、赤石鴛にまさか岸岡順治が助力していると知った時は驚かされた。規格外の相手が敵に回ったせいで、少し我を忘れて殺しにかかったのが迂闊だったか。
それほどの難敵だという事だ、岸岡順治は。しかし、早まってしまった事に変わりは無い。岸岡龍治も案外あっさり気付くのかもしれない。
その前に――どうやら暫く影に潜めてはいたけれど、動きださなければならなくなってきたようだ。
自らの手で直接手を下すのはそこまで好かないけれど――仕方ない。
赤石鴛、そして――岸岡龍治。
二人を葬り去るとしようか。
それは突然の事である。
突然携帯を襲う振動音。取り出してみると相手は一切顔も知らないような者――非通知番号からのコンタクトだった。
鴛は何事か、と思いつつ出てみた。岸岡が携帯でも変えたのだろうか、というような少し軽いノリである。
それがあまりに予想外の相手だと知らずに。
「やぁ、久しぶりだね――赤石鴛クン」
どこか皮肉を混ぜて、かといって余裕をたっぷり持ったような――要約してしまうと、見下したかのような声でヤツが現れた。
鴛の全てを破壊し、鴛の人生を狂わせ、鴛の周囲を全滅させ、そして――彼の恩人、岸岡順治を殺めた可能性が最も高い憎き声である。
しかし、その声はエコーがかかっているせいで男女の認識が出来ない。
「よぉ久しぶりだな、元気にしていたか?」
「あぁ、元気にしていたさ。それより――キミも分かっているだろう?」
「………………」
鴛は答えない。声の主が何を言おうとしているのか――それが理解できているからだ。
「岸岡順治はワタシが殺した」
「………やっぱりそうか……」
「やはり、薄々気付いていたみたいだね。まぁ仕方あるまい、ワタシも少々迂闊だったよ。岸岡順治がキミの背後にいると分かって血相を変えたように敵の陣地へ入っていってしまった。迂闊と言うか愚かだったと思うよ。うん、愚か……というよりは呆れものと言うべきだね」
「勿体ぶってないで、電話した理由を話しやがれよ」
「……いいだろう。今回はキミへちょっとしたアドバイスに来たのさ。赤石鴛」
「ほぉ、テメェの正体でも教えてくれるのか?」
「その注文はオーダーできないな、流石に」
「オーダーしやがれ」
「却下だ」
「………じゃあ聞かせてもらおうか。アドバイスとやらを」
鴛の言葉に拍を二つほど置いて――語り出す。
「まず……最初に言おう。キミとワタシは同じだ」
「何?」
「色々反論があるだろうが、一番分かりやすい部分で話すとしよう。『人殺し』。
これをキミは容認するかい?」
「……しねぇよ。まぁ、そうは言っても俺が言えた口じゃないけどな」
「そう。人殺しは最低だ――と言う事は世界の摂理だ。常識。しかし、ワタシもキミも人を殺めている。これがどういう意味か分かるかい?」
「………何が言いたい?」
「キミは――絶対に有り得ないと思うが、一つ仮定を立てるとしよう。
キミがワタシを殺した後、キミはどうする? 生きる意味も失った孤高の人生をキミはどう生きる?」
「……………………………………」
鴛は答えない。いや、答えられなかった――と言うべきだろう。
「やはりキミはワタシと何一つ変わらない。ワタシをキミが『悪』だと言うのならば、それはやはりキミとて同じこと。『悪』であることに変わりない」
声の主は続けて言う。
「それにワタシを見つけ出そうとキミは色々と奮闘しているようだが――無駄な行為だ。キミにワタシは見つけられない。所詮は無駄な行為だ。その間にキミは罪人の烙印を押され続ける。
分かるかい? キミの全てはもう破綻しきっている。終わりを迎えている。牢の中で大人しくしておいた方が身のためだとワタシは思うけどね」
「うっせぇよ」
鴛は静かに言い返す。
「お前如きに俺の人生は狂わされないし、お前が絶対に捕まらない保証がどこにある? 俺はお前に復讐すると誓った。その誓いを果たすまでは――
仮に死んだとしても、死に切れないだよ。お前をこの手で叩き潰した後の事なんてその時に決めりゃいいだけの話だろうが!」
「フフフ、その意気だ。是非その調子でワタシを楽しませてくれ、赤石鴛クン」
そんな声と共にブツッと通話は途切れた。かけ直す気は一切無かった。微塵たりとも起こらなかった。
あるのはたった一つ。復讐の憎悪が更に燃え上がったこと。ただそれだけだ。
しかし、鴛はある情報を手にしていた。それは岸岡順治が鴛に遺してくれた最後の情報――
「『最端市』――。あの人の情報通りなら、いるはずだよな。ヤツの正体を知る者が」
岸岡順治の遺した最後の手がかりを追い求め、鴛は最期の地へと向かう。
勿論、そこで全てが収束する事など、誰一人知るはずもなかった。
場所は変わって警察。
岸岡龍治は三日間の休暇を得ていた。
理由など深く考える必要はないだろう。自らの父を殺害され、岸岡は少しばかり休暇を戴いたのだ。最も、本人はいらないと断ったのだが後輩の遙にたまにはゆっくり休んでください、と促されこうして今は三日間の休養を楽しんでいる。
最も――自宅には何も無い。三十代後半の岸岡は未だ未婚。たまにやって来る父親ももう二度と来ることは無いのだ。
一人静かにタバコを吸う岸岡。表向きは強がっていてもやはり肉親が殺されるというのは想像を絶するものがある。鴛が受けた苦しみ、憎悪――それらをやっと理解できたような気がしていた。
そんな時である。突然、チャイムが鳴った。自宅では基本的に服装に一切の気を遣わないので二、三分
ほどしてから岸岡は扉を開けた。
「ッ!」
突然だった。扉を開けた先にあったのは銃口。その口から銃弾が弾き出される。
その一発の銃撃は岸岡の右肩を直撃した。
「ぐああああああぁぁぁぁぁぁぁっッッ!!」
勿論、銃弾を受ける経験をしていない岸岡がこの痛みに耐えられるはずがない。
そして岸岡は悶絶するように床に倒れる。拳銃が向けられる。
(デザートイーグル……! 拳銃にしては中々の上玉か……)
この状況に置いても、岸岡は冷静な判断力を欠かす事は無い。
しかし、その判断力が仇となる。岸岡は瞬間的に悟ったのだ。
自分の死期はここだという事を。
「岸岡龍治。お前の死に場所はここだ。ここで果てて――父親の元へと逝くがいい」
引き金は引かれる。そしてまた一人の生命が消え逝く合図でもあった。
「………そう簡単に死ねますかって……」
「無駄な抵抗を……」
岸岡は立ち上がっていた。肩からの出血は止まらない。ドクドク、と流れ出る血。警護用の拳銃も無い――言わば裸装備の岸岡に当然、勝てる見込みも無い。
「フン、父親以上に諦めが悪いな。ワタシ自らがお前を殺しに行く羽目になるなど、思っても見なかったぞ」
「お前か、おれの親父を殺したのは」
「あぁ。ワタシが葬った。色々と危険な存在だという事は分かっていたからね」
「私利私欲か」
「私利私欲なんてものじゃない。ワタシにはワタシなりの断固たる意志がある。キミ達のように………」
再び、拳銃を――デザートイーグルを静かに岸岡へと向けた。
「失格だ」
◆
最果市。
そこに全ての手がかりを知る人物がいる。鴛は早速行動を開始した。
ところが、である。その人物が自分からコンタクトを取ってきたのだ。鴛は勿論動揺し、同時に――罠なのではないか、とまで思い込んだ。当然、と言えば当然の判断だろう。
しかし、引き下がるわけにもいかず、鴛は結局その人物と遭遇する事にした。最果市に到着して僅か三日後のことであった。
「貴方が赤石鴛。なるほど、そこまで悪人面ではなさそうですね。寧ろ善人面……なるほどなるほど」
「無駄な事はいい。こっちが要求したい事はたった二つ」
「えぇ分かっていますよ。彼の居場所とその素顔ですね?」
「なら早くしろ」
「まず、居場所についてですが――これに関しては詳細不明です。私が最後に会ったのは事実、素顔を見た最初の一度きり。ですので、どうしようもないのですよ。ご理解いただけますね?」
「あぁ」
どこか不満そうではあったが、鴛は首を頷かせた。どうしようもない情報まで求めるのはやはり酷、という事である。
「では本題の素顔………。これに関してはですね………」
「それを言う必要は無いよ、ワタシが直接言おう」
唐突に響く声。エコーが相変わらずかかっていたとは言え、アナウンスである事に変わりはない。
「おい、どこだ! どこにいやがる!」
「安心してくれ、赤石鴛クン。ワタシは今、キミのいる場所にはいない。強いて言うなら……最果市のどこか」
「テメェ、出てきやがれ! いつまでこんな事を続ける気だ!!」
「そうだね、赤石鴛。そろそろ………終わりにしよう」
「………」
鴛は答えない。
「そうそう、ここに来る前に岸岡龍治を暗殺しておいた。これでキミの仲間はもう誰一人いない。これで本当の――孤立無援だ」
「………………」
鴛は何一つ語らない。
「さて、決着を着けよう、と言ったか。今日の夜、十一時。最果市のポートタワーの頂上で行う。ドアはワタシが開けておこう。キミは………普通に来てくれるといい。ワタシは一人でキミを迎え撃ち、そして――
キミを殺す。
これで最後だ。キミ自身の全てをワタシにぶつけられるというならば、それでいい。まぁ、キミがそこから脱出できたらの話になるけどね」
「何………?」
「じゃあ頼んだよ。赤石鴛を………抹殺しろ」
次の瞬間、銃声が響いた。全てが敵となった瞬間である。咄嗟に身を屈めてギリギリの位置で銃撃を避けると、狙撃の準備をする。
この場から生きて生還するために。
しかし、その時だった。
(…………手が動かない………?)
鴛の手が動かなかった。脳の指令が行き届いていないわけではない。
知らず間に体が拒否反応を起こしているのだ。チィッ、と舌を打ちながら鴛はその場を脱しようと走る。駆ける。
突然、体が引き金を引く一切の行動を拒否した。理由が分からない。
(まさか、あんな野郎や岸岡さんの言葉ていどで動揺でもしている? 妄想も甚だしい、そんな事があるはずがない!
冗談だろ? 嘘だろ? ………ここまで来て死ぬかも知れないっていうのか?)
鴛の心中は段々恐ろしく震え上がりだしていた。体中が怯えているかのように足取りはふら付きつつも、逃走を続ける。
しかし、当然――一度は開ききった差も一気に縮まった。
鴛は逃走者。追う立場が完全に一変した。銃も使い物にならず――最早、応戦する手立ても無い。しかしそれでも何とか鴛は逃亡を試みる。
施設内からの脱出は出来たものの、この状態で今夜みすみすポートタワーに向かえば殺されるのは間違いない。しかし、またとない絶好の機会でもある。
全てに決着を着け――皆の無念を晴らす最高の機会でもあり、同時に敵方の罠が待ち構える最悪の状態。肝心の鴛も引き金が引けない。
迷いがあるのだということに気がついたのは施設を出てすぐの事である。
「………俺………どうすりゃいいんだよ……………」
路地裏で鴛の力なき声が静かに零れ、そして消えていく。
決戦の時は今夜十一時。場所はポートタワーだ。
◆
最果市のポートタワーは地上150mもある大きな建造物だ。
海沿いに面しており、夜には海を照らす役割を担っていて海に面している最果市にとって長く愛されている。今年、建造から約三十年が経つというから中はどうなのか、と聞かれれば三十年の月日が経ったとは考えられないほどに清潔に保たれ、同時にマシンの整備などもキチンと怠っていないから今でも綺麗そのものである。
そして、このポートタワーの頂上は一般人立ち入り禁止となっている。けれども、決戦の指定地はこのポートタワーの頂上だ。
「…………ほぉ、やはり現れたね赤石鴛」
「あぁ。幾年ぶりだな、この野郎」
「そうだね、こうやって顔を合わせるのは………本当に久しぶりだ」
そういうものの、実際問題として声の主――真犯人は顔を面で隠しているため、素顔を見ることは出来ず、同時に声もいつも通り。大方、面に声を変える機械でも装着しているのだろうと考えることはできた。少しの間、鴛と真犯人は語り尽くした。憎みあう仲だというのにも関わらず。
鴛は正直見栄を張っていた。いざ実物を目にして分かったのだ。
恐ろしい。何かは分からない。殺気とでも言うのだろうか、そんな感じのものが真犯人からは出ている。
「ここまで来られたご褒美だ。見せてあげよう――ワタシの――いや、『私』の素顔を」
「………ッ」
鴛は咄嗟に身構えた。しかし、直後に鴛は驚愕することになる。
なぜなら――面を取った真犯人の素顔を鴛は知っていたから。
――それは岸岡龍治の後輩、秋本遙。素顔は遙の微笑だったのだから。
鴛は動揺する。勿論だ、ここで一切の動揺が無いというのも正直恐ろしい話だから鴛の反応は極めて自然と言おう。
「フフフ、驚きましたか? 赤石鴛」
「あぁ………俺を呼び出すための囮捜査か?」
「………甘いですね、あなたは」
遙の言葉に鴛は顔色を怪訝なものとする。そして言った。
「その答えは真実と受け取っても………構わないな?」
「えぇ、構いません。赤石鴛。あなたの全てを破壊しつくしたのは他でも無い――この私です」
「何で」
「何で? 理由なんて聞くんですか? ホントに甘ちゃんですねぇ」
遙はくっくっくっ、と歪んだ笑みを浮かべ、口元も歪ませた。
「…………お前みたいなバカは死んでも直らないみたいだな」
鴛は懐から銃を取り出し、その銃口を――静かに遙へと向ける。遙もまた、自身の銃を取り出した。そう、デザートイーグルを。
「殺す前に質問だ」
「はい?」
「どうやってマスターと岸岡さんを殺した?」
「あぁ、あれですか。たまたま休暇だったんですよ、その日。いや――あなたの言うマスター……岸岡順治に関しては存在が発覚してすぐに休暇を貰って殺しに向かいました。そして、岸岡龍治に関しては………たまたまの偶然だったので」
「分かった。もういい」
「では行きましょうか」
否、遙のデザートイーグルから銃弾が発射される。元々女性がこのデザートイーグルを扱うのは至難の業だが、その至難の業をも克服した遙の技術は恐らく相当高度なモノなのだと伺うことが出来る。
そして鴛はその銃撃を避け――引き金を――
「…………あらら、引けないんですねぇ」
「クソッ!」
遙は微笑し、鴛は銃を悔しそうに強く握り締める。ほんの数時間前に到来した銃の引き金を引けない一種のスランプのようなものは一切抜けていなかった。
「それじゃ――死んでください」
遙の銃弾が鴛を襲った。言葉に出来ないほど強烈な苦しみが鴛を襲う。精神的な苦しみは今まで多く味わったが、肉体的な苦しみは、どうにもできなかった。
(これが今まで俺が殺した――人間の苦しみ…………か………)
鴛の体が仰向けのまま、ポートタワーの頂上に倒れる。幸いにも、撃たれた箇所がまだ良かったので即死には至らない。だが、放置しておけば――鴛は死ぬだろう。
「どうですか? 今まで殺した人間の痛みを味わって?」
「あぁ………無茶苦茶最悪だ………。まぁ、分かってはいたんだが」
「そうですか。では今度こそ最後。――死ね」
「オレは――死なねぇよ」
「――ッ!」
次の瞬間、遙の胸元を一発の銃弾が貫いた。遙が撃ち出すよりも早く、鴛が躊躇せず、撃ち込んだのだ。
「ハハハハハハ………。遙、どうだ? 今度はお前が苦しみを味わう番だ」
「………くっ、甘く見ていた………という事ですか」
「その通りよ。お前にオレは殺させねぇ。お前が死ぬんだよ、秋本遙」
「ふふ……それでいいのかしら? 復讐の連鎖っていうのは……止まらない。永遠に止まることは無いのよ」
「で? 何か他に言い残す事はあるのか?」
「あるわ」
遙は言った。
「死ぬのはあなた」
遙の銃弾が鴛を再び襲う。
しかし、鴛はそれを咄嗟に避け――
「残念だが、死ぬのはテメェなんだよ」
鴛の銃弾がトドメを刺した。遙は何も言わず、倒れる。倒れる最中、遙の頬を涙が伝って落ちていった。鴛はその理由が一切の如く理解不能だった。
「ハハ…………ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」
目的を果たした――というのにも関わらず、鴛は高々と笑う。狂っていた。
最後の最後で、鴛は自らを律する事を完全に破棄したのである。
それが赤石鴛の選んだ――正義。
そして、それは突然だった。鴛の背後を銃弾が通過していったのである。それは、明らかに心臓の位置だ。
「…………!」
鴛は倒れる最中に――一瞬、背後を見る。そこに佇んでいたのは、紛れも無く、遙が殺した、と言って
いたはずの岸岡龍治である。その右手に握られているのは間違いなく拳銃だった。
「鴛。もうおしまいだ。もう――休めよ、ゆっくりと………」
赤石鴛はその言葉と共に意識が完全に無くなった。静かにその体が崩れ落ちる。
岸岡龍治がここにいる――考えれば簡単だ。殺し損ねたのだ、遙が。いや――あえてこうさせるために、殺さなかったというべきか。
あの時――遙がたまたま落とした一枚の紙を岸岡は今、ここに持ち込んでいた。そして、それ岸岡が読み上げる。
「『―――好きだった―――』か。遙、お前の恋はここまでしなきゃならなかったのか?
鴛。もう、何も恨む必要はない。ゆっくり休め――おれもすぐに後を追うから」
翌朝。
昨晩、ポートタワーから鳴り響いた謎の音を不審に思った人物がポートタワーの頂上に行くと、そこには三人分の死体があった。
一人は復讐者、赤石鴛。
一人は鴛を陥れた人物、秋本遙。
一人は警視庁の刑事、岸岡龍治。
復讐が生み出し、そして形成するものは血の連鎖。
そして、残された者は絶望しか残らない。
永遠に終わることの無き連鎖の中、果てていった三つの命。
赤石鴛が、秋本遙が、岸岡龍治が、最期の時を――それぞれがどのような事を思っていたのか、それを知る者は誰一人として存在しない。
復讐に――血の連鎖に――終わりなど永久に無い。
今作でもやはり問題点が残った。
特にリメイク前でもあった終盤辺りが急すぎる。
他にも問題点などを探してよりよい作品づくりの参考にしていきたいので批判だらけでも構いません、ご意見いただけたら有り難いです。