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第7章 灯りのつかない窓の奥

10日目の朝、遥はいつもの喫茶店「珈琲 灯り」に足を運んだ。

雨が細かく降り続いている。

店に入ると、カウンターの奥でマスターの高橋和夫が、いつものように穏やかに豆を挽いていた。

64歳の彼は、遥がこの店に通い始めた頃から変わらずそこにいてくれた。

言葉は多くないが、遥がスケッチブックを抱えて長居している日には、黙ってコーヒーをお代わりしてくれた。

「無理すんなよ。絵は逃げないから」

去年の冬に言われた一言が、今でも遥の胸に残っていた。

今日は店内が静かで、客は遥だけだった。

マスターがコーヒーを運んでくる。

「今日も苦めでいいかい、遥ちゃん」

遥は頷いた。

カップを置く手が、少し震えていることに気づいた。

味覚が薄れている。

せっかくの香り高いコーヒーも、ただ温かいだけの液体にしか感じられない。

遥はバッグから絵本を取り出し、テーブルに広げた。

美しい挿絵を、ぼんやりと眺める。

物語が進んでいる。

自分の物語が、少しずつ形になっていく。

それが、胸の穴をわずかに埋めてくれる唯一の慰めだった。

マスターがカウンターから出てきて、遥の隣のテーブルに腰を下ろした。

「珍しいね、遥ちゃんが本を読んでるなんて」

穏やかな声だった。

遥は少し慌てて、

「絵本なんですけど……綺麗で」

と答えた。

マスターは興味深そうに覗き込み、遥が差し出した絵本を受け取った。

ページをゆっくりめくり、1ページ目の森の家を見て目を細めた。

2ページ目、3ページ目の挿絵をじっと見つめて、表情が少しずつ変わっていく。

「……これは」

マスターの声が、低くなった。

「まあ、趣味は人それぞれだよな」

遥には、その意味が分からなかった。

が、胸が変にざわつく。

マスターの言葉が、心のどこかに刺さった。

遥は無理に笑って、絵本をバッグにしまった。

その夜、遥はアパートでテレビのニュースを見ていた。

小さなローカルニュースに、短いテロップが流れた。

「都内の老舗喫茶店で店主死亡 心臓発作か」

画面に映った店内の写真。

「珈琲 灯り」。

カウンターの奥に、倒れたマスターの姿。

救急隊員が囲んでいる。

遥の指が、止まった。

スマホで店に電話をかけた。

呼び出し音だけが虚しく鳴った。


翌朝──11日目の朝。

遥はぼんやりと目を覚ました。

昨日のニュースが、遠い夢のように感じられた。

誰かの死を聞いた気がする。

でも、名前も顔も、思い出せない。

ただ、胸の穴がまた一つ、静かに広がったような冷たい感覚だけが残っていた。

机の上の絵本を開く。

6ページ目に、新たな絵が描かれていた。

美しい水彩の挿絵。

古い喫茶店のカウンターの中で、初老の男性が穏やかに微笑んでいる。

手にはコーヒーカップを持ち、周囲に淡い豆の香りを思わせる柔らかな茶色の光が広がっている。

背景には古いポスターと、雨に濡れた窓。

まるで、常連客を待つ優しい時間が永遠に続くような、夢のような光景だった。

挿絵の下に、短い詩が書かれていた。


コーヒーを挽く老紳士

お店の奥でにこやかに

豊かな香りに包まれて

最後の客が去ったあと

静かにお空へ飛んでった


遥は息を詰めた。

この男性は、誰だろう。

とても大切な場所にいた人だった気がする。

胸が、理由もなく締めつけられる。

でも、同時に。

遥の唇が、静かに緩んだ。

ページが増えた。

こんなに優しい挿絵で、6ページ目が埋まった。

喜びが、湧き上がってきた。

外は曇り空で、部屋は灰色に染まっていた。

遥はストーブをつけず、膝を抱えて座ったまま、絵本を胸に押し当てた。

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