深夜の試運転
私は、自分の手で顔を覆い、指の隙間から漏れる笑い声を抑えることができなかった。
深夜のリビング、カーテンを閉め切った密室に、私の乾いた笑い声だけが反響する。目の前に浮遊している私の分身体、コードネーム「シャイニングスター」は、黒いフリルのついた悪趣味なゴシック調の衣装を身につけ、その手には禍々しいトゲ付き鉄球、モーニングスターをぶら下げている。
その姿は、私が幼い頃にテレビで見て憧れた、キラキラとした「魔法少女」とは、あまりにもかけ離れていた。光の戦士というよりは、闇の執行人。あるいは、物語の終盤で主人公たちを絶望に叩き落とすラスボスの側近だ。
「まあ、いいや」
ひとしきり笑った後、私は諦めにも似た、それでいて妙に晴れやかな気持ちで呟いた。
どうやら、この姿こそが、私の本質を最もよく表しているらしい。社会の理不尽に耐え、愛想笑いを浮かべ、心を殺して働いてきた二十九年間。その内側に溜まりに溜まった鬱屈とした感情、ドス黒いストレス、破壊衝動。
それらが濾過されることなく形を得ると、こうなるのだという証明を突きつけられた気分だ。しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、無理をしてピンク色のドレスを着せられるより、この喪服のようなドレスの方が、今の私にはしっくりと馴染む。
私は立ち上がり、洗面所へと向かった。
鏡の前に立つ。照明に照らされた現実の私は、部屋着のスウェット姿で、化粧も落とした素顔のままだ。目の下には薄くクマがあり、疲れが滲んでいる。
だが、その背後に、ぼんやりと半透明なシャイニングスターが立っていた。幽霊のように背後霊として佇むもう一人の自分。その瞳は鋭く、私と目が合うと、鏡越しにニヤリと口角を上げた。その存在は、紛れもなく私自身から生まれたものだというのに、まるで別の人間のように感じられた。
「……不思議な感覚だ」
私は、自分の手のひらを見つめ、握ったり開いたりしてみる。
この二つの意識が、完全に分離しているようでいて、根底で繋がっていることに気づく。私の主たる意識は、現実の体の中にしっかりと留まっている。呼吸をし、心臓の鼓動を感じ、スウェットの肌触りを感じている。
一方で、シャイニングスターの意識は、アストラル体と呼ばれる別次元の位相にあった。
まるで、高精度のVRゲームをプレイしているような、あるいはドローンを操縦しているような感覚に近い。けれど、そこから送られてくる情報は、映像だけではない。風の冷たさ、衣装の重み、武器のグリップの感触。それらが、ノイズ混じりの信号として、私の脳に直接流れ込んでくる。
私たちは、お互いの思考を共有し、記憶を共有している。右手を上げようと思えば、現実の私も、鏡の中のシャイニングスターも、同時に右手を上げる。だが、同時に、それぞれが独立した「人格」のようなものを持ち合わせているようにも感じられた。
アバター側には、私の理性が抑え込んでいる衝動が強く反映されているせいかもしれない。
「……まずは、この操作感に慣れないとな」
私は鏡の中のシャイニングスターに話しかける。
シャイニングスターは、言葉を発することはなかった。ただ、私の思考を読み取ったように、わずかにその体を揺らし、了解の意を示した。その動きは滑らかで、重力を感じさせない。
ふと、シャイニングスターが右手に持っている武器、モーニングスターに目がいく。
改めて見ると、その異様さが際立っていた。持ち手の柄の部分は、黒檀のような黒い金属でできており、長さは七十センチほど。ご老人が使うステッキや、指揮者が使うタクトのように細く、優美ですらある。
だが、その先端に繋がれた鉄球は、どう見ても物理法則を無視した質量を感じさせた。直径二十センチほどの黒い球体には、五センチほどの鋭利な黄金のスパイクがびっしりと生えている。
「これ、どうやって振り回すんだ? 鎖が短すぎないか?」
今は鉄球が柄の先端に直結しているように見える。これではただの棍棒だ。モーニングスターというよりはメイスに近い。私がそう疑問を抱いた瞬間、脳内に武器の使用マニュアルのようなものが直感として流れ込んできた。
「なるほど。モーニングスターの柄に、ほとんどの鎖が内蔵されているんだな」
私がそう呟くと、シャイニングスターは柄を強く握りしめた。
カシャン。
硬質な金属音が響く。
次の瞬間、柄の内部で何かが解放されたような感覚とともに、シャラララリと涼やかな音を立てて、鎖が柄の中から伸びてきた。
まるで釣り竿のリールのように、あるいは巻尺のように、細く強靭な鎖が重力に従って垂れ下がる。鉄球が床に触れる寸前で止まった。鎖の長さは、私の意思で自在に調整できるようだ。
「……近接から中距離攻撃まで、バッチリってわけか。魔法っぽさ、一ミリもないけど」
私は、鏡の中で揺れるモーニングスターをじっと見つめる。ビームも出なければ、ハートも飛ばない。
それは、ファンシーな装飾など一切なく、ただひたすらに、敵の装甲を貫き、骨を砕き、肉を破壊するためだけに作られた、純粋な暴力装置だった。
だが、その冷たい機能美に、私は魅了されていた。自分の手で何かを壊す。そんな野蛮な衝動が、この武器を持つだけで肯定されるような気がした。
「……よし、試してみようか」
私は、部屋の空気を吸い込み、決意を固めた。室内で振り回すわけにはいかない。家具を壊すのは御免だし、そもそも狭すぎる。
私はパーカーを羽織り、財布と鍵だけを持って玄関を出た。
深夜二時。街は眠りについている。
私はマンションから少し離れた場所にある、コインパーキングへと足を運んだ。ここは昼間は営業車などで満車になるが、夜間はほとんど利用者がおらず、広々としたアスファルトの空間が広がっている。
冷たい夜風が頬を撫でる。街灯の白い光が、無機質な地面を照らしていた。
周囲に人の気配がないことを確認する。監視カメラの死角になる隅の方へ移動し、私は深く息を吐いた。
現実の私は、駐車場のフェンスに背を預け、目を閉じる。そして、意識のチャンネルを切り替える。
「展開」
心の中で唱えると同時に、私の身体から幽体離脱するように、シャイニングスターが実体化した。
現実の私のすぐ横に、漆黒のドレスを纏ったもう一人の私が降り立つ。
私は目を開けた。
しかし、今、私が見ている「世界」は、先ほどまでの景色とは異なっていた。右目には現実の風景。左目にはシャイニングスターの視覚情報。二つの映像が脳内でオーバーラップし、AR(拡張現実)のように重なり合っている。
シャイニングスターの目を通して見る世界は、色が薄かった。
まるで古いフィルム映画のように、彩度が落ち、全体的に青白く発光している。
アスファルトの地面も、駐車場の白い区画線も、そして、その隅に停められている、誰かが放置していったサビだらけの自転車も。すべてが、薄暗い単調な世界の中で、輪郭だけが際立って見えた。
これが、アストラル体の視界か。
物質の表面ではなく、その存在の座標を見ているような感覚だ。私は、シャイニングスターに意識を集中させた。
シャイニングスターは、静かにモーニングスターを構えた。柄の感触、鎖の重み、鉄球の遠心力。それらがリアルな感触として伝わってくる。
狙うのは、地面のアスファルト。私は大きく振りかぶり、身体の回転を利用して、鉄球を叩きつけた。
「ふっ!」
鋭い呼気とともに、モーニングスターが空を裂く。
鎖が唸りを上げ、トゲだらけの鉄球が、アスファルトの地面へと吸い込まれていく。
ゴッ!!
鈍く、重たい衝撃音が夜の静寂を震わせた。手に伝わる強烈な反動。
シャイニングスターの視界では、アスファルトの表面が蜘蛛の巣状にひび割れ、砕け散った破片が飛び散るのが見えた。地面が大きく陥没している。
しかし現実の私の目には、驚くべき光景が映っていた。
「……無傷?」
私は思わず声に出した。
現実のアスファルトには、傷一つついていなかった。ひび割れもなければ、凹みもない。ただ、風が吹いているだけだ。
まるで、幽霊がポルターガイストを起こそうとして失敗したかのような、奇妙な齟齬。
「妖精、どういうことだ? 手応えは確かにあったのに」
私がポケットに入れていたスマホに向かって問いかけると、画面が勝手に光り、妖精の声がスピーカーから聞こえてきた。どうやら、通信機能も万全らしい。
「当然さ。君が攻撃したのは、物質のアストラル体。つまり、その場所にある『概念』や『霊的な存在』を傷つけたんだ。君たちの武器は霊的な干渉力に特化しているから、現実の物理的な物体には、分子レベルでの影響を与えないように位相がズレているんだよ」
「位相がズレている……」
なるほど。 私は、再びモーニングスターを振り回す。
今度の標的は、駐車場の隅に不法投棄されている、錆びついた自転車だ。カゴには空き缶が詰め込まれ、タイヤはパンクしている。
シャイニングスターが一歩踏み込む。手首のスナップを効かせ、鉄球を横薙ぎに一閃させる。
ヒュンッ、という風切り音。
鉄球が、自転車のフレームとスポークに直撃した。
キィィン!!
甲高い金属音が響き渡る。
アストラル体の視界の中で、自転車は無残にひしゃげた。フレームは「く」の字に曲がり、スポークはバラバラに飛び散り、サドルは吹き飛んだ。
破壊の快感。金属を飴細工のようにねじ伏せる万能感。だが現実の視界では自転車は、微動だにせずそこに存在していた。
サビの一つも落ちていない。空き缶すら転がっていない。
「……すごいな、これ」
私は感嘆のため息を漏らした。
「霊的な破損は、現実の破損とは連動せず、世界の復元システムによって時間の経過と共に徐々に修復される。
つまり、君がどれだけ暴れようが、現実世界においては『何も起きていない』ことになる」
妖精は、まるで家電の説明書を読み上げるかのように、淡々と、しかし誇らしげに説明した。
「器物破損罪には問われないし、賠償請求も来ない。安心して戦ってくれ」
私は、その言葉に、深く頷いた。口元が自然と歪むのを止められなかった。
なるほど。これは、私にとって完璧な「仕事」だ。リスクはほとんどなく、誰かに知られることもない。
そして、私が日頃溜め込んでいるストレスを、いくら物理的な暴力として解き放ち、暴れ回っても、現実世界には何の被害も、迷惑も与えることはない。
誰にも迷惑をかけずに、破壊衝動を満たせる。こんなに素晴らしい福利厚生が他にあるだろうか。
私は、シャイニングスターに命じて、再び駐車場のアスファルトを思い切り叩かせた。振りかぶり、叩きつける。振りかぶり、叩きつける。
ゴッ! ガッ! ズドン!
アストラル体の視界の中では、アスファルトはクレーターのように穿たれ、粉々に砕け散っている。私の心の中の黒いモヤも、その衝撃と共に少しずつ晴れていくような気がした。
現実の私の目には、ただ静かな駐車場が広がっているだけ。
誰にも見えない破壊。誰にも聞こえない轟音。私は、そのシュールで、それでいて最高に心地よい光景を見て、満足げに微笑んだ。
「これなら、思う存分暴れられるな」
私は、自分の分身であるシャイニングスターを、まるでクリスマスに新しいおもちゃを手に入れた子供のように、愛おしげに見つめていた。
退屈な日常から抜け出し、心を解放するための、最高の玩具。凶器でありながら、私にとっては精神安定剤のようなものだ。
一通り「素振り」を終えた私は、シャイニングスターの武装を解除し、自分の中へと戻した。
身体に戻る瞬間、少しだけめまいがしたが、すぐに慣れた。心地よい疲労感が身体に残っている。まるでスポーツジムで汗を流した後のような爽快感だ。
私は、何事もなかったかのような顔をして、コンビニで夜食のプリンを買ってからマンションへと戻った。
そして、その日から、私の夜は一変した。二つの世界を行き来する二重生活。
昼間、現実の私は、地味で真面目なOLとして、上司に頭を下げ、理不尽な客のクレーム処理をし、書類の山と格闘するただの凡人。
だが夜になれば、もう一人の私は漆黒のドレスを翻し、モーニングスターを振り回し、誰にも知られることなく、人知れず異界の敵を待ち構える戦士となる。
いや、戦士というよりは、夜な夜なストレス発散のためにバットを振り回すヤンキーに近いかもしれないが、世間的にはそれを「魔法少女」と呼ぶらしい。
私はプリンを一口食べ、スプーンを置いた。明日の仕事もきっと憂鬱だろう。でも、今の私には「これ」がある。それだけで、世界が少しだけマシに見えた。




