第2章 ゆらゆら揺れるリボン
3日目の朝、佐藤遥はいつもの時間に目を覚ました。
目覚ましより少し早く、六時半。
カーテンの隙間から差し込む冬の薄い光が、部屋を淡く照らしている。
ストーブは消えていて、部屋は冷えきっていた。
遥は布団の中で、昨夜のことをぼんやりと思い出していた。
絵本は描けなかった。
でも、今日こそは。
新しい筆を買ってこよう。
そう思って起き上がり、洗面所で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔は、少し疲れているように見えた。
目の下に薄い影ができている。
スマホを手に取ると、通知が溜まっていた。
昨夜、美咲からLINEが来ていたのを見つける。
「遥、明日カフェ行かない? 久しぶりに話したいな」
美咲──鈴木美咲。
高校からの親友で、明るくおせっかい焼き。遥が絵のスランプで引きこもっていた時、夜中に部屋に押しかけ「お菓子持ってきたよ!一緒に描こう」と励ましてくれた。
遥の未完成の絵を「これ超好き!絶対個展開けるよ」と本気で信じてくれた。
連絡がマメで、いつもカフェの約束を入れてくれる。
遥はすぐに返信を打った。
「いいよ! いつものところで11時?」
いつもならすぐに返信がくるのに、既読にならない。
まあ、朝早いし、まだ寝てるんだろう。
遥は朝食を簡単に済ませ、新しい水彩筆を買うために出かけた。
帰宅してすぐに机に向かい、絵本を開く。
2ページ目は、相変わらず真っ白だった。
新しい筆で、丁寧に線を引こうとする。
それでも、色は乗らない。
紙は冷たい。
苛立ちが募る。
でも、それ以上に、この本を自分のものにしたいという執着が強くなっていた。
午後になり、美咲から連絡がないのが気になり始めた。
電話をかけてみるが、繋がらない。
LINEも既読がついていなかった。
夕方、ニュースアプリを開くと、地元欄に小さな記事が出ていた。
「都内マンションで20代女性、鈴木美咲さんが遺体となって発見されました」
遥の胸がざわついた。
美咲? そんな訳ないよね?
すぐに美咲の自宅に電話をかけるが、応答はない。
その夜、遥は不安でほとんど眠れなかった。
翌朝──4日目の朝。
遥はぼんやりと目を覚ました。
昨日のことが、夢のように遠く感じられた。
美咲のこと。
カフェの約束。
ニュースの記事。
すべてが、霧のように薄れている。
連絡帳を開いても、「誰かと約束していたような……」という感覚だけが残る。
でも、誰だったか思い出せない。
机の上の絵本が、目に入った。
遥は無意識に手を伸ばし、開く。
2ページ目が、描かれていた。
美しい水彩の挿絵。
柔らかな光に包まれた部屋で、若い女性が優雅に宙に浮かんでいる。
首に巻かれた淡いピンクのリボンが、風に揺れて花びらのように舞い、彼女の長い髪がふわりと広がっている。
顔は穏やかな笑みを浮かべ、瞳は輝く星のようにこちらを見つめている。
背景には淡い花が咲き乱れ、全体が夢のような優しい色に満ちている。
まるで、天使がお空へのぼっていくような、幻想的な光景だった。
挿絵の下に、童謡のような詩が書かれている。
優しい笑顔の女の子
首に素敵なリボンを巻いて
天井高くゆらゆらり
お空へのぼるお別れは
誰にも知らせず一人きり
遥は息を止めた。
この女性は、誰だろう。
とても大切な人だったような気がする。
胸が、理由もなく締めつけられる。
でも、名前が出てこない。
顔も、声も、思い出せない。
それでも──
遥の唇が、わずかに緩んだ。
絵本の続きが、現れた。
2ページ目が、埋まった。
美しい挿絵と、詩まで。
これで、自分の物語が始まったんだ。
指先が紙に触れたまま冷えていくのに、
胸の奥では別の熱が静かに灯り始めていた。
創作欲が、喜びが、じわじわと広がる。
この絵は、自分が描けなかった分を、誰かが代わりに描いてくれたみたいだ。
もっとページが増えたら、どんな世界が広がるのだろう。
遥はそっと絵本を撫でた。
氷のように冷たい紙が、今は心地よく感じられた。
挿絵の女性の瞳が、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
胸に開いた小さな穴。
何か、取り返しのつかないものが失われたような冷たい空虚。
でも、今はそれよりも、この本が少しずつ自分のものになっていく喜びの方が、ずっと強かった。
遥はページを閉じず、もう一度最初から眺めた。
1ページ目の柔らかな光の家。
そして、2ページ目の天使のような女性。
物語が進んでいる。
自分の物語が、動き出した。
外は曇り空で、部屋は灰色に染まっていた。
遥はストーブをつけず、膝を抱えて座ったまま、絵本を胸に押し当てた。
部屋の隅で、影が少しだけ濃くなった。




