プロローグ 白いページの誘い
1月の終わりの土曜日、街外れの公民館で開かれていた小さな古本市は、もう片付けの時間だった。
人影はまばらで、折りたたみテーブルには売れ残った本が山積みになり、値札のシールが半分剥がれかけている。外は薄暗く、風が吹き抜けるたびにビニールシートがはためいた。
佐藤遥は、帰り道にふと立ち寄っただけだった。
イラストの仕事が上手くいかず、気分転換にでもなればと思って入った。
コートを羽織ったまま、テーブルの間をゆっくり歩く。
文庫本の山、専門書の束、古い漫画雑誌。
どれも埃っぽくて、特別なものは何もない。
一番奥のテーブルは、100円コーナーだった。
他のテーブルが次々と片付けられていく中で、そのコーナーには段ボールの箱が三つ、無造作に置かれていた。
中身の本はごちゃごちゃに混ざっており、きちんと並べられているものは一つもない。
遥は、そのうちの一番手前の箱に目をやった。
箱の上に、ポツンと一冊だけが乗っていた。
厚紙の表紙に、金色の文字が薄く浮かんでいる。
背表紙はなく、角が少し擦り切れている。
他の本に紛れていたわけでもなく、ただ箱の上に置かれていた。
他の本と違い、埃が全く積もっていない。
遥は手を伸ばし、そっと持ち上げた。
「あなたのための絵本」
ただそれだけ。作者名も、出版社も、何もない。
表紙を開くと、最初の1ページ目に、美しい水彩の挿絵があった。
柔らかな陽光が差し込む森の奥、小さな家。
屋根には蔦が絡まり、窓辺には見たことのない優しい花が咲いている。
家の前には穏やかな動物たちが集まり、空は淡い青とピンクに染まっている。
遥の胸が、突然締めつけられた。
これは、自分が子どもの頃からずっと描きたかった世界そのものだった。
挿絵の下に、小さな文字で文章が書かれていた。
「これは、あなただけの物語。
次のページからは、あなたが埋めてね」
遥は息を飲んだ。
次のページは、真っ白。
その次も、その次も。
残り12ページ、すべてが雪のように白く、触れると少し冷たい。
「いくらですか?」
遥が声をかけると、片付けをしていた老人が顔を上げた。
白髪交じりの、無愛想な男だった。
老人は箱の上にあった絵本を見て、軽く首を傾げた。
「……あ、それ? 見覚えないけど、100円でいいよ」
老人は特に気にした様子もなく、すぐに別の箱を運び始めた。
遥は財布から小銭を取り出し、黙って差し出した。
外に出ると、風が強くなっていた。
遥は絵本を胸に抱え、急ぎ足で家に向かった。
背中に、誰かの視線を感じながら。
家に着くと、すぐに机に向かった。
絵本を開き、筆を握る。
この続きを、自分が描ける。
そう思った瞬間、指先が小さく震えた。
それは、喜びではなかった。
もっと深い、底知れぬ衝動だった。
外の街灯が、静かに灯り始めた。




