第9章 触れられない紙
アパートに着くと、翔平はすぐにバッグから道具を取り出した。
ライター、ナイフ、大きめのボウル。
部屋は薄暗く、ストーブの赤い光だけがテーブルをぼんやり照らしていた。
「できる事を、全部試してみよう」
翔平の声は落ち着いていたが、目には焦りが浮かんでいた。
「何もせずに死ぬのは、嫌だろ?」
遥は絵本をテーブルに置き、震える手で見守った。
翔平はまず、ライターで絵本の角に火を近づけた。
炎がゆらゆらと揺れ、本に触れそうになった瞬間──
火が不自然に曲がり、本を避けて消えた。
風はないのに。
部屋の空気が、わずかに冷たくなった気がした。
翔平は眉を寄せ、次にナイフを取り出した。
ページを一枚めくり、角に刃を当てた。
深呼吸をし、力を込めると──
ポキッと小さな音がして、刃が折れた。
薄い紙は傷一つなく、冷たいままだった。
翔平の指が切れ、血が一滴、紙に落ちた。
でも、紙は血を吸い込まず、ただ弾いた。
血がテーブルに落ち、ゆっくりと小さな染みを作った。
翔平は無言で絵本を風呂場に運び、ボウルに沈めた。
蛇口をひねり、勢いよく水を注ぐ。
完全に水没しても、本は水気を帯びる気配がない。
水面が静かに揺れるだけ。
引き上げると、ページは乾いたままだった。
翔平は苛立ちを抑えきれず、シャンプーをかけ、ブラシで乱暴に擦った。
泡が立ち、音が響く。
遥は耐えかねて絵本を奪い返し、ページを開いた。
美しい挿絵は、何の傷もついていなかった。
どの絵も、変わらず穏やかに微笑んでいる。
翔平は首を振り、座り込んだ。
「……壊せない」
翔平は立ち上がり、玄関に向かった。
「引き続き調べてみる。
何かあったら、すぐに連絡してくれ。
残り6ページ。タイムリミットが近い」
遥は、ぼんやりと指で数えはじめた。
「残り……6ページで、完成なのね」
翔平はメモを閉じ、静かに言った。
「そうだ、君を含めて、あと6人。
家族がいるなら、その人達も多分、死ぬ」
遥の指が、止まった。
意識が、甘く朦朧とした世界から、一気に現実に引き戻される。
あと6人。
家族は、まだ生きている。
翔平も、私も。
でも、あと6ページ。
ぼんやりとした意識化では、ページが増えるのは喜びだった。
自分の物語が広がっていく興奮。
その幸福な気持ちが、泡が弾けたように消えた。
残り6枚のページは、自分の物語が、終わるまでのカウントダウン。
偽りの喜びが、胸の奥でまだ息をしている。
でも、その隣で、冷たい恐怖が、静かに広がり始めた。
家族の人生が、終わる。
自分の人生が、終わる。
外の雨が、いっそう強くなった。




