第6章 机に並ぶ小さなメモ
9日目の朝、遥はぼんやりと目を覚ました。
部屋はいつもの灰色の光に包まれ、カーテンが微かに揺れている。
外は曇り空で、雨が降りそうな気配だった。
ストーブをつけても、冷えがなかなか抜けない。
とても大切なものが次々と失われている気がする。
でも、それが何だったのか、思い出せない。
スマホを手に取ると、同じ番号から着信履歴が複数回残っていた。
昨夜の深夜、短い間隔で何度も。
迷惑電話だろうか?
着信の多さが、なぜか胸に引っかかった。
その番号から、すぐに着信があった。
遥は少し迷って、出た。
「佐藤遥さんですか? 中村翔平です」
声は落ち着いた、低めの男性の声だった。
30代くらいか。
「昨夜、あなたから電話がかかってきた。
留守電だったんだけど、とても逼迫した声で、おかしな本があり、それをお祓いしてくれたお寺が火事になったと……。
……友人の松本俊輔くんから、本の事で女性から連絡が来ると聞いていたから、すぐに思い当たったよ」
遥は言葉に詰まった。
「松本俊輔? それに電話? 私がですか?」
翔平は少し間を置いて、静かに続けた。
「……そうか。
もう忘れてるんだね。
私の名前には心当たりあるかい?」
遥は首を振った。
声に出さず、ただスマホを握りしめた。
翔平の声が、少し低くなった。
「……とりあえず、会ってお話ししよう。
絵本も持ってきてほしい。
このままじゃ、君も、多分俺も、危ない」
遥は迷ったが、なぜか頷いた。
この声が、胸の穴を少し埋めてくれそうな気がした。
でも、同時に、穴の底から何かが這い上がってくるような、冷たい予感がした。
午後、指定された小さな喫茶店で、翔平と対面した。
店内は薄暗く、古いジャズが小さく流れている。
客はまばらで、窓際のテーブルに翔平が座っていた。
眼鏡をかけた、穏やかな顔立ちの男性。
ノートパソコンとメモ帳をテーブルに置き、コーヒーを飲んでいる。
遥が近づくと、翔平は立ち上がり、軽く会釈した。
「佐藤遥さん。
中村翔平です。よろしく」
遥は向かいに座り、翔平の顔を観察した。
落ち着いた目、細い指、メモ帳に走り書きされた文字。
どこか、信頼できそうな雰囲気だった。
翔平はすぐに本題に入った。
「問題の絵本、見せてもらえますか?」
遥はバッグから絵本を取り出し、翔平に渡した。
翔平はページをゆっくりめくり、表情を曇らせた。
「これは……確かに、ヤバいな。
俊輔くんから聞いていた通りだ。
彼とはもう、連絡取れないんだろうな」
翔平は少し間を置き、静かに続けた。
「実は、数年前に似た事件を追ってたんだ。
若い女性が、異常な自殺をする前に残した日記を、取材で読む機会があった。
内容が……きみとそっくりだった。
ページが増える喜び、記憶が薄れること、挿絵の美しさ。
周囲の人が次々死んでいくことまで、詳細に書いてあった。
あまりに突拍子のない話だから、結局、記事にはしなかったんだ。
でも、日記には真実味と逼迫感があって、俺は『本当かもしれない』と思ってた。
俊輔くんから連絡が来た時、すぐにピンと来たよ」
翔平の声は冷静だったが、目が少し翳っていた。
遥の目つきが、うっとりとした。
「人が死ぬと……絵が増えるんですね。こんなに美しい絵が……」
翔平はスマホを取り出し、遥に言った。
「この挿絵、写真を通して見てみて」
遥は言われるまま、スマホで絵本のページを撮影した。
1ページ目の美しい家は、そのまま。
でも、2ページ目以降を撮った画面を見て、遥は息を飲んだ。
画面に映るのは、おぞましい絵だった。
暗い部屋で首を吊った女性の腫れ上がった顔、舌が少し出ている。
線路で轢かれ、肉片が飛び散り、内臓が引きずり出された男性の体。
炎に焼かれ、皮膚が溶け落ち、骨が覗く焼死体。
病室で息絶え、唇が紫に変色し、目が虚ろに開いたままの男性の蒼白な顔。
すべてが、グロテスクで、残酷で、吐き気がするほどリアルだった。
血の臭いが漂ってくる気配すら感じる。
遥はスマホをテーブルに落とし、手で口を覆った。
胃が痙攣し、視界が歪んだ。
「これ……これが……」
翔平は静かにスマホを拾い、画面を遥に向けた。
「最後の絵は、俊輔くんだね。
君には、これが美しく見えるんだろう?
日記の女性も、そう書いてた。
ページが増えるたび、喜びを感じたって」
遥は震え始めた。
これまで撫でてきたページ。
喜びに満ちて眺めていた挿絵。
王子、花、蝶、炎の舞い。
それが全て、おぞましい死の記録だった。
吐き気がこみ上げ、遥はテーブルに突っ伏した。
胸の穴が、急に底なしの闇になった。
これまでの喜びが、すべて汚泥のように感じられた。
自分が、死を喜んでいたような気がした。
翔平はメモを取り、死んだ人たちのリストを書き始めた。
「これから、俺が覚えておく。
君が忘れても、俺が記録する。
この本が、所有する人の関係者を取り込んでいくなら、俺も既に危ないだろうからね。
一緒に、この本の抜け道を探そう」
遥は絵本を握りしめ、涙をこぼした。
初めて、本当の恐怖が胸に染み込んできた。
でも、同時に。
ページが増える喜びが、心のどこかにまだ残っていた。
外の雨が、窓を叩き始めた。
翔平はコーヒーを飲み、静かにメモを続けた。




