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渡すまでがバレンタイン、渡した後が物語

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/14

 二月十四日の朝は、校門の音まで落ち着かない。


 自転車のスタンドが跳ねる音。昇降口で上履きに履き替える音。廊下を走りかけて止まる音。

 どれもこれも、「今日は特別だよ」と言ってくる。


 私は一年一組の教室に入る前に、リュックの中の小さな箱を指で確かめた。

 角は潰れてない。包装紙の折り目はきれい。リボンもほどけてない。


(完璧。……たぶん)


 “たぶん”が出る時点で、完璧じゃない。

 分かってるのに、確認はやめられない。


「日菜、おはよー!」


 席に着こうとしたところで、友だちの茉莉が机越しに顔を出した。目がすでに楽しそうだ。


「おはよ……」


「ねえ、持ってきた? 持ってきたよね? 例の先輩に」


「声が大きい」


「だって今日じゃん。バレンタインじゃん」


 茉莉はにやにやして、私のリュックを指でちょんと突いた。


「二年の蓮先輩。生徒会の。仕事が早い人。優しい人」


 箇条書きみたいに言われて、私は机の上のペン立てを整えるふりをした。整える必要なんてないのに、指だけが勝手に動く。


 蓮先輩。二年生。生徒会の書記。

 私は一年の補佐。


 書類の束が崩れそうになったら、先輩が押さえてくれる。

 会議の準備が遅れそうになったら、先輩が「大丈夫」と言って手を貸してくれる。


 その「大丈夫」が、ずるい。

 私の心の中の慌てまで、静かにしてしまう。


「……渡す」


 私は小さく言った。自分の胸に釘を打つみたいに。


「よし! じゃあ放課後ね!」


「勝手に決めないで」


「日菜は放課後が一番落ち着くタイプ。完璧にやりたいタイプ。だから放課後」


 当てられて、痛い。


 私は“完璧なタイミング”を探す癖がある。

 間違えたくなくて、失敗したくなくて、言葉を何回も頭の中で並べる。


 並べるだけ並べて、結局渡せない。

 そういう未来が、今日はやたらリアルに見える。


(……溶けるのはチョコだけでいい)


 私の勇気は、溶けないで。



 一時間目が終わる頃には、教室がいつもよりざわざわしていた。


「はい、これ。いつも助けてくれるから」


「うわ、ありがと!」


 紙袋の音。小袋が揺れる音。

 みんな、さらっと渡して、さらっと受け取る。


 私は配布用に用意した小袋を、同じ班の男子に渡した。

 笑える。「いつもありがとう」って言える。口がちゃんと動く。


 なのに、胸の奥の“箱”のことを考えた瞬間、喉が固くなる。


(放課後、だ)


 放課後なら、生徒会室の前の廊下が少し静かになる。

 人が少なくなる。自分の声が聞こえる。


 ……そう思いたい。



 昼休み。

 私は食堂に行くふりをして、昇降口の方へ歩いた。


 窓の近くの廊下は寒い。

 寒いと余計な妄想が止まる。頭が冷えるから。


 そこに、いつもの人がいた。


 校舎の清掃員さん。斎藤さん。

 背が高くて、声は低いのに柔らかい。話し方が、包む感じの大人。


 斎藤さんはモップを動かしながら、床の光り方を確かめていた。

 慌てない動き。乱れない呼吸。


 私はその横を通り過ぎようとして、呼ばれて足を止めた。


「お、日菜さん」


「こんにちは」


「寒いな。指、冷えるだろ。無理すんなよ」


 “無理すんなよ”が、まっすぐで、妙に刺さる。

 私は「はい」としか返せなくなる。


 そのとき、ポケットから小さな紙がひらりと落ちた。


(あ)


 朝、握りしめていたメモだ。

 “呼び止め方”“渡す言葉”“逃げない”

 恥ずかしすぎる。


 でも斎藤さんは笑わない。

 くしゃっとならないように指先でつまんで、丁寧に私へ返してくれる。


「これ、落としたぞ」


「す、すみません……!」


 私は赤くなったまま受け取った。

 紙が熱い気がした。


 斎藤さんは目尻を少し下げて、さらっと言った。


「渡すまでがバレンタイン。渡した後が物語だよ」


「……え?」


 言葉の意味が、すぐに入ってこない。


「渡したら、終わりじゃないんですか」


「終わりにしたい顔してたからな」


「してません……」


「してたよ」


 即答されて、私は言い返せない。


 斎藤さんはモップを動かしながら続けた。


「渡すのは合図だ。合図を出したら、相手も出す。そこからが面白い」


 面白い。

 バレンタインを“面白い”と言う大人がいるのが、少し意外で、少し救いだった。


(渡した後が、物語)


 渡すことがゴールだと思っていた。

 渡せたら、そこで安心して終われる。逃げられる。


 でも、終わりじゃない。始まりだ。


 その考え方が、妙にあたたかい。



 放課後。

 生徒会室はいつも通り忙しかった。


 掲示物の差し替え、配布プリントの印刷、行事の確認。

 私は印刷の順番を間違えないように、指差し確認を繰り返す。


「日菜、そこ、俺やるよ」


 声がして振り向くと、蓮先輩が袖をまくって立っていた。

 忙しいはずなのに、目が優しい。


「先輩、今日も残ってるんですか」


「うん。今日、提出物多いから。あと……」


 先輩は言いかけて、口を閉じた。


「……何ですか」


「いや。終わってから、ちょっとだけ話したいことがある」


 心臓が一回、変な跳ね方をした。


(話したいこと……?)


 私が今日話したいことと、同じ種類だったらどうしよう。

 違ったらどうしよう。

 どっちに転んでも、怖い。


 作業は先輩のおかげで早く進んだ。

 プリントが整っていくたび、私の逃げ道も減っていく。


 窓の外が夕方の色になった。

 冬の青と灰の間の時間。


 薄い月が見えた。

 薄いのに、ちゃんとそこにある。


(薄くていい。ちゃんとあればいい)


 私の勇気も。きっと。



 生徒会室を出た廊下は、思ったより静かだった。


 先輩が鍵を閉める音が、やけに大きく響く。

 私はリュックの紐を握り直した。


 箱が重い。

 でもその重さは、怖さだけじゃなくて、決めた証みたいでもあった。


 エレベーター前。

 先輩がボタンに手を伸ばした、その瞬間。


「……あの、蓮先輩」


 声が、自分でも驚くくらい小さい。

 でも、先輩はちゃんと振り向いてくれた。


「うん」


 その“うん”が、逃げ道を塞ぐ。

 やさしく、確実に。


 私はリュックから箱を出した。包装紙がかすかに鳴る。

 それだけで心臓が暴れる。


「これ……」


 言い訳が浮かぶ。

 “みんなにも配ってるから”とか、“生徒会でお世話になったから”とか。

 そう言えば、気持ちは隠せる。


 でも、斎藤さんの言葉が頭の奥で鳴った。


 渡すまでがバレンタイン。

 渡した後が物語。


 私は、逃げ道を捨てるみたいに言った。


「いつも、ありがとうございます。よかったら……受け取ってください」


 先輩は一瞬、固まった。

 そして次の瞬間、すごく丁寧に箱を受け取った。


 両手で。

 まるで壊れ物みたいに。


「……ありがとう」


 先輩の声が少しだけ低くなる。


「大事にする。開けるの、家でいい?」


「……はい」


 渡せた。

 なのに、全然落ち着かない。


 ここからが怖い。

 ここからが、物語。


 先輩は箱を持ったまま、ぽつりと言った。


「日菜。帰り……駅まで一緒に歩いていい?」


「え……」


「今日、ちゃんと話したいことがあるって言っただろ。今、言ってもいい?」


 薄い月がガラスにぼんやり映っていた。

 先輩の横顔が、いつもより柔らかい。


「……はい」


 私は頷いた。

 怖さが少しだけ形を変える。

 逃げたい怖さじゃなくて、進みたい怖さに。



 外は冷えていた。

 吐く息が白い。街灯が濡れたアスファルトを淡く照らす。


 駅までの道は、いつもより少し長く感じた。

 でも、その長さが嬉しい。


 先輩は箱を開けずに持っている。

 鞄にしまわないで、手に持ったまま。丁寧に。


「手作り?」


「……買いました。手作りは、失敗しそうで」


「分かる。俺も失敗するの怖い」


 先輩が笑った。

 その笑いが、“生徒会室の笑い”とは違う距離で届く。


「甘いの、好き?」


「好きです。……でも今日のは、甘すぎないやつにしました」


「そこ、日菜っぽい」


「どういう意味ですか」


「気づかいが細かいって意味」


 胸が熱くなる。

 寒いのに、熱い。


 少し歩いてから、先輩が言った。


「さっき、話したいって言ったこと」


「はい」


「……来月から、部活の役が増えるんだ。実行委員も任されて。たぶん、余裕なくなる」


 私は驚いた。


「先輩、もう十分忙しいのに……」


「うん。だからさ」


 先輩は箱を見た。

 それから、まっすぐ前を見た。


「生徒会の仕事、今までみたいに全部は見られなくなるかも。先に言っておきたかった」


 胸の奥が、ひゅっと冷える。

 でも、逃げない。


 渡した後が物語。

 ここでしょんぼりして終わらせたら、始まらない。


 私は言った。


「……だから、今日渡せてよかったです」


 先輩が足を止めた。

 一瞬、驚いた顔をして、それから息を吐く。


「うん。俺も」


 その一言が、あたたかい。

 続きがある温度。


 駅前の自販機の明かりが、雪みたいに白く見えた。


 先輩が立ち止まる。


「ちょっと待って」


 小銭を入れる音。缶が落ちる音。

 先輩は温かいココアを二本、手に持って戻ってきた。


「お返し。早すぎるけど」


「ホワイトデー、早すぎません?」


「早い。でも、今日何もしないで帰るのは、俺が落ち着かない」


 先輩は一本を私に差し出した。


 受け取ると、手袋越しでも温かい。

 その温かさが、心臓の跳ね方まで落ち着かせてくれる。


「渡してくれた後、どうしたらいいか分からなくてさ」


 先輩が少しだけ笑って、正直に言う。


「でも……話したかった。ありがとうって、ちゃんと」


 私は缶を握りしめた。


「私も……渡したら終わりだと思ってました」


「終わりじゃなかった?」


「……今、分かりました」


 先輩が頷く。


「じゃあ、続き、しよう」


 続き。

 その言葉が、胸の奥でやさしく鳴った。



 改札の前で立ち止まる。

 先輩の電車は反対側。ここで別れる。


 先輩は箱を持ったまま、少しだけ迷ってから言った。


「忙しくなるって言ったけどさ。だからって、何もなくなるのは嫌だ」


 私の喉が小さく鳴った。


「……嫌、ですか」


「嫌」


 先輩は、短く言い切った。


「帰り道。たまにでいい。一緒に歩ける?」


 私は缶ココアを見た。

 温かい。逃げない温度。


「はい。……五分だけなら」


「五分、好きだな」


「好きです。駅までの五分って、意外と長いから」


 先輩は少し考えてから、笑った。


「その五分が、増えていくといいな」


 薄い月が、駅のガラスに映っていた。

 薄いのに、ちゃんとそこにある。


 私も、ちゃんとある。


「……増やしましょう」


 先輩の目がやわらかくなる。


「うん」


 電車の到着を知らせる音が鳴る。

 先輩は一歩だけ下がって、軽く手を振った。


 私も手を振る。


 帰り道は、さっきより少し長く感じた。

 でもその長さは、怖さじゃない。


 渡すまでがバレンタイン。

 渡した後が物語。


 今日、私は合図を出した。

 合図は返ってきた。


 物語は、これからだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


このお話は、バレンタインを「渡す瞬間」ではなく、「渡した後の一歩」まで描きたくて書きました。

勇気って、派手に燃え上がるものじゃなくて、薄い月みたいに“薄いのにちゃんとある”ものだと思います。日菜の勇気も、最初は頼りない。でも一度合図を出せたら、相手の合図が返ってくる。そこから少しずつ、五分が増えていく。


缶ココアの温度は、言葉にできない安心の代わりです。

そして斎藤さんの一言は、説教ではなく、ただの生活の知恵みたいに置きました。大人の言葉が、子どもの背中を軽くする瞬間が好きです。


読後に、胸の中が少し温かくなっていたら嬉しいです。

あなたの「渡した後の物語」も、きっと続いていきます。

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