第1章 柔らかな光の家
アパートの六畳一間は、いつもより少し寒く感じられた。
佐藤遥はコートを脱ぎ、電気ストーブをつけた。
古本市から持ち帰った絵本を、机の上にそっと置く。
蛍光灯の下で、金文字が淡く光る。
「あなたのための絵本」
もう一度表紙を撫でてから、遥はゆっくりと開いた。
最初の1ページ。
あの美しい水彩の挿絵が、再び目の前に広がる。
森の奥、小さな家。
屋根に絡まる蔦、窓辺の優しい花。
動物たちが穏やかに集い、空は朝焼けのような柔らかな色に染まっている。
遥はうっとりと溜め息をついた。
子どもの頃から、何度もスケッチブックに描こうとした世界だった。
夜中まで起きて、鉛筆を折るほど線を重ねては、朝になってすべてを破り捨てた。
「これじゃない」と呟きながら。
美大受験のときも、就活のポートフォリオも、この風景を完成させられなかったせいで諦めた。
イラストの仕事が上手くいかないのも、結局はこの世界を追いかけすぎて、他の何も描けなくなったからだ。
だからこそ、今、目の前のこの絵は──胸が痛いほどに、完璧だった。
挿絵の下の文字を、遥は声に出さず読んだ。
「これは、あなただけの物語。
次のページからは、あなたが埋めてね」
胸の奥が熱くなった。
これは、自分に与えられたチャンスだ。
描けなかった世界を、今度こそ自分が完成させられる。
遥は棚から筆記具をすべて取り出した。
水彩絵具、アクリル、色鉛筆、コピック、細いペン、太いマーカー。
机の上に並べ、息を整える。
まずは2ページ目から。
あの家の続きを描こう。
庭に小さな池を加えて、もっと花を咲かせて、遠くに山を……
筆を握った瞬間、手が震えた。
興奮ではない。
もっと深い、抑えきれない衝動だった。
遥は水彩の筆に絵具を含ませ、2ページ目にそっと触れた。
何も起こらない。
筆先が紙に触れているのに、色が乗らない。
紙が絵具を吸い込まず、ただ筆先を弾くように滑るだけ。
遥は眉を寄せ、もう一度強く押さえてみた。
それでも、白いまま。
跡すら残らない。
次は色鉛筆。
丁寧に線を引こうとするが、鉛筆の芯が紙に触れた瞬間、抵抗なく滑って何も描けない。
まるで紙の表面に、見えない膜があるようだった。
コピック、ペン、マーカー。
どれを試しても同じ。
インクは紙に染み込まず、ただ筆記具の先端を濡らすだけ。
遥は苛立ちを覚え始めた。
息が少し荒くなる。
「どうして……」
呟きながら、遥は何度も試した。
力を入れて擦るように描こうとした。
紙が破れるのではないかと思うほど強く押さえた。
それでも、2ページ目は雪のように白いままだった。
ただ、ほんの少しだけ、紙が冷たく感じられた。
最初に触れた時より、わずかに。
時計を見ると、夜の11時を回っていた。
ストーブの前で膝を抱え、遥は絵本を見つづけた。
あの1ページ目の世界は、確かに自分の理想だった。
だからこそ、この続きを自分が描きたい。
描かなければいけない。
そう思う気持ちが、じわじわと胸の奥から広がっていく。
この本を、自分の物語にしたい。
絶対に。
遥は絵本を閉じ、机の引き出しにしまった。
明日、また試そう。
新しい絵具を買ってこよう。
きっと、何か方法があるはずだ。
電気を消してベッドに入った。
夢の中で、遙は絵の中にいた。
柔らかな光の家。
動物たち。
でも、動物たちの目は、すべてこちらを向いている。
瞳の奥が黒く、底が見えない。
家の窓も、よく見るとカーテンが閉まっていて、中は真っ暗だった。
誰かに見られている雰囲気に、遥は目を覚ました。
時計は午前3時。
部屋は静かだった。
遥はもう一度眠りに落ちた。
白いページが、無限に続く夢を見た。




