蜘蛛の巣
その日は、皮肉なほどに晴れ渡っていた。
サンフランシスコ市街地の上空には、雲ひとつないカリフォルニアの星空が広がっている。月の明かりはほのかに街を照らし、街灯の光が揺らめく。
ピクニック日和だ。こんな日に、世界の命運をかけた殺し合いをするなんて、実に風情がない。
私は、ビルの屋上の屋上に伏せ、スコープ越しにその光景を見ていた。
湾岸エリア広場の中央、他の魔法少女たちが陣取っている真上の空間が、ガラスが割れるような音と共に歪み始めた。
空間が裂ける。
星空に、醜悪な赤黒い傷口が開く。そこから溢れ出すのは、コールタールのような闇と、腐敗したヘドロのような瘴気だ。
ゲートが開いた。
広場に緊張が走るのが、ここからでも手に取るように分かる。
色とりどりのドレスを着た少女たちが、それぞれの武器を構え、フォーメーションを組む。彼女たちの背中からは、悲壮な決意と、これから始まる英雄的な戦いへの高揚感が立ち上っていた。
だがゲートから飛び出してきた敵の姿を見て、私は思わず眉をひそめた。
「……正気か?」
現れたのは、トカゲや狼の頭を持つ獣人型の怪人たちだ。筋骨隆々で、殺意に満ちた咆哮を上げている。それはいい。想定通りだ。
問題なのは、その「出方」だ。
狭いゲートの出口から、一体、また一体と、順番に行儀よく飛び出してくるのだ。
まるで、駅の改札を通る通勤ラッシュのサラリーマンのように。あるいは、ベルトコンベアに乗って出荷される製品のように。
「魔法少女という不倶戴天の天敵が、万全の態勢で待ち構えているキルゾーン(殺傷地帯)に、戦力を逐次投入だと……?」
私は、スコープから目を離さずに独りごちた。
「敵も平和ボケしたアホなのか? それとも、こちらの弾薬を節約させてくれる慈善事業か?」
戦場の基本中の基本だ。
数で勝るなら、一点突破ではなく、面で押し包むように展開しなければならない。狭い出口から少量ずつ出てくれば、そこを狙い撃ちにされて死体の山ができるだけだ。
敵の司令官は無能なのか、それとも、こちらの戦力を舐め腐っているのか。
どちらにせよ、好都合だ。私は、呼吸を整えた。
心拍数を落とす。風を読む。湿度を感じる。
私の手には、改造を施したコンパウンド・ピストルクロスボウがある。滑車の原理で強化された弦は、恐ろしいほどの張力で毒矢を保持している。
狙うは、ゲートから飛び出した直後。着地の瞬間。敵が最も無防備になる、コンマ数秒の隙。
私は、冷徹にトリガーを引いた。
バシュッ。
乾いた発射音。矢は音速に近い速度で空気を切り裂き、広場へと吸い込まれていく。
一匹目の狼型怪人が、地面に着地しようと膝を曲げた瞬間。その肩に、深々と黒い矢が突き刺さった。
怪人は、悲鳴を上げる間もなく、空中でビクリと硬直し、そのまま糸の切れた操り人形のように地面に崩れ落ちた。
即効性の神経毒は脳から筋肉への信号を一瞬で遮断する。
ズザァッ……。
怪人の巨体が地面を滑り、他の魔法少女たちの足元で止まる。彼女たちが「えっ?」と声を上げる暇もなく、私は次弾を装填した。
二匹目。トカゲ型。着地と同時に、胸板の厚い部分に矢が吸い込まれる。
ドサッ。
三匹目。熊型。咆哮を上げようと口を開けた瞬間、喉の奥に矢が飛び込む。
ガッ。
四匹目。五匹目。六匹目。私の作業は、機械的で、リズミカルだった。
装填。照準。発射。
装填。照準。発射。
ゲートから飛び出す。矢が刺さる。倒れる。ゲートから飛び出す。矢が刺さる。倒れる。それはもはや戦闘ではなかった。
工場での検品作業か、あるいは極めて単調なリズムゲームだ。広場にいた魔法少女たちは、完全に置いてけぼりだった。
彼女たちは、ステッキを振り上げ、必殺技の名前を叫ぶ準備をしていた。
だが、目の前の敵は、彼女たちがアクションを起こす前に、次々と行動不能になっていく。
彼女たちの顔から、戦意と緊張が抜け落ち、代わりに、困惑と恐怖が張り付いていく。ぽかんと口を開けたまま、空から降ってくる「動かぬ敵」を見上げているピンク色のドレスの少女。
構えた剣を下ろし、私のいるビルの方を呆然と見つめる青いドレスの少女。彼女たちの表情を、一言で表すならこれだ。
――ドン引き。
「……ふっ」
私は、口元を歪めた。ヒーローもののお約束?敵が登場して、名乗りを上げて、互いに睨み合ってから戦闘開始?
そんなものはテレビの中だけでやってくれ。ここは戦場だ。
敵が隙を見せているなら、その瞬間に殺す。それが、こちらの生存率を上げる唯一の方法だ。
「お前らは分かっていないようだが、これはルール無用の戦争なんだよ」
私が一人、高所からスナイピングを続けている間に、敵の先遣部隊である三十体近くが、広場に屍の山を築いていた。
敵の後続が、ゲートの奥で躊躇している気配がする。
当然だ。
出口が行動不能となった味方で塞がれているのだから。混乱している敵。そして、何が起きているのか理解できず、戦う機会を奪われて立ち尽くす魔法少女たち。
戦場の支配権は、完全に私が握っていた。
その時だった。ゲートの奥から、桁違いのプレッシャーが噴き出した。黒い渦が大きく広がり、空間を無理やり押し広げるようにして、巨大な影が現れた。
「……指揮官クラスか」
私はスコープの倍率を上げた。現れたのは、全身を黒い甲冑で覆った、身長三メートルほどの騎士型の怪人だった。
兜の隙間からは赤い眼光が漏れ出し、背中にはボロボロのマントが揺れている。
だが、私が注目したのは、その手にあるものだった。剣や槍ではない。
それは、太い鎖で繋がれた、棘だらけの「檻」のようなものだった。そして、反対の手には、捕獲用の網のようなエネルギーネットが握られている。
怪人騎士は、山積みになった部下の肉体を踏みつけ、広場に降り立った。
そして、管制塔にいる私を、正確には、矢が飛んでくる方角を指差し、割れ鐘のような声で叫んだ。
「オオオオオォッ!! 見つけたぞ、黒い悪魔め!!」
その声は、怒りと憎悪に震えていた。
「貴様だ! 貴様のせいで、我らの同胞は帰らぬ者となった! 貴様だけは、ただでは殺さん!」
怪人騎士は、檻を振り回した。
「捕らえろ! あの悪魔を捕獲し、我らの世界へ連れ帰り、永劫の苦しみを与えてやるのだ!! 総員、あの黒い女を狙え! 他の雑魚は捨て置け!!」
号令と共に、ゲートから新たな敵が雪崩を打って飛び出してきた。今度は獣人だけではない。空を飛ぶハーピー型や、壁を走る蜘蛛型もいる。
彼らの目は血走り、口からは泡を吹き、一心不乱に私の方を見上げていた。他の魔法少女たちなど、眼中にない。
彼女たちの横を素通りし、壁を登り、瓦礫を飛び越え、一直線に私を目指して殺到してくる。
私は、その光景を見て、冷静に分析した。捕らえろ、という命令。そして、あの檻と網。
つまり、敵の指揮官が持つ兵器は、対象を物理的に拘束しなければ効果を発揮しないタイプだ。遠距離からビームで消し飛ばすような広域兵器ではない。私に近づき、捕獲しなければならない。
「……どうやってヘイト(敵対心)を集めて引きつけようかと思っていたけど、手間が省けたな」
私は、クロスボウを下ろし、ニヤリと笑った。私のこれまでの「仕事」は、無駄ではなかった。彼らは私を憎んでいる。殺したいほど、いや、殺すだけでは飽き足りないほどに。
だからこそ、冷静さを失い、最短距離で突っ込んでくる。私の敷いたレールの上を。
「妖精、つかまっていろ。ここからは運動の時間だ」
私はマントを翻し、ビルの屋上を蹴った。眼下には、数百の怪物が私を殺そうと押し寄せている。
私は、彼らに背を向け、ビル群の奥へと走り出した。目指すは、私が事前に丹精込めて作り上げた、殺意の迷路、サンフランシスコの街。
私は、整然と立ち並ぶビルの谷間を飛ぶように駆け抜けた。アストラル体の身体能力をフル稼働させる。背後からは、地響きのような足音と、怒号が迫ってくる。
「待てェェェッ! 逃がさんぞ悪魔ァッ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
いいぞ。もっと吠えろ。もっと怒れ。怒りで視界を狭めろ。足元への注意をおろそかにしろ。私は、ある路地の入り口で、ふっと速度を緩めた。
追ってきた先頭集団、足の速い狼型や豹型の怪人たちが、私の減速を見て、好機とばかりに飛びかかってくる。
「もらったァッ!」
私は、振り返らずに、指先で空中のワイヤー線を弾いた。
ヒュンッ!
鋭い風切り音。先頭の怪人の首が、胴体から離れて宙を舞った。続く二体目、三体目も、次々と空中でバラバラになり、肉塊となって地面に転がる。
何が起きたのか?
後続の敵が足を止める暇もなかった。そこには、首の高さに、極細ワイヤーが張り巡らされていたのだ。アストラル体にのみ干渉し、カミソリのように鋭利な「見えない刃」。
全力疾走で突っ込めば、自らの運動エネルギーで切断される。
「ギャアアアッ!?」
「な、なんだ!? 見えない斬撃か!?」
敵が動揺し、足を止める。そう、そこで止まれば安全だと思ったか?
残念。そこは「足元」への警戒を怠る場所だ。立ち止まった敵の足元の地面が、ガバリと開いた。
アストラル体でアスファルトの路面に偽装されていた落とし穴。深さは五メートル。底には、無数の「返し針」がついた鉄串が、剣山のように植えられている。
ドサドサドサッ!
「グギャアアアアッ!!」
穴の底から、絶叫が響き渡る。彼らは即死はしない。そのように設計しただからだ。だが、返し針が肉に食い込み、抜こうとすればするほど傷口を広げる。そして、鉄串に塗られた強力な発痛毒が、彼らに地獄の苦しみを与える。
その悲鳴が、後続部隊の恐怖を煽る。
「ひぃッ……! こ、ここはヤバい! 壁だ! 壁を走れば安全だ!」
賢い個体が叫び、数匹がビルの壁面に飛びついた。蜘蛛型やトカゲ型の怪人たちが、垂直の壁を駆け上がり、私を頭上から強襲しようとする。
私は、走りながら、小さく微笑んだ。
「正解。でも、不正解」
壁には、ワイヤーはない。だが、壁面には、圧力感知式の板バネが設置されている。敵が壁に手足をかけた瞬間、バネが弾けた。
バシュッ! バシュッ!
壁の隙間、排気ダクトの中、壊れた窓枠の陰。死角という死角から、クロスボウの矢が射出される。
至近距離からの不意打ち。矢は正確に敵を貫き即効性の毒を注入する。壁を登っていた敵が、雨のようにボロボロと落ちてくる。痙攣し、白目を剥きながら。
私は、廃ビルの屋根に飛び乗り、振り返った。眼下の路地は、地獄絵図と化していた。切断された者、串刺しになった者、毒で悶える者。まともに動ける敵は、もう半分もいない。
それでも、指揮官の「捕らえろ」という命令と、私への憎悪に突き動かされ、彼らは肉の山を乗り越えて進んでくる。
「……執念深いな。嫌いじゃないよ」
私はマントを翻し、さらに奥へと誘導する。
「楽しいアトラクションでしょう? 入場料は、お前たちの魂だ」
その時後方から、場違いなほどに華やかな光が見えた。
「待って! 一人で行かせないわ!」
「私たちも戦う!」
「悪魔だけど、仲間を見捨てるわけにはいかない!」
魔法少女たちだ。彼女たちは、敵の群れが私を追って去っていった後、ようやく状況を飲み込み、慌てて追いかけてきたのだ。
正義感。責任感。友情。どれも立派な動機だ。美しい心だ。だが……。
「……馬鹿な奴らだ」
私は舌打ちをした。彼女たちは、空を飛べるのに、敵を追って地上を走ってきている。
そして、私が設置した「見えるワイヤー」を飛び越え、「見えないワイヤー」のあるエリアへと、無警戒に足を踏み入れようとしていた。敵と同じルートを。敵と同じスピードで。
次の瞬間。
バチンッ!
「きゃあああっ!?」
先頭を走っていたピンク色のドレスの少女が、何もない空中で足を引っかけ、派手に転倒した。
彼女が引っかかったのは、足首の高さいっぱいに張られたトリップワイヤーだ。そして、そのワイヤーは、連動式のトラップのスイッチだった。
ガシャコン。
頭上の看板が回転し、そこから大量の「粘着ネット」が落下してくる。
ベチャァッ!
「いやぁっ! 何これ!? ネバネバするぅぅ!」
「動けない! 助けて!」
後続の少女たちも巻き込まれ、団子状態になって転がり、網に捕らえられた魚のようにもがいている。さらに、網には遅効性の痺れ薬が塗布されている。
彼女たちは次第に力が入らなくなり、地面にへたり込んでいった。その光景を見て、私の肩に乗っていた妖精が悲鳴を上げた。
「あわわわ! ヒカリ! あの子たちが! 罠にかかってるよ!」
「言っただろう。足手まといだと」
私は冷たく言い放った。
「私の罠は、敵味方を識別しない。戦場において、『私は味方だから大丈夫』なんて甘えは通用しないんだ」
私は、もがく少女たちを一瞥した。
彼女たちは死にはしない。アストラル体は頑丈だし、私の罠は即死系ではないものが混ざっている。精々、数時間は動けなくなるか、全身が痺れて酷い筋肉痛になる程度だ。本体には影響すら出ないだろうな。
むしろ、ここで脱落してくれた方が、敵の攻撃を受けずに済む。
「良い教材だ」
私は言った。
「彼女たちは、身をもって学んだはずだ。戦場には、目に見える敵以外にも、致死的なリスクが転がっているということを。そして、無策で突っ込むことがいかに愚かであるかを」
私は、彼女たちを放置し、再び前を向いた。迫りくる敵の指揮官。その巨大な甲冑姿が、怒りに燃えて近づいてくる。
雑魚は大幅に数を減らした。残る雑魚を殲滅しつつあの大将首を狙うだけだ。
「さあ、クライマックスだ」
私は、クロスボウに、矢を装填した。えげつない毒を込めた特注品だ。私は、ビルの屋上で立ち止まり、マントを風になびかせながら、敵を見下ろした。
この「アトラクション」の最後を飾るに相応しい、絶望のフィナーレを演出してやろう。
私は、この戦場で、最も効率的で、最も残酷な支配者だった。




