第5章 病室に舞う青い蝶
8日目の午後、佐藤遥は指定された病院のロビーに立っていた。
俊輔から電話で聞いた場所だ。
昨日の火災のニュースが頭に残っている。
だが、内容がぼんやりとしか掴めない。
受付で俊輔の病室を尋ねると、看護師はカルテを確認し、
「松本俊輔さんですね。面会は短時間でお願いします。
状態は安定していますが、安静が必要です」
遥はエレベーターで上階に上がり、廊下を歩いた。
消毒液の匂いが鼻を突き、足音が静かに響く。
病室のドアをそっと開けると、カーテンが半分閉められた部屋に、俊輔の姿があった。
ベッドに横たわる俊輔は、弱っていたが意識ははっきりしていた。
顔は蒼白で、額から頰にかけて火傷の跡が赤く残り、腕には点滴の管が繋がっている。
息遣いが少し荒いが、昨日電話で聞いた声よりは落ち着いていた。
「遥さん……来てくれたんだ」
俊輔は弱く微笑み、ベッドを少し起こした。
遥はベッドの横の椅子に座り、言葉を探した。
「ごめんなさい……私が本を、燃やさせなかったから……」
俊輔は首を振り、咳き込みをこらえた。
「違う……遥さんのせいじゃない」
遥の胸が、強く締めつけられた。
俊輔の他に、お清めをしてくれた人がいた気がする。
護摩の炎で絵本を燃やそうとした人。
でも、その人の事を思い出せない。
なぜか、記憶が霧のように薄れている。
俊輔は枕元のメモを取り、震える手で何かを書いた。
「あの本……本当に危険だ。
父が清めている最中、本から敵意のある視線が向けられている感覚があった。
まるで、生きているみたいに。
父はそれを感じて、燃やそうとしたんだと思う」
遥は震える声で聞いた。
「お父さんがいたんですか?」
俊輔は、信じられないという表情になった。
諦めたように目を閉じ、息を整える。
「父はやはり正しかった……。
無理矢理にでも、燃やすべきだったな。
僕の知り合いの中村翔平……フリーのライターで、オカルトや古い物件を調べている人だ。
彼なら、何か知ってるかもしれない。
連絡して。 絶対に……」
俊輔はメモを遥に押しつけ、息を切らした。
看護師が部屋に入り、「もう少しでお時間です」と促した。
遥は俊輔の手を強く握り返した。
「ありがとう……俊輔さん。
あなたが助けてくれようとしたのに……私……」
俊輔は弱く微笑み、目を閉じた。
「早く……本を……調べ……て……」
遥は病室を出て、廊下で膝を抱えた。
俊輔の言葉が、頭に響く。
中村翔平。
その番号を、握りしめた。
その日の深夜、病院から連絡が来た。
俊輔は容態が急変し、治療中に心肺停止。
自分に何かあったら、遥に連絡するように言われていたという。
遥はアパートで、絵本を抱えた。
捨てようとした。
本当に、窓から投げ捨てようとした。
でも、手が離せない。
ほとんど無意識に、開いてしまう。
5ページ目に、新たな絵が描かれていた。
美しい水彩の挿絵。
白い病室の柔らかな光の中で、若い男性が静かに目を閉じている。
周囲に淡い青い蝶が無数に舞い、穏やかな風を起こしている。
顔は安らかな眠りの表情で、唇に優しい微笑みを浮かべている。
背景には点滴のシルエットと、遠くに炎の残光がぼんやりと浮かんでいる。
まるで、蝶に導かれて眠りにつくような、夢のような光景だった。
挿絵の下に、詩が書かれていた。
とても優しい男の子
白い部屋に横たわり
青い蝶々に包まれる
治療の途中に息止まり
安らかきれいな眠り顔
遥は息を詰めた。
この男性は、誰だろう。
病室で手を握った気がする。
涙がこぼれた。
理由のわからない悲しみが、胸を締めつける。
でも……また、ページが増えた。
こんなに美しい挿絵で。
物語が進んでいる。
机に、メモの紙が落ちていた。
中村翔平の番号。
遥はそれを握りしめ、スマホを取り出した。
翔平なら、きっと何か知っている。
この本の秘密を、教えてくれるかもしれない。
翌朝、遥は俊輔の存在を完全に忘れていた。
病院の記憶も、火災のニュースも、霧のように消えていた。
ただ、机の上に見知らぬメモだけが残り、わずかな違和感を覚えた。
でも、それもすぐに薄れていった。
絵本を開くと、5ページ目の美しい眠る男性が微笑んでいる。
遥は静かに微笑み返した。




