我が駄作
彼は絶望していた。自分の才能のなさに絶望していた。
彼には文才がなかった。書くべきテーマも早々に尽きた。過去の財産で食べていける程、大作に恵まれたことなどもちろんなかった。彼は自転車操業のように、かき集めたテーマと文章で細々と書き続ける。
そして何より絶望的だったのは、彼の文章にはまるでリズム感がないことだ。そう彼の文章にはまるでリズム感がないのだ。
読んでいて疲れる。読み詰まってしまう。それでも仕事をもらい、拙い文章で飯を食べてきた。妻子を養ってきた。いや、本当は養ってもらってきた。
我ながら駄作を世に送り出してる。いつも彼は心の片隅でそう思う。
うだつも上がらなければ、原稿料もここ十数年一向に上がらない。
分かっている。彼には元々才能などなかったのだ。それでもこの仕事にしがみついた結果、彼はどうしようもない文章を、細々と世に送り出す仕事を続けた。
だが彼はもう我慢できない。正視に耐えない文章が、雑誌に載った丁度その日、崖から飛び降りて自殺を図った。
彼は一命を取り留めた。一命だけは取り留めた。
だが彼の意識は戻らない。彼は昏々と眠り続ける。脳がやられていると医者は言った。
意識を呼び覚ませるため、妻は四六時中、彼に話しかける。
彼はぴくりとも反応しない。妻の呼びかけに応じない。
妻が看病のために、病院に通いつめる日々が始まった。もとより妻の稼ぎが頼りだった家計は、見る間に悪化していく。
だが彼の意識は戻らない。戻りたくないのかもしれない。
こういう時は、音楽が良いと知人の誰かが言った。音楽を浴びせるように聞かせて、意識を刺激してみてはどうかと知人は言う。
妻はありとあらゆるジャンルの音楽を病室でかけた。
だが彼の意識は戻らない。
妻は途方に暮れる。彼は一向に目を覚まさない。
聞かせるべき音楽は、あっという間になくなった。
もうどんな音楽を聞かせればいいのか分からない。
そう思った時、妻は――
彼は眼を覚ました。心地よい音楽に目を覚ました。彼を意識不明から目覚めさせる程、その音楽は心地がいい。
彼はゆっくりと起き上がる。なかなか焦点を結ばない眼で彼が見たのは、雑誌を手にして、懸命に朗読している妻だった。
彼は今日もまた、才能のなさを自覚しながら、駄文を世に送り出すことにした。少なくともこの世に一人、いや二人、このリズムが合う人間がいるからだ。