第11章 いつも通りに晴れる公園
20日目の昼過ぎ、遥は実家のリビングに座っていた。
母が淹れてくれたお茶がテーブルに置かれているが、手をつけていない。
窓の外は晴れ渡り、近所の公園が明るく広がっている。
子供たちの声が遠く聞こえ、穏やかな午後だった。
母はキッチンで夕食の準備を始めている。
父は仕事で遅くなるという。
弟の悠斗は、学校から帰ったらすぐに顔を出すと言っていた。
遥はここ数日、実家に通っている。
絵本はアパートの引き出しに鍵をかけて置いてきた。
本のそばにいるのが、耐えられない。
遥の描いた絵を冷蔵庫に貼って「この絵大好きよ」と笑ってくれる愛情深い母親。
家族の写真を財布に入れ、誰よりも遥の夢を信じてくれている父親。
家族の温もりが、今の遙にとって、最後の心の支えだった。
母がキッチンから声をかけた。
「悠斗から連絡あったわ。
学校終わったら、ゴミ収集のおじいちゃんを手伝って帰るって」
遥はうなずいた。
悠斗はいつもそうだった。
遥より8歳下の高校生。
近所のゴミ収集のおじいちゃんが高齢で大変そうだからと、学校帰りに手伝うのが日課になっていた。
小さい頃は遥の膝の上で絵本を読んでもらい、誕生日には下手な絵のカードをくれた。
家族の未来みたいな子だ。
遥はスマホを取り出し、悠斗にLINEを送った。
「今日は何してる?」
すぐに返事が来た。
「もう学校終わった!
おじいちゃんの手伝いしてくるね。
お姉ちゃんの好きなアイス、買ってくるよ!」
絵文字がたくさん並んでいる。
遥は少し微笑んだ。
弟の無邪気さが、救いに感じられる。
しかし、その日の夜になっても、悠斗は帰ってこなかった。
スマホにかけても、繋がらない。
押し潰されそうな不安の中、電話が鳴る。
警察からだった。
「佐藤悠斗くんの保護者の方ですか?
事故で……」
遥はスマホを握りしめた。
母が駆け寄り、電話を奪い取った。
母の顔が、みるみる青ざめていく。
悠斗は、学校帰りにゴミ収集車を手伝っていた。
高齢のドライバーが、バックで車を動かした時、ゴミ袋を投入していた悠斗はバランスを崩して前のめりに倒れ込み、ゴミと共に粉砕されていた。
遺体は、肉片の状態だったという。
顔も、判別できないほど。
遥と母は病院に駆けつけた。
遺体の確認。
白いシーツの下で、袋に入れられた物体。
開けられた瞬間、母が絶叫した。
遥は言葉を失った。
弟の、優しい笑顔が、頭に浮かぶ。
あの朝のLINE。
「お姉ちゃんの好きなアイス買うよ」
家に戻ったのは、深夜だった。
母は薬を飲んで寝かされた。
遥は一人、リビングで膝を抱え、喪失感に押し潰されそうになっていた。
翔平に電話をしようと、バッグを開ける。
あの絵本が、入っていた。
引き出しに鍵をかけて置いてきたはずの絵本が、バッグの中に、静かに収まっている。
遥は震えた。
「どうして……ここに……」
絵本をテーブルに置く。
理性が悲鳴をあげるが、開く手が止まらない。
26ページ目に、新しい挿絵。
美しい水彩。
朝の道で、弟が優雅に立っている。
体から淡い光が溢れ、周囲を爽やかに彩る。
手にはゴミ袋を持ち、笑顔でこちらを見ている。
背景は晴れた青空。
まるで、優しい朝の挨拶のような、夢のような光景だった。
詩を読む余裕はなかった。
遥は震える手でスマホを取り出し、息を呑みながら撮影した。
画面に映るのは、おぞましい絵だった。
ゴミ収集車の荷台の中。
粉砕されるゴミの中に、弟だったものが混じっている.
血の臭いが、画面から漂ってくるような。
遥はスマホを投げ捨てた。
吐き気がこみ上げ、床に膝をついた。
弟が。
あの優しい弟が。
ゴミのように。
家族の未来が、粉砕された。
翔平に、錯乱しながら電話する。
声が、うまく出ない。
翔平は静かに聞いた。
「記録したよ。
残り4ページだ」
遥は、気が狂ったように泣き喚いた。
「弟が……まるでゴミみたいに……」
翔平は間を置き、悔しそうに答えた。
「……すまない。
でも、止める方法がまだ見つからない」
遥は電話を切り、絶望に押し潰されながら、絵本を閉じた。
リビングの窓が視界に入る。
窓の外に広がる夜の公園に、屋根に蔦が絡まった小さな家が、風景に溶け込むように薄く見えていた。
閉じられたカーテンの向こうで、なにかの影がちらりと動く。
しかし、瞬きをした瞬間、小さな家は跡形もなく視界から消えていた。




