第4章 炎の渦に踊る
6日目の朝、佐藤遥はいつもの喫茶店「珈琲 灯り」に座っていた。
雨は止んだが、空は厚い雲に覆われ、窓からの光はテーブルをぼんやりと照らすだけだ。
「おや、遥ちゃん。今日はお疲れ顔だね。いつものでいいかい?」
マスターの高橋さんが穏やかに声をかける。遥が頷くと、湯気の立つコーヒーと小さなクッキーが運ばれてきた。
「無理すんなよ。休むのも仕事のうちさ」
ぽつりと呟くその言葉に、遥の胸がわずかに温かくなる。
だが、コーヒーの味はほとんどしない。
ただ温かい液体が舌の上を滑るだけだった。
胸の奥に、二つの冷たい穴が静かに残っている。
何か大切なものを失った感覚だけが、ぼんやりと漂う。
それでも遥は、机の上に絵本を広げていた。
3ページ目の美しい王子を指でなぞる。咲き乱れる赤い花、穏やかな笑み。
物語が進んでいる──その事実が、穴の冷たさを、ほんの少しだけ和らげてくれた。
もっとページが増えたら、どんなに素晴らしい世界が広がるのだろう。
遥はページをめくり返し、ぼんやりと眺め続けた。
「すみません、それ……ちょっと見せてもらえますか?」
突然の声に、遥は顔を上げた。
隣のテーブルの若い男性が、穏やかに微笑んでいた。
20代後半くらい、細い眼鏡をかけた柔らかな顔立ち。
スーツのジャケットを椅子の背にかけ、コーヒーを飲んでいる。
「え……これですか?」
遥は警戒しつつ、絵本を差し出した。
男性はページを丁寧にめくり、1ページ目の柔らかな光の家を見て眉をひそめ、2ページ目、3ページ目の挿絵を、異様なものを見るような表情で、じっと見つめた。
「……この本、気配が変です。
僕の父が寺の住職で、古い本はよく見るんですが、何か、普通じゃない。
清めたほうが良いと思います」
男性は松本俊輔と名乗った。
父が近くの小さな寺の住職で、自分は仕事の合間にこのカフェに寄ることがあるという。
遥は戸惑った。
絵本の冷たさ、記憶の霧、心の穴──すべてが、説明できない不気味さとして胸に積み重なっていた。
もしかしたら、この本が原因なのかもしれない。
俊輔の言葉が、かすかに心に響いた。
「清め……お祓いですか?」
俊輔はうなずいた。
「父が出来ます。 車で5分もかからないところなので、連れて行きますよ。
無料でいいですから。
このまま持っているのは良くありません」
俊輔の目は真剣で、遥はなぜか逆らえなかった。
絵本をバッグにしまい、カフェを出て俊輔の車に乗った。
短いドライブの間、俊輔は穏やかに世間話をした。
遥はほとんど口を開かなかったが、不思議と安心感があった。
寺は、静かな場所にあった。
小さな本堂と住職の住まいが並び、周囲は木々に囲まれている。
住職の松本宏明は、白髪交じりの穏やかな初老の男だった。
俊輔が事情を説明し、遥が絵本を見せると、宏明はすぐに表情を曇らせた。
「これは……かなり古いな。
異様な存在感がある。
お清めが通用するかは分からないが、全力を尽くそう」
本堂に通され、遥は正座した。
宏明と俊輔が祭壇を準備し、絵本を中央に置く。
線香の煙が立ち上り、お経が低く響き始めた。
護摩壇に火が灯され、炎がゆらゆらと揺れる。
遥は目を閉じ、静かに祈った。
これで、不気味さが消えるかもしれない。
お経が続き、煙が部屋を満たす。
宏明の声が、少しずつ力強くなっていく。
突然、宏明が立ち上がり、護摩の炎に手を伸ばした。
「だめだ、力が強すぎる!」
絵本を掴み、炎の上にかざす。
「これは現世にあってはいけない品物だ! 燃やして清めるしかない!」
遥が血相を変えた。
「やめてください!」
遥は飛び起き、宏明の手から絵本を奪い取った。
宏明の指が、わずかに火傷したようで、小さく息を飲む音がした。
絵本の表紙が、一瞬、熱を持ったように感じられたが、すぐに冷たくなった。
俊輔が慌てて間に入った。
「遥さん、落ち着いて……」
「父さん、ちょっと待って」
遥は絵本を胸に抱き、震える声で言った。
「燃やさないで……これは、私の大事なものなんです。 私の為の物語なんです」
宏明は静かにため息をつき、座り直した。
「君の気持ちはわかるが、この本は危ない。
燃やせば、すべて終わると思ったんだが……」
俊輔は遥に頭を下げた。
「ごめんなさい。強引でした。
でも、父の判断は、僕も正しいと思う。
本を燃やせとは言いません。
でも、少しでも異変があったら、すぐに連絡してください」
俊輔はメモに自分の携帯番号を書き、遥に渡した。
遥は黙って受け取り、絵本を抱えたまま寺を出た。
俊輔が車でアパートまで送ってくれたが、道中、誰も口を開かなかった。
アパートに戻り、遥は絵本を開いた。
ページは変わらず、美しいままだった。
燃やされそうになった恐怖が残るが、同時に、本を守れた安堵が胸に広がった。
これは、自分のものだ。
誰にも渡さない。
7日目の朝。
ニュースで、昨夜の火災が報じられていた。
「都内寺院で火災発生 住職の松本宏明さんは遺体で見つかり、息子の俊輔さんは煙を吸って病院に搬送されました」
護摩の火の不始末が原因か、との推測が出ていた。
遥の胸が、強くざわついた。
すべてが、頭の中でつながりそうで、つながらない。
すぐにメモの番号に電話をかけた。
呼び出し音が数回鳴った後、繋がった。
「……もしもし」
声は弱々しかったが、俊輔のものだった。
「俊輔さん! ニュースを見て……大丈夫ですか?」
俊輔は小さく咳き込み、息を整えた。
「遥さん……か。
父は……亡くなった。
僕は、肺が少しやられて……入院してる。
でも、比較的軽傷で済んだよ。
明日、この病院に来てください。
お話しましょう。
場所は……」
俊輔は病院の名前と病室番号を伝えた。
声は掠れていたが、落ち着いていた。
遥はメモを取り、電話を切った後、胸を押さえた。
外の空は晴れていたが、部屋は冷えていた。
机の上の絵本を開く。
4ページ目に、新たな絵が描かれていた。
美しい水彩の挿絵。
黄金の炎の華やかな渦の中で、初老の男性が優雅に踊っている。
体から鮮やかな火の花が咲き乱れ、周囲を暖かく照らしている。
顔は穏やかな笑みを浮かべ、瞳は輝くようにこちらを見つめている。
背景の空は夕焼けのような柔らかな赤。
まるで、火の精が天に昇るような、夢のような光景だった。
挿絵の下に、詩が書かれていた。
火遊び好きなお坊さん
炎の渦に包まれて
黄金の花が舞い上がり
暖かな光に満たされる
天へとのぼるその命
笑顔も白い灰になる
詩から僅かに、悪意が漏れている事に、遥は気づかなかった。
宏明の死んだショックよりも、絵が増えた喜びのほうが勝っていた。
ただ、胸のざわめきが止まらない。
明日俊輔に会いに行かなければと、静かに思っていた。




