第3章 鮮やかに咲く赤い花
5日目の朝、遥はスマホの振動で目を覚ました。
画面を見ると、恋人の田中拓也からLINEが来ていた。
遥の部屋でスケッチを見ながら「ここに俺の家建てたいな」と冗談を言い、遥の世界を全力で肯定してくれる大切な人。
デートではいつも、子供みたいに甘い言葉を言ってくれる。
そんな拓也を、遙は、可愛いと思っていた。
「おはよう。今日は楽しみだな」
「駅で10時に待ち合わせでいい?」
遥は微笑んで返信した。
「おはよう! うん、楽しみ♪」
既読がつき、すぐに返事が来た。
「俺も」
「遥の声が聞きたい」
遥は電話をかけた。
拓也が出るまで、少し呼び出し音が長かった気がした。
「もしもし、遥?」
声はいつも通りだった。
でも、どこか遠くに聞こえる。
背景に、電車の音が混じっている。
「今どこ? もう家出たの?」
「……うん」
「ちょっと、混んでる」
会話が、いつもより短い。
拓也は普段、朝から甘い言葉をたくさんくれるのに、今日は無口だった。
「どうしたの? 声小さくない?」
「……大丈夫」
「遥、好きだよ」
最後の言葉が、妙に重かった。
その直後、電話がプツッと切れた。
かけ直そうとしたが、電源が入っていないようになった。
遥は少し不安になったが、
「電波が悪いのかな」と思って準備を済ませ、待ち合わせ場所へ向かった。
一時間待っても、拓也は来なかった。
LINEは既読にならず、電話も繋がらない。
遙は釈然としないまま、近くの喫茶店で待ち続けた。
しばらくして、友人から連絡が来た。
「遥、聞いた? 拓也が……電車に……」
友人の声は震えていた。
遥はスマホを握りしめたまま、言葉を失った。
遥はアパートに戻っても、部屋の電気をつけなかった。
卓上ランプをつけ、机の絵本に手を伸ばす。
開く手が、震えていた。
3ページ目に、新たな場面が描かれていた。
美しい水彩の挿絵。
銀色の線路の上に、若い男性が優雅に横たわっている。
体から鮮やかな赤い花がぱっと咲き乱れ、周囲を華やかに彩っている。
顔は穏やかな笑みを浮かべ、瞳は輝くようにこちらを見つめている。
背景の空は夕焼けのような柔らかなオレンジで、遠くに列車が小さく描かれている。
まるで、花畑の中で眠る王子のような、夢のような光景だった。
挿絵の下に、詩が書かれている。
愛を囁く男の子
線路の上で横たわり
真紅の花がぱっと咲く
銀の風が通り過ぎ
踊るように飛ぶ体
道に残った赤い跡
遥は息を詰めた。
この男性は、誰だろう。
とても大切な人だった。
今しがた聞いた名前──拓也──が、頭に浮かびそうで浮かばない。
涙がこぼれた。
理由のわからない悲しみが、胸を締めつける。
でも、同時に。
遥の唇が、静かに緩んだ。
また、ページが増えた。
こんなに美しい挿絵で、3ページ目が埋まった。
赤い花の鮮やかさ。
夕焼けの優しい色。
物語が、豊かになっていく。
この絵は、自分では描けなかった美しさだ。
もっと増えたら、どんな世界になるのだろう。
喜びが、静かに湧き上がってきた。
創作欲が、熱を帯びて胸を満たす。
涙を拭いながら、遥は絵本を撫でた。
冷たい紙が、今は心地よかった。
翌朝──6日目の朝。
遥は目を覚ました。
昨夜の悲しみが、霧のように薄れていた。
誰かの死を聞いたような気がする。
でも、名前も、顔も、思い出せない。
ただ、心の穴が、また一つ大きくなったような冷たい感覚だけが残っていた。
机の上の絵本を開くと、3ページ目の美しい王子が微笑んでいる。
遥は静かに微笑み返した。
物語が進んでいる。
自分の物語が、確実に。
背後で、小動物が走るような音が聞こえた気がした。




