表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/17

第8章 選ばれた持ち主

12日目の朝、佐藤遥はいつもの時間に目を覚ました。

部屋はストーブをつけても冷え切ったままで、息が白く曇る。

味覚がほとんど失われていて、朝食のパンをかじっても、ただぱさつく感触だけが口の中に広がる。

味というものが、遠い記憶のように薄れていた。

遥は机の上に置かれた絵本をそっと開いた。

ページが、また増えていた。

6ページ目まで。

美しい水彩の挿絵が、次々と並んでいる。

どの絵も、柔らかな光に包まれ、穏やかな笑みを浮かべた人々が描かれていた。

夢のような色合い。

華やかな花、優しい風、静かな眠り。

遥の指が、ページをゆっくり撫でた。

美しい。

こんなに、美しい絵が貯まった。

自分の物語が、どんどん豊かになっていく。

胸の奥から、静かな喜びがじわりと湧き上がってきた。

それは、冷えた体をわずかに温めるような、甘い充足感だった。

誰かが失われた痛みさえ、この美しさが埋めてくれるような気がした。

スマホを手に取り、翔平に電話をかけた。

「ページが……また増えたの」

声が、少し震えていた。

翔平の声は、疲れを隠せない低さで返ってきた。

「何ページまで?」

「6ページ目まで……」

翔平は息を呑み、長い間を置いた。

「……また一人か。

事前に君からもらっていた交友関係のリストと照らし合わせてみる。

今、認識できる連絡先を教えてくれ。

思い出せない人はいるか?」

遥は首を振った。

「わからない……誰だったか、思い出せない」

名前も顔も、霧のように溶けてなくなっている。

ただ、胸に新しい穴が開いたような、冷たい空虚だけが残っていた。

「でも……美しい絵が、こんなに貯まった」

遥は無意識に呟いていた。

翔平は少し間を置いて、静かに言った。

「……明日、会おう」

電話を切った後、遥はもう一度絵本を開いた。

最新のページ──6ページ目を、うっとりと眺める。

古い喫茶店のカウンターの中で微笑む初老の男性。

手にはコーヒーカップ。

豆の香りが漂ってきそうな優しい色合い。

遥の鼻先にかすかな香りが届く気がした。

でも、実際には何も匂わない。

香りさえ、失われていた。


13日目の夕方、遥は翔平と小さな喫茶店で落ち合った。

店内は薄暗く、雨音が窓を絶え間なく叩いている。

翔平はメモ帳とノートパソコンをテーブルに広げ、コーヒーを飲んでいた。

遥が座ると、すぐにメモを差し出した。

「昨日認識できなくなった人……高橋和夫という名前だ」

翔平の声は低く、静かだった。

「君は、その人のことはもう完全に忘れているんだね?」

遥はうなずいた。

聞いたこともない名前だった。

胸の穴が疼くような感覚はあるのに、誰だったのか、どんな顔をしていたのか、どんな声だったのか、まったく浮かんでこない。

ただ、かすかな喪失感だけが、冷たく残る。

翔平はコーヒーを一口飲み、ぽつぽつと話し始めた。

「あれから、俺も調査を進めた。

日記のデータを探して、読み返してみたよ。

ページが増えるたびに、彼女は喜んでいた。

『私の物語が完成する』って。

でも、時々、急に正気に戻ったみたいな断片があって……

『本に選ばれた』

『置いたわけじゃない。ただそこにあった』

『周りが死ぬ』

『火にくべたら炎が向かわなかった』

『切ろうとしたら刃が折れた』

最後に『自分も本の一部に』って書いて、自殺した」

翔平はカップを置き、遥の目を見た。

「本は見つからなかった。

誰が作ったのか、わからないまま終わった。

だけど、たぶん……昔から同じ事が繰り返されてるんだと思う」

遥は息を飲んだ。

「そんな……本が、生きてるみたいに……」

翔平は小さく頷き、席を立った。

「君はもう、この本が危険だということも、薄れてきてる。

君の部屋にあるんだろ?

一度、確かめさせてくれないか」

雨が強くなる中、二人は遥のアパートに向かった。

胸の穴が、静かに疼いていた。

高橋和夫──その名前が、なぜか遠くで響く。

でも、思い出せない。

思い出さない方が、楽だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ