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魔法少女 シャイニングスター  作者: 妖精56号 北緯36度東経140度担当
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敗北のコスト

人間というのは、環境に順応する生き物だ。二度目の出撃となる今夜、私の足取りは驚くほど軽かった。

深夜二時三十分。場所は港区、六本木の裏路地。華やかな表通りから一本入れば、そこには吐瀉物と残飯の腐臭が漂う、都市の消化器官のような暗がりが広がっている。


私はヒールのあるブーツを履いているが、アスファルトの上を歩いても、カツンという硬質な音は一切鳴らない。アストラル体となった今の私は、物理的な質量を持たない幽霊のような存在だ。風を切る音も、衣擦れの音さえも立てず、完全に夜の闇と同化していた。


初陣の時は、まだどこかに緊張があった。非日常への戸惑い、未知の敵への警戒心。だが、今は違う。

私の意識は、冷たく澄み渡った冬の湖面のように静まり返っていた。心拍数は一定で、恐怖も高揚もない。あるのは、これからこなすべき「業務」の手順書が、脳内で淡々とスクロールされている感覚だけだ。

妖精からの事前情報によれば、今回のターゲットは前回よりも脅威度が高い個体らしい。

私は路地の角で足を止め、そっと顔を覗かせた。


いた。


雑居ビルの狭間に、巨大な影が蠢いている。

それは、ゴリラを歪に巨大化させたようなシルエットを持っていた。身長は三メートル近いだろうか。全身が黒く太い剛毛で覆われ、丸太のような太い腕が地面に垂れ下がっている。

だが、動物園にいるゴリラとは決定的に違う点が一つある。その顔には、目も鼻も口もなかった。あるのは、のっぺりとした黒い皮膚と、そこから突き出した無数の突起物だけ。

怪人は、ビルのコンクリート壁に太い腕を突き刺していた。まるで水面に手を沈めるように、硬い壁を透過して内部へと干渉している。


「……あれは何をしている?」


私はインカム越しに、肩に乗っている妖精に問いかけた。


「建物の構造体に干渉して、『場』の空気を澱ませているんだ。あそこは人気クラブの壁面だね。あいつが負のエネルギーを注ぎ込むことで、店内の客たちの闘争本能を刺激し、些細なことで暴力沙汰を起こさせようとしている」

「なるほど。前回の陰湿な精神誘導タイプとは違って、物理的な破壊衝動を煽るタイプか」


私は冷ややかに分析した。

アストラル体の視界で見ると、怪人の周囲には赤い稲妻のようなエフェクトが走っている。あれが、破壊衝動の視覚化なのだろう。


密度が高い。


前回のトカゲ型よりも、明らかに存在としての質量が大きい。精神干渉能力は低いかもしれないが、純粋な戦闘力は高そうだ。

だが、私にとっては好都合だ。的が大きければ、それだけ当てやすい。

私は、モーニングスターの柄を握り直した。掌に吸い付くような革の感触を確認する。


行くぞ。


私は音もなく地面を蹴った。

重力を無視した跳躍。フリルのスカートがふわりと広がるが、風切り音はしない。

怪人は、壁に干渉することに夢中で、背後への警戒がおろそかになっている。野生動物のような勘は働いていないようだ。あるいは、この世界の人間には自分が見えないという慢心があるのかもしれない。

私は、怪人の巨大な背中の後ろに着地した。


距離、ゼロ。


怪人が、何かの気配を感じ取ったのか、のっそりと振り返ろうとする。


遅い。


私は、モーニングスターを最短距離で振り上げた。

鎖は伸ばさない。鉄球を柄に固定したまま、メイス(戦棍)として使用する。これだけの巨体だ。半端な距離を取るよりも、ゼロ距離打撃で確実に急所を砕く方が効率的だ。


「業務妨害だ。退場しろ」


私の呟きは、誰にも届かない。

次の瞬間、無数のスパイクが生えた鉄球が、怪人の後頭部に深々と叩き込まれた。


ゴッ!!


鈍く、重い衝撃音が路地裏に響く。

手首に伝わる強烈な反動。まるでタイヤをハンマーで叩いたような、弾力のある硬さ。だが、私のモーニングスターは、その「硬さ」ごと中身を粉砕するだけの破壊力を持っている。

怪人の巨大な体が、ビクリと硬直した。

声なき悲鳴を上げようとしたのか、のっぺらぼうの顔が大きく歪む。


だが、私は追撃の手を緩めない。

一撃目で体勢を崩させ、二撃目で確実に仕留める。私は、柄のボタンを弾き、鎖を解放した。


ジャラッ!


鉄球が重力に従って落下する勢いを利用し、私は怪人の太い首へと鎖を回した。

背中に飛び乗り、膝を怪人の肩甲骨の間に突き立てる。そして、鎖をクロスさせ、全身全霊の力で引き絞った。

締め技。単純だが、生物的な構造を持つ相手には極めて有効な手段だ。


ギリギリギリ……。


鎖が剛毛と筋肉に食い込み、不快な音を立てる。

怪人は太い腕を振り回し、背中の私を振り落とそうともがく。その拳が空を切るたびに、アストラル界の空気が爆ぜる音がする。もし直撃すれば、私のアストラル体などひとたまりもないだろう。

だが、暴れれば暴れるほど、鎖は深く食い込んでいく。


ヒュー、ヒュー……。


怪人の喉の奥から、空気が漏れるような音が響く。それは、私の聴覚にのみ届く断末魔の喘鳴だ。

私は表情一つ変えず、ただ機械的に力を込め続けた。


苦しめ。抵抗しろ。酸素を消費しろ。


やがて、怪人の動きが鈍くなる。膝から崩れ落ち、太い腕が力なく垂れ下がる。


プツン。


何かが切れる感触。怪人の輪郭が保てなくなり、黒いインクを水に垂らしたように滲み始めた。崩壊が始まる。私は背中から飛び降り、鎖を回収した。

巨大なゴリラ型の怪物は、黒い霧となって霧散し、夜の闇へと溶けていった。後に残ったのは、静寂だけ。

現実の壁には傷一つなく、クラブの中からは重低音のリズムが漏れ聞こえてくる。何も変わらない日常。

私は、モーニングスターの鉄球についた黒い粒子を払うような仕草をして、肩に担ぎ直した。


「ミッション完了」


所要時間、わずか三分。完璧な仕事だ。


妖精は、私の肩の上で小さく身震いしていた。

その羽は小刻みに震え、私の顔色を伺うようにちらちらと視線を送ってくる。


「……見事な手際だね、ヒカリ。まさか、これほど早く順応するなんて」


妖精の声には、称賛よりも畏怖の色が混じっていた。

私は、妖精の言葉には答えず、消滅した怪人がいた空間をじっと見つめていた。ふと、疑問が湧いた。

これは、私の今後のキャリアプランに関わる重要な問題だ。確認しておかなければならない。


「ところで、妖精」


私は静かに問いかけた。


「ん? なんだい?」

「倒した敵は、前回も今回も霧のように消えていったけど、あれは完全に『死んだ』のか? それとも、ゲームのモンスターみたいに、リスポーン(復活)するのか?」


私は、あくまで事務的な確認作業の一環として聞いた。もし復活するなら、その周期はどれくらいか。同じ個体が学習して戻ってくるのか。それによって、対処法も変わってくる。

妖精は、少し言い淀んだ。


「い、いや、彼らも純粋なアストラル体として、次元の壁を無理に突破してきている。こちらの世界での活動には、相当なリスクを負っているんだ。

 だから、本体が向こうの世界にいる以上、ここでアストラル体が破壊されても、完全に消滅して死ぬことはまずないが……」


-死なない。


その言葉に、私は少しだけ眉をひそめた。それでは、根本的な解決にならないのではないか。だが、妖精は続けて言った。


「しかし、敗北、特に今回のように肉体の破壊を伴う強制送還を食らった場合、彼らの精神体本体に甚大なフィードバック・ダメージが残る。人間で言えば、全身複雑骨折と精神崩壊を同時に起こしたようなものだ」


妖精は、喉をごくりと鳴らした。


「数週間、いや数ヶ月は寝たきり状態だろうね。そして、今回のような重傷からの完全復帰までには、彼らの世界の時間感覚で言えば、年単位の期間が必要になるはずだ」


年単位。


その単語が鼓膜を叩いた瞬間、私の脳内で電卓が弾かれた。コスト対効果の計算結果が表示される。

私の口元に、自然と薄い笑みが浮かんだ。それは、勝利の喜びでも、サディスティックな快感でもない。難解な数式の解を見つけた数学者のような、あるいは、完璧な節税対策を思いついた経理マンのような、極めて理知的な満足の表情だった。


「なるほど」


私は頷いた。


「つまり、これは単なる防衛戦ではないということか。こちらの世界で彼らを破壊することは、『侵略者側のリソースを極限まで削り、戦線復帰を遅らせる』ための、対テロリズム戦争における遅延工作であり、懲罰的攻撃に近いわけだ」


妖精は、私の言葉の含みを感じ取ったのか、何も言えずにただ私を見つめている。

私は、夜空を見上げ、独り言のように続けた。


「敵を殺せないのなら、殺す必要はない。重要なのは、二度と来たくないと思わせること。あるいは、来られない体にすることだ」


私の瞳に、路地のネオンが冷たく反射していた。


「敗北のコストを上げればいい。割に合わないと思わせれば、それが最大の抑止力となる」


私は妖精に向き直った。


「そのためには、ただ苦痛なく一撃で破壊してやるだけでは不十分だということになる」


妖精が、ビクリと体を震わせた。嫌な予感がしているのだろう。その直感は正しい。


「奴らに、更なる精神負荷をかけ、トラウマを植え付ける。恐怖という名のウイルスを感染させて送り返すんだ。そうすれば、その個体は再起不能になるし、その恐怖は仲間内にも伝播するかもしれない」


私は、結論を口にした。


「つまり、殺さずに、徹底的に痛めつければいい」


私の言葉が路地裏に落ちると、妖精は文字通り凍り付いてしまった。

その小さな体は、私の肩の上で石像のように硬直し、瞳孔が極限まで開いている。


「な……」


妖精の口がパクパクと動く。


「な、何を言っているんだ!? そ、それは……あまりにも倫理にもとる! 非人道的ではないか!?」


妖精は、半狂乱になりながら、私の顔の周りを飛び回り、必死に抗議の声を上げた。


「私たち魔法界の住人は、彼らを排除しているとはいえ、戦闘行為には一定のルールと名誉を重んじているんだ!

 苦しめるために戦うなんて、それは闇の勢力のやることだ!魔法少女は、もっと清廉潔白で……!」

「ルール? 名誉?」


私は、鼻で笑い飛ばした。その乾いた笑い声が、妖精の抗議を一刀両断にする。


「お前は、奴らが何をしているのか忘れたのか? 見えない場所から人類の思考を誘導し、社会を根底から混乱させようとしている。電車に飛び込ませ、暴力を誘発し、罪のない人間を破滅させようとしている」


私は、先ほどの怪人が干渉していたビルの壁を指差した。


「奴らは、人類の自由な意思と、尊厳を踏みにじっている。そして、お前の世界そのものを滅ぼそうとしている侵略者だ。そいつらに対して、人道的な配慮? 寝言を言うな」


私は、妖精の目を至近距離で覗き込んだ。

私の瞳は、深海のように暗く、静かで、一切の感情を排していた。そこにあるのは、タスクを処理するためだけの機能性のみ。


「これは、スポーツじゃない。最初から取り決められたルールなど存在しない、生存競争だ。そして、私は、この戦争を終わらせ、自分と契約した『老後の安泰など』という報酬を確実にするために、最も効率的で、最も合理的な方法を選ぶだけだ」


私は、肩に担いだモーニングスターの鉄球を、愛おしげに指先で撫でた。冷たく鋭いトゲの感触が、指紋に食い込む。


「奴らのアストラル体をただ破壊するのではない。その魂の記憶中枢に、『シャイニングスター』という存在を、根深い恐怖として、消えない傷跡として刻み込んでやる」


私は、にっこりと微笑んだ。それは、営業スマイルよりも完璧で、そして悪魔よりも恐ろしい笑顔だったかもしれない。


「そうすれば、奴らは、二度とこの世界に近づこうとはしないだろう。怪我をするだけなら治ればまた来るかもしれないが、心が壊れれば二度と立ち上がれない。それが、最も安価で、確実で、持続可能な防衛策だ」


妖精は、とうとう言葉を失い、へなへなと私の肩に座り込んだ。

その表情には、私の言葉に対する生理的な嫌悪感と、そして、このあまりにも合理的すぎる人間を『希望』として選んでしまったことへの、どうしようもない絶望が滲んでいた。


彼が求めていたのは、光の戦士だったのだろう。

だが、彼が手に入れたのは、効率のためなら拷問すら厭わない、冷酷な執行人だった。

私は、妖精の反応など意に介さず、ブーツの踵を返した。私が求めているのは、ヒーローとしての賞賛ではない。誰かに「ありがとう」と言われることでもない。

確実な結果。ノルマの達成。そして、それによって得られる未来の保障。それだけだ。


私はモーニングスターを揺らしながら、雑居ビルが立ち並ぶ路地の奥へと足を踏み入れた。

まだ夜は長い。次の獲物を探そう。今度は、もう少し時間をかけて、たっぷりと「教育」してやるのもいいかもしれない。


私は、ただの魔法少女ではない。私は、社会の歯車として磨耗し、感情を削ぎ落とした果てに生まれた、徹底した合理主義の怪物だ。

そして、この世界を守るという「仕事」を全うするために、最もダーティーで、最も忌み嫌われる戦い方を、迷うことなく貫き通すだろう。

漆黒のドレスが、夜の闇に溶けていった。


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