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後日談 錆びついた翼が墜ちる場所

王都アルカディアの最下層地区。そこは、スラム街とも呼ばれる、貧困と犯罪が蔓延る場所だ。

華やかな大通りから一本入っただけで空気は一変し、ドブ川の腐臭と、行き場のない者たちの淀んだ吐息が充満している。

その一角にある、今にも崩れそうな木造の安宿『腐れ鼠亭』の一室。

カビの生えた天井を見上げながら、レオンは煎餅布団の上で寝返りを打った。


「ぐっ……ぁ……!」


激痛が走り、掠れた悲鳴が漏れる。

右腕だ。

あの日、中央広場でアレンに襲い掛かろうとして自壊した右腕は、金がないためにまともな治療を受けられず、歪な形で骨が癒着してしまっていた。

もはや剣を握るどころか、箸を持つことさえままならない。


「……クソが。なんで俺が、こんな……」


レオンは左手で顔を覆った。

指の隙間から見えるのは、かつて白銀に輝いていた勇者の手ではない。垢にまみれ、爪が伸び放題になった、浮浪者の手だ。

部屋の隅では、ぼろ布にくるまった何かが小さく震えている。

ゲイルだ。

魔導師としての彼はもう死んだ。魔力回路の焼き付きによって、体内で魔力を生成することすら苦痛を伴う体質になってしまったのだ。

今の彼は、ただの寒がりで病弱な男に過ぎない。


「……寒い。レオン、薪はないのか? 凍え死にそうだ」

「うるせえ! 薪を買う金がどこにあるんだよ! テメェがなんか燃やせばいいだろ!」

「無理だ……火を出そうとすると、心臓が焼けるみたいに痛いんだ……」


ゲイルは涙声で訴える。

その情けない姿に、レオンは舌打ちをした。

そして、部屋のもう一方の隅を見る。

そこには、ひび割れた手鏡を食い入るように見つめる、老婆のような女がいた。


「違う……これは私じゃない……私は聖女マリアよ……王都一の美女なのよ……」


ブツブツと譫言うわごとのように繰り返しているのは、マリアだ。

彼女の劣化は、三人の中でも最も顕著だった。

アレンの『浄化』によるメンテナンスを失った彼女の肌は、長年蓄積された化粧品の毒素と、不摂生によるダメージが一気に噴き出し、見るも無残な状態になっていた。

顔中は黒ずんだシミに覆われ、髪はパサパサで抜け落ち、歯も黄ばんでいる。

二十代前半のはずが、今の彼女は六十代の老婆に見えた。


「おいマリア、水だ。喉が渇いた」

「……アレン。アレンにお願いして。美味しいお水を出してくれるから」

「アレンはいねえって言ってんだろッ!!」


レオンが怒鳴ると、マリアはビクリと肩を震わせ、虚ろな目でこちらを見た。


「そうね……いないわね。あなたが追い出したんだものね」

「なんだと? 俺一人のせいにする気か? お前だって『臭い消しにしかならない』って馬鹿にしてただろうが!」

「でも、決定したのはリーダーのあなたでしょ! 私は止めたかったのに!」

「嘘をつけ! 一番ノリノリだったくせに!」


醜い罵り合いが始まる。

これが、かつてSランクパーティー『銀の翼』と呼ばれた者たちの成れの果てだ。

栄光の日々は夢の彼方に消え、残ったのは後悔と、責任の押し付け合いだけだった。


   ◇ ◇ ◇


事態が悪化したのは、あの中央広場での騒動の後だった。

アレンに見捨てられ、衆人環視の中で醜態を晒した俺たちは、ギルドから事実上の追放処分を受けた。

『虚偽の報告によりSランクの地位を不正に維持していた』とみなされたのだ。

さらに、今までツケにしていた装備品の代金や、高級宿の宿泊費が一気に請求された。

当然、払えるわけがない。

俺たちは身に着けていた装備を売り払い、それでも足りずに借金を背負い、このスラム街へと逃げ込んだのだ。


「……腹減ったな」


騒ぐ気力もなくなり、レオンは腹を押さえた。

昨日から何も食べていない。

最後に食べたのは、市場のゴミ箱から拾った硬いパンの耳だ。それすらも、ネズミと奪い合って手に入れたものだった。


「仕事……行かなきゃ」


ゲイルがよろよろと立ち上がる。


「仕事って言っても、俺たちに何ができるんだよ。Fランクの依頼すら失敗続きだぞ」


レオンは自嘲気味に笑う。

そう、プライドを捨てて冒険者ギルドの末端窓口に行き、日雇いの仕事を受けようとしたこともあった。

だが、結果は惨憺たるものだった。


『ドブ川の清掃』を受ければ、五分もしないうちに腰痛で動けなくなり、マリアは悪臭に耐え切れずに嘔吐して作業を放棄した。

『薬草の採取』に行けば、森の入り口で雑魚モンスターの気配に怯え、逃げ帰ってきた。かつてドラゴンを倒した(と信じていた)俺たちが、スライム一匹に恐怖したのだ。

装備の劣化だけではない。精神が摩耗しきっている俺たちには、戦う勇気など欠片も残っていなかった。


「今日は……街の清掃作業員の募集があるらしい。日当は銅貨三枚だ」

「銅貨三枚!? ふざけるな! 俺たちが一回の依頼で稼いでた金貨の何万分の一だと思ってんだ!」

「でも、やらなきゃ死ぬぞ」


ゲイルの悲痛な声に、レオンは黙り込んだ。

そうだ。死ぬ。

このままここで朽ち果てるか、泥水をすすってでも生き延びるか。

勇者としてのプライドは、空腹という現実の前にはあまりに無力だった。


「……行くぞ」


レオンは歪んだ腕を庇いながら立ち上がった。

マリアも、ボロボロのフードを目深にかぶり、幽鬼のように後に続く。


   ◇ ◇ ◇


王都の大通りは、今日も活気に満ちていた。

色とりどりの屋台が並び、着飾った人々が行き交う。

その路肩で、レオンたちは這いつくばっていた。


「おい、そこ! もっと真面目に磨けよ!」


監督官の男が、容赦なく鞭を振るう。

ピシッ、という音と共に、レオンの背中に激痛が走る。


「ぐっ……!」

「なんだその目は? 文句があるなら帰ってもいいんだぞ? 代わりはいくらでもいるからな」


男は嘲笑うように見下ろす。

レオンは歯を食いしばり、必死に石畳を磨いた。

手には安い雑巾一枚。洗剤は水で薄めた粗悪品。

汚れはなかなか落ちない。


(なんで……なんで俺がこんなことを……)


ふと、アレンの顔が脳裏をよぎる。

あいつは、いつもこんなことをしていたのか?

いや、違う。あいつは魔法で一瞬にして汚れを消していた。

俺たちが「汚れた」と気づく前に、全てを綺麗にしていた。

だから俺たちは、世界は常に清潔で、快適なものだと勘違いしていたのだ。


「うぅ……爪が割れた……痛い……」


隣でマリアが泣いている。

かつて聖女として崇められ、指先一つ汚すことのなかった彼女が、今は他人の吐いたガムや泥汚れを爪で削り取っている。

その手は荒れ放題で、あかぎれから血が滲んでいる。


「泣くな、マリア。手が止まってるぞ」

「だって……痛いんだもの……。ねえレオン、もうやめようよ。どこか別の国に行けば、きっとまたやり直せるわ」

「馬鹿野郎。ここまでの旅費もないのに、どうやって移動するんだ。野垂れ死にするだけだぞ」


レオンは冷たく突き放す。

もう、マリアを慰める余裕などない。彼女の泣き顔を見るだけで、イライラが募る。

なんでこいつは、いつまでも「悲劇のヒロイン」ぶっているんだ。

自分だってアレンを追い出した共犯者のくせに。


その時だった。

通りの向こうから、大きな歓声が聞こえてきた。


「おい、来たぞ! 英雄アレン様のお通りだ!」

「『剣姫』エリス様もご一緒だぞ!」

「キャーッ! アレン様ー! こっち向いてー!」


爆発的な熱狂。

花吹雪が舞い、ファンファーレが鳴り響く。

レオンの手が止まる。

マリアも、ゲイルも、吸い寄せられるように顔を上げた。


大通りの真ん中を、立派な馬車がパレードしていく。

その上に立っているのは、見違えるほど凛々しくなった黒髪の青年――アレンだった。

仕立ての良い服を着こなし、自信に満ちた笑顔で群衆に手を振っている。

隣には、太陽のように輝く笑顔のエリスが寄り添っている。


二人は、あまりにも眩しかった。

直視できないほどに。


「アレン……」


マリアが掠れた声で名を呼ぶ。

その瞳に、微かな期待の光が宿る。

もしかしたら。

もしかしたら、今の惨めな私たちを見たら、彼なら助けてくれるんじゃないか?

幼馴染のよしみで、少しだけでも恵んでくれるんじゃないか?


マリアは立ち上がり、警備の兵士を押しのけて飛び出そうとした。


「アレン! アレン、私よ! マリアよ!」


その声は、群衆の歓声にかき消されて届かない。

彼女は必死に手を振る。

ボロボロのフードが脱げ、醜く老化した素顔が白日の下に晒される。


「うわっ、なんだあの婆さん!」

「きめぇ! 近づくなよ!」

「おい衛兵! 変なのがいるぞ!」


周囲の市民たちが、汚物を見るような目でマリアを避け、石を投げつける。

コツン、と石礫が額に当たり、血が流れる。


「痛っ……ち、違うの……私は聖女なの……アレンの幼馴染なの……!」


マリアは泣き叫ぶが、誰も信じない。

むしろ、英雄の名を騙る不審者として、衛兵に取り押さえられる。


「離して! あそこにいるのは私の友達なの! アレン、気づいて! お願い!」


馬車の上。

ふと、アレンがこちらを向いた気がした。

マリアの心臓が高鳴る。

目が合った。確かに目が合った。


アレンは――微笑んでいた。

だが、それはマリアに向けられたものではなかった。

彼は、マリアの姿など「そこには何もいない」かのように素通りし、その向こうにいる子供たちに笑顔を向けていたのだ。


認識さえ、されていない。

彼の視界において、今のマリアたちは「背景の汚れ」ですらなかった。

ただの無だ。


「あ……ぁ……」


マリアの目から光が消える。

衛兵に引きずられ、路地の奥へと放り投げられる。

地面に叩きつけられた彼女は、もう起き上がろうとしなかった。


「……見たか、今の」


レオンは呆然と呟いた。

怒りすら湧かなかった。

圧倒的な格差。

彼がいる場所は天上で、俺たちがいる場所は地獄の底。

その距離は、もう二度と埋まらない。


「俺たちが……あそこに立っていたはずなのに」


レオンは自分の汚れた手を見つめる。

もし、あの日。

アレンを追放しなければ。

いや、もっと前から、彼に感謝し、対等な仲間として扱っていれば。

今頃、あの馬車の上で喝采を浴びていたのは、俺たちだったかもしれない。


「……戻りたい」


ポツリと、本音が漏れた。


「アレンが淹れてくれた紅茶が飲みたい。アレンが磨いてくれた剣を握りたい。アレンが『お疲れ様』って言ってくれる夜に戻りたい……」


涙が溢れて止まらない。

失って初めて気づく、なんて陳腐な言葉では表現できないほどの喪失感。

俺たちの栄光は、全てアレンという土台の上に成り立っていた砂上の楼閣だったのだ。


「おい、サボるな! 給料やらんぞ!」


監督官の怒声が響く。

レオンはビクリと肩を震わせ、慌てて雑巾を手に取った。

勇者レオンはもういない。

ここにいるのは、日当銅貨三枚のためにプライドも過去も売り渡した、ただの清掃夫だ。


「す、すみません……すぐやります……」


レオンは石畳に這いつくばる。

アレンたちが通った後の道は、光り輝くように綺麗だった。

その輝きを汚さないように、自分の涙と泥を拭き取る作業を続ける。

皮肉なことだ。

かつてアレンに「掃除係」と蔑称をつけていた俺が、今、本当に掃除係として、アレンの歩いた道を清めているなんて。


   ◇ ◇ ◇


日は沈み、夜が訪れる。

銅貨三枚を握りしめたレオンたちは、フラフラと『腐れ鼠亭』へ戻ってきた。

疲れ果てて、言葉もない。

ただ、空腹と全身の痛みだけがある。


「……今日は、パンが二個買えたな」


レオンが乾いたパンを差し出す。

三人で二個。足りるはずもない。

だが、奪い合う気力すらなかった。


「ねえ、レオン」


マリアが、パンをかじりながら虚ろな声で言った。


「私、思い出したの」

「……何をだ」

「昔、アレンが言ってた言葉」


マリアは遠い目をする。


『俺のスキルは地味だけど、いつかきっと、みんなの役に立つ日が来ると思うんだ。だから、ずっと一緒に冒険しようね』


幼い日の約束。

あの時、アレンは確かにそう言って笑っていた。

そして俺たちも、『当たり前だろ、俺たちは最強のパーティーになるんだから』と笑い返したはずだった。


「彼は……約束を守ってくれてたのね」

「……ああ」

「裏切ったのは、私たちだったのね」


マリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ち、薄汚れた頬のシワを伝う。

その涙は、どんな高級な化粧水よりも熱く、そして残酷に現実を焼き付けた。


「寒い……」


ゲイルが体を丸める。

魔力を失った彼の体温は下がる一方だ。

このまま冬が来れば、越すことはできないだろう。


レオンは壁に寄りかかり、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、ダンジョンでの焚火の光景。

アレンが手際よくスープを作り、装備の手入れをし、疲れた俺たちに『浄化』をかけてくれる。

あの温かさ。あの安心感。

それはもう、二度と手に入らない。


「……産業廃棄物、か」


アレンが最後に言い放った言葉を反芻する。

リサイクルもできない。修理もできない。ただ捨てられるだけのゴミ。

今の俺たちに、これほど相応しい言葉はないだろう。


部屋の隅で、ネズミがカサカサと音を立てる。

かつてドラゴンを狩った勇者は、そのネズミを追い払うことさえできず、ただ膝を抱えて夜明けを待つしかなかった。

だが、彼らに希望の朝が訪れることは、もう二度とない。

あるのは、ゆっくりと、しかし確実に進行していく「崩壊」と「死」へのカウントダウンだけ。


アレンが消去してくれていた『死の運命』は、今度こそ確実に、彼らの喉元へとその冷たい指をかけていた。


夜風が、隙間風となって部屋に吹き込む。

その音はまるで、かつての英雄たちを嘲笑う口笛のように、寂しく響いていた。

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