常時と非常時の理論
黒い霧が、夜の公園に静かに溶けていく。
つい先ほどまで、悲痛な叫び声を上げていた猫型の怪人は、私の「施術」によって精神崩壊を起こし、強制的な送還プロセスへと移行していた。
後に残ったのは、気まずいほどの静寂と、私の肩の上で震え続ける小さな妖精の嗚咽だけだった。
私は、手に持っていた鉄串を、腰のホルダーに一本一本、丁寧に戻した。カチャリ、カチャリという金属音が、凍りついた空気に響く。指先には、怪人の幻影としての血液すら付着していない。アストラル体に対する干渉は、物理的な痕跡を残さない。実に清潔で、効率的な仕事だ。
私は、モーニングスターを地面に下ろし、肩の上で顔を覆って泣いている妖精に視線を向けた。
その姿は、あまりにも小さく、脆く見えた。
「おい」
私は静かに声をかけた。
妖精はビクリと体を跳ねさせ、怯えた眼差しで私を見た。その瞳は涙で潤み、私という存在に対する根源的な恐怖を映し出していた。
「泣いているところ悪いが、話がある。答えろ」
私の言葉に拒否権はない。妖精は、逃げ出したい衝動を必死に抑えながら、恐る恐る私の肩から滑り降り、公園のベンチの背もたれに着地した。私との距離を取りたかったのだろう。
私は、ベンチの前に立ち、腕を組んで妖精を見下ろした。
「単刀直入に聞く。もし、私がこの防衛戦に失敗して、敵が本格的に侵攻した場合……お前たちの世界や、お前たち自身はどうなるんだ?」
それは、今後の業務方針を決定する上で、不可欠な確認事項だった。
私の問いかけに、妖精は息を呑んだ。その小さな顔から、恐怖とは別の、深い哀しみの色が広がる。彼は視線を足元に落とし、震える唇を開いた。
「……どうなるか、だって?」
妖精は、遠い過去を幻視するかのように、虚空を見つめた。
「数十年前のことだ。地球という防壁の歪みから、たまたま一匹だけ、敵のアストラル体が私たちの世界に紛れ込んだことがあった。たった一匹だ。しかも、今日君が倒したような下級の個体だった」
妖精の声が、微かに震え始めた。
「それでも、結果は惨劇だった。私たちには、物理的な干渉力も、強力な攻撃魔法もない。その一匹の敵によって、数え切れないほどの仲間が引き裂かれ、食われ、蹂躙された。
平和だった森が、一夜にして地獄に変わったんだ」
妖精は両手で自分の体を抱きしめた。その言葉からは、種族全体に刻み込まれたトラウマが滲み出ていた。
「君たち人間や、あの侵略者たちと違って、私たちは弱い。そして何より……私たちは本体そのものがアストラル体で構成されている」
妖精は顔を上げ、悲痛な目で私を見た。
「魔法少女のアバターのように、壊れても本体が無事というわけにはいかない。敵のように、一度退散してリスポーンすることもできない。
私たちにとって、アストラル体の死は、完全なる消滅を意味するんだ。二度と戻らない。魂ごと、無に帰すんだよ」
完全なる消滅。
その言葉を聞いて、私はゆっくりと頷いた。私の仮説は正しかった。
彼らは、あまりにも脆弱なクライアントなのだ。守るべき対象が、ガラス細工のように脆い。一度でも落とせば、修復は不可能。
だからこそ、彼らは必死になって外部の戦力、魔法少女という名の傭兵を求めたのだ。
「なるほど。状況は理解した」
私は、冷徹な計算機のように情報を処理した。
彼らの命には、コンティニューがない。一度のミスが、種族の絶滅に直結する。ならば、答えは一つだ。
「だったら、私の戦い方は、お前たちの世界を救うために、最も理に適った、唯一の正解ということになるじゃないか」
私の言葉に、妖精はハッとして顔を上げた。
「な……何を言ってるんだ? あんな残酷な行いが、正解なわけがない!」
「感情論で話すな」
私はピシャリと言い放った。
「事実を見ろ。敵はリスポーンする。何度倒しても、傷が癒えればまたやってくる。お前たちが望むような『正々堂々とした戦い』や『綺麗な勝利』を繰り返したところで、それはただのモグラ叩きだ。
消耗戦になれば、いつか必ずミスが起きる。そして、その一度のミスで、お前たちは全滅するんだろう?」
私は一歩、妖精に近づいた。妖精は後ずさりしようとしたが、ベンチの背もたれに行き止まり、動けなくなった。
「私のやり方は違う。敵の精神を破壊し、トラウマを植え付けることで、復帰までの時間を数年、数十年単位に引き伸ばす。
運が良ければ、精神崩壊を起こして廃人化し、二度と戦線に戻れないかもしれない。敵の総数を、確実に減らしていけるんだ」
私は、妖精の瞳を覗き込んだ。
「それが、死んだら終わりの弱いお前たちが生き残るための、最も効率的な防衛策じゃないのか?」
妖精は、口をパクパクとさせたが、反論の言葉が出てこないようだった。
頭では理解しているのだ。私の論理に、破綻がないことを。しかし、心が拒絶している。彼らの文化、美学、倫理観が、私の蛮行を受け入れられないのだ。
「それとも何か? お前たちの本部は、無限に湧いてくる敵を相手に、千日手のような膠着状態を永遠に続けて、いつか防壁が破られるその日まで、震えて暮らすつもりなのか?」
私は冷ややかに嘲笑った。千日手。将棋で同じ局面が繰り返され、勝負がつかなくなる状態。だが、この戦争において、引き分けは彼らの敗北と同義だ。 妖精は、私の言葉に激しく首を横に振った。
「違う! 私たちは、ただ……平和を守りたいだけで……!」
「平和を守るためには、力が必要だ。そして、力が足りないのなら、知恵と恐怖で補うしかない」
私は、モーニングスターの柄を軽く叩いた。
「お前たちが私に何を期待していたのかは、大体想像がつく。愛と勇気を叫ぶ、清廉潔白なヒーロー。日曜の朝に子供たちが見るような、キラキラした魔法少女。そうだろ?」
妖精は何も言わず、ただ唇を噛み締めた。図星だ。
「だが、残念だったな。お前たちが引いたガチャは、とんだハズレ枠だったわけだ」
私は、妖精に向かって手を伸ばした。
妖精はビクリと身を竦めたが、私はその小さな体を乱暴に掴むことはしなかった。ただ、逃げ場を塞ぐように、両手をベンチの背もたれについた。
「お前たちの前に現れたのは、ヒーローじゃない。誰よりも効率的に、コストパフォーマンスを重視して害虫を駆除する、冷酷な破壊者だ」
妖精の瞳が揺れる。恐怖、嫌悪、そして微かな依存心。
「だが、よく考えて答えろ。お前たちのその小さな命を、本当に救えるのはどっちだ? 敵を綺麗に倒して『また来週』と見送るヒーローか、それとも、二度とこの場所に来たくないと思わせるまで徹底的に叩き潰す悪魔か」
私の問いかけは、鋭利な刃物のように妖精の核心を突き刺した。
妖精は、涙を流しながら、私を見つめ返した。否定したかったはずだ。悪魔の手など借りたくないと。しかし、彼は知ってしまったのだ。
私のやり方がもたらす、圧倒的な安寧を。今日の敵は、もう二度と現れないという確信を。妖精は、声を絞り出すように言った。
「……君は、狂ってる」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
私は、妖精の体をそっと片手で包み込み、自分の肩に戻した。その体温は低く、まだ小刻みに震えている。
私は、この小さな雇用主に対して、奇妙な保護欲のようなものを感じていた。それは愛玩動物に対する愛情ではなく、自分が管理すべき脆弱な資産に対する責任感に近い。
「お前たちが私をどう呼ぼうと構わない。悪魔でも、外道でも好きに呼べ。だが、私は私だ。私は私のやり方で、この契約を履行する」
私は、公園の出口へと歩き出した。
「私は、私の老後の安泰などのために。お前は、お前の仲間の命のために。利害は一致している。それで十分だろう?」
妖精は、私の肩の上で小さく丸まり、もう何も言わなかった。ただ、その沈黙は、私のやり方を是認したという、無言の契約更新だった。
その時だった。 私の耳元のインカムに、不快なノイズが走った。
ザザッ……ザザザッ……。
それは、空間の裂け目が広がる音。新たな敵の侵入を告げるアラート。
私は立ち止まり、夜空を見上げた。公園の向こう、高層ビルが立ち並ぶ都市の空に、赤黒い亀裂が走っているのが、アストラル体の視界を通して見えた。
「……休憩時間は終わりか」
妖精が、ハッとして顔を上げた。
「反応あり……! 方角、北東。距離、三キロ。大型の反応だ!」
その声には、先ほどまでの湿っぽい感情は消え、オペレーターとしての切迫感が戻っていた。彼もまた、生き残るために必死なのだ。
私は、モーニングスターを構えた。ジャラリと鎖が鳴る。夜風が、私の黒いドレスの裾を揺らす。私は、口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
「いいタイミングだ。さっきの『施術』で、新しいアイデアが浮かんだところなんだ」
私のモーニングスターが、街灯の光を吸い込み、鈍く黒く輝く。それは、誰かを照らす希望の光ではない。誰かの希望を打ち砕き、絶望の底へ叩き落とすための、冷たく、重い断罪の光。
私は地面を蹴った。
「行くぞ、相棒。残業の時間だ」
私は、闇夜を疾走した。この退屈で、理不尽で、救いのない世界を、私なりの最高に効率的なやり方で守り抜くために。 悪魔の仕事は、まだ始まったばかりだ。




