渡すまでがバレンタイン、渡した後が物語
二月十四日の朝は、校門の音まで落ち着かない。
自転車のスタンドが跳ねる音。昇降口で上履きに履き替える音。廊下を走りかけて止まる音。
どれもこれも、「今日は特別だよ」と言ってくる。
私は一年一組の教室に入る前に、リュックの中の小さな箱を指で確かめた。
角は潰れてない。包装紙の折り目はきれい。リボンもほどけてない。
(完璧。……たぶん)
“たぶん”が出る時点で、完璧じゃない。
分かってるのに、確認はやめられない。
「日菜、おはよー!」
席に着こうとしたところで、友だちの茉莉が机越しに顔を出した。目がすでに楽しそうだ。
「おはよ……」
「ねえ、持ってきた? 持ってきたよね? 例の先輩に」
「声が大きい」
「だって今日じゃん。バレンタインじゃん」
茉莉はにやにやして、私のリュックを指でちょんと突いた。
「二年の蓮先輩。生徒会の。仕事が早い人。優しい人」
箇条書きみたいに言われて、私は机の上のペン立てを整えるふりをした。整える必要なんてないのに、指だけが勝手に動く。
蓮先輩。二年生。生徒会の書記。
私は一年の補佐。
書類の束が崩れそうになったら、先輩が押さえてくれる。
会議の準備が遅れそうになったら、先輩が「大丈夫」と言って手を貸してくれる。
その「大丈夫」が、ずるい。
私の心の中の慌てまで、静かにしてしまう。
「……渡す」
私は小さく言った。自分の胸に釘を打つみたいに。
「よし! じゃあ放課後ね!」
「勝手に決めないで」
「日菜は放課後が一番落ち着くタイプ。完璧にやりたいタイプ。だから放課後」
当てられて、痛い。
私は“完璧なタイミング”を探す癖がある。
間違えたくなくて、失敗したくなくて、言葉を何回も頭の中で並べる。
並べるだけ並べて、結局渡せない。
そういう未来が、今日はやたらリアルに見える。
(……溶けるのはチョコだけでいい)
私の勇気は、溶けないで。
⸻
一時間目が終わる頃には、教室がいつもよりざわざわしていた。
「はい、これ。いつも助けてくれるから」
「うわ、ありがと!」
紙袋の音。小袋が揺れる音。
みんな、さらっと渡して、さらっと受け取る。
私は配布用に用意した小袋を、同じ班の男子に渡した。
笑える。「いつもありがとう」って言える。口がちゃんと動く。
なのに、胸の奥の“箱”のことを考えた瞬間、喉が固くなる。
(放課後、だ)
放課後なら、生徒会室の前の廊下が少し静かになる。
人が少なくなる。自分の声が聞こえる。
……そう思いたい。
⸻
昼休み。
私は食堂に行くふりをして、昇降口の方へ歩いた。
窓の近くの廊下は寒い。
寒いと余計な妄想が止まる。頭が冷えるから。
そこに、いつもの人がいた。
校舎の清掃員さん。斎藤さん。
背が高くて、声は低いのに柔らかい。話し方が、包む感じの大人。
斎藤さんはモップを動かしながら、床の光り方を確かめていた。
慌てない動き。乱れない呼吸。
私はその横を通り過ぎようとして、呼ばれて足を止めた。
「お、日菜さん」
「こんにちは」
「寒いな。指、冷えるだろ。無理すんなよ」
“無理すんなよ”が、まっすぐで、妙に刺さる。
私は「はい」としか返せなくなる。
そのとき、ポケットから小さな紙がひらりと落ちた。
(あ)
朝、握りしめていたメモだ。
“呼び止め方”“渡す言葉”“逃げない”
恥ずかしすぎる。
でも斎藤さんは笑わない。
くしゃっとならないように指先でつまんで、丁寧に私へ返してくれる。
「これ、落としたぞ」
「す、すみません……!」
私は赤くなったまま受け取った。
紙が熱い気がした。
斎藤さんは目尻を少し下げて、さらっと言った。
「渡すまでがバレンタイン。渡した後が物語だよ」
「……え?」
言葉の意味が、すぐに入ってこない。
「渡したら、終わりじゃないんですか」
「終わりにしたい顔してたからな」
「してません……」
「してたよ」
即答されて、私は言い返せない。
斎藤さんはモップを動かしながら続けた。
「渡すのは合図だ。合図を出したら、相手も出す。そこからが面白い」
面白い。
バレンタインを“面白い”と言う大人がいるのが、少し意外で、少し救いだった。
(渡した後が、物語)
渡すことがゴールだと思っていた。
渡せたら、そこで安心して終われる。逃げられる。
でも、終わりじゃない。始まりだ。
その考え方が、妙にあたたかい。
⸻
放課後。
生徒会室はいつも通り忙しかった。
掲示物の差し替え、配布プリントの印刷、行事の確認。
私は印刷の順番を間違えないように、指差し確認を繰り返す。
「日菜、そこ、俺やるよ」
声がして振り向くと、蓮先輩が袖をまくって立っていた。
忙しいはずなのに、目が優しい。
「先輩、今日も残ってるんですか」
「うん。今日、提出物多いから。あと……」
先輩は言いかけて、口を閉じた。
「……何ですか」
「いや。終わってから、ちょっとだけ話したいことがある」
心臓が一回、変な跳ね方をした。
(話したいこと……?)
私が今日話したいことと、同じ種類だったらどうしよう。
違ったらどうしよう。
どっちに転んでも、怖い。
作業は先輩のおかげで早く進んだ。
プリントが整っていくたび、私の逃げ道も減っていく。
窓の外が夕方の色になった。
冬の青と灰の間の時間。
薄い月が見えた。
薄いのに、ちゃんとそこにある。
(薄くていい。ちゃんとあればいい)
私の勇気も。きっと。
⸻
生徒会室を出た廊下は、思ったより静かだった。
先輩が鍵を閉める音が、やけに大きく響く。
私はリュックの紐を握り直した。
箱が重い。
でもその重さは、怖さだけじゃなくて、決めた証みたいでもあった。
エレベーター前。
先輩がボタンに手を伸ばした、その瞬間。
「……あの、蓮先輩」
声が、自分でも驚くくらい小さい。
でも、先輩はちゃんと振り向いてくれた。
「うん」
その“うん”が、逃げ道を塞ぐ。
やさしく、確実に。
私はリュックから箱を出した。包装紙がかすかに鳴る。
それだけで心臓が暴れる。
「これ……」
言い訳が浮かぶ。
“みんなにも配ってるから”とか、“生徒会でお世話になったから”とか。
そう言えば、気持ちは隠せる。
でも、斎藤さんの言葉が頭の奥で鳴った。
渡すまでがバレンタイン。
渡した後が物語。
私は、逃げ道を捨てるみたいに言った。
「いつも、ありがとうございます。よかったら……受け取ってください」
先輩は一瞬、固まった。
そして次の瞬間、すごく丁寧に箱を受け取った。
両手で。
まるで壊れ物みたいに。
「……ありがとう」
先輩の声が少しだけ低くなる。
「大事にする。開けるの、家でいい?」
「……はい」
渡せた。
なのに、全然落ち着かない。
ここからが怖い。
ここからが、物語。
先輩は箱を持ったまま、ぽつりと言った。
「日菜。帰り……駅まで一緒に歩いていい?」
「え……」
「今日、ちゃんと話したいことがあるって言っただろ。今、言ってもいい?」
薄い月がガラスにぼんやり映っていた。
先輩の横顔が、いつもより柔らかい。
「……はい」
私は頷いた。
怖さが少しだけ形を変える。
逃げたい怖さじゃなくて、進みたい怖さに。
⸻
外は冷えていた。
吐く息が白い。街灯が濡れたアスファルトを淡く照らす。
駅までの道は、いつもより少し長く感じた。
でも、その長さが嬉しい。
先輩は箱を開けずに持っている。
鞄にしまわないで、手に持ったまま。丁寧に。
「手作り?」
「……買いました。手作りは、失敗しそうで」
「分かる。俺も失敗するの怖い」
先輩が笑った。
その笑いが、“生徒会室の笑い”とは違う距離で届く。
「甘いの、好き?」
「好きです。……でも今日のは、甘すぎないやつにしました」
「そこ、日菜っぽい」
「どういう意味ですか」
「気づかいが細かいって意味」
胸が熱くなる。
寒いのに、熱い。
少し歩いてから、先輩が言った。
「さっき、話したいって言ったこと」
「はい」
「……来月から、部活の役が増えるんだ。実行委員も任されて。たぶん、余裕なくなる」
私は驚いた。
「先輩、もう十分忙しいのに……」
「うん。だからさ」
先輩は箱を見た。
それから、まっすぐ前を見た。
「生徒会の仕事、今までみたいに全部は見られなくなるかも。先に言っておきたかった」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
でも、逃げない。
渡した後が物語。
ここでしょんぼりして終わらせたら、始まらない。
私は言った。
「……だから、今日渡せてよかったです」
先輩が足を止めた。
一瞬、驚いた顔をして、それから息を吐く。
「うん。俺も」
その一言が、あたたかい。
続きがある温度。
駅前の自販機の明かりが、雪みたいに白く見えた。
先輩が立ち止まる。
「ちょっと待って」
小銭を入れる音。缶が落ちる音。
先輩は温かいココアを二本、手に持って戻ってきた。
「お返し。早すぎるけど」
「ホワイトデー、早すぎません?」
「早い。でも、今日何もしないで帰るのは、俺が落ち着かない」
先輩は一本を私に差し出した。
受け取ると、手袋越しでも温かい。
その温かさが、心臓の跳ね方まで落ち着かせてくれる。
「渡してくれた後、どうしたらいいか分からなくてさ」
先輩が少しだけ笑って、正直に言う。
「でも……話したかった。ありがとうって、ちゃんと」
私は缶を握りしめた。
「私も……渡したら終わりだと思ってました」
「終わりじゃなかった?」
「……今、分かりました」
先輩が頷く。
「じゃあ、続き、しよう」
続き。
その言葉が、胸の奥でやさしく鳴った。
⸻
改札の前で立ち止まる。
先輩の電車は反対側。ここで別れる。
先輩は箱を持ったまま、少しだけ迷ってから言った。
「忙しくなるって言ったけどさ。だからって、何もなくなるのは嫌だ」
私の喉が小さく鳴った。
「……嫌、ですか」
「嫌」
先輩は、短く言い切った。
「帰り道。たまにでいい。一緒に歩ける?」
私は缶ココアを見た。
温かい。逃げない温度。
「はい。……五分だけなら」
「五分、好きだな」
「好きです。駅までの五分って、意外と長いから」
先輩は少し考えてから、笑った。
「その五分が、増えていくといいな」
薄い月が、駅のガラスに映っていた。
薄いのに、ちゃんとそこにある。
私も、ちゃんとある。
「……増やしましょう」
先輩の目がやわらかくなる。
「うん」
電車の到着を知らせる音が鳴る。
先輩は一歩だけ下がって、軽く手を振った。
私も手を振る。
帰り道は、さっきより少し長く感じた。
でもその長さは、怖さじゃない。
渡すまでがバレンタイン。
渡した後が物語。
今日、私は合図を出した。
合図は返ってきた。
物語は、これからだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、バレンタインを「渡す瞬間」ではなく、「渡した後の一歩」まで描きたくて書きました。
勇気って、派手に燃え上がるものじゃなくて、薄い月みたいに“薄いのにちゃんとある”ものだと思います。日菜の勇気も、最初は頼りない。でも一度合図を出せたら、相手の合図が返ってくる。そこから少しずつ、五分が増えていく。
缶ココアの温度は、言葉にできない安心の代わりです。
そして斎藤さんの一言は、説教ではなく、ただの生活の知恵みたいに置きました。大人の言葉が、子どもの背中を軽くする瞬間が好きです。
読後に、胸の中が少し温かくなっていたら嬉しいです。
あなたの「渡した後の物語」も、きっと続いていきます。




