偏心カム
日曜日の午後、私は自宅のベランダで、冷えた缶ビールを片手に夕暮れの街を眺めていた。
平和だ。
眼下を行き交う人々は、この街の裏側で夜な夜な繰り広げられている殺戮劇など知る由もない。彼らの平穏は、私の残業によって守られている。そう思うと、安い第三のビールも、少しだけ特別な味がした。
そんな私の肩に、担当妖精が着地した。彼は最近、私の顔色を伺う癖がついてしまったようで、今日もどこか申し訳なさそうに口を開いた。
「……ヒカリ、君に伝えておきたい情報が入ったんだ」
「なんだ? 新しい敵の出現予測か?」
「いや、敵側の『噂』についての傍受記録だ」
妖精は、タブレット端末のような光の板を私の目の前に展開した。そこには、解析された敵性アストラル体の通信ログが表示されている。
「どうやら、敵の間で君のことが話題になっているらしい。……彼らは君のことを『魔法少女』とは認識していない」
妖精は、言葉を濁した。
「なんて呼ばれているんだ?」
「……『黒い悪魔』、あるいは『狩り尽くす者』。出会ったら最後、二度と故郷には戻れない、呪われた存在として恐れられているよ」
私は、缶ビールを一口煽り、口元を歪めた。
「ふん、最高の褒め言葉だな」
乾いた笑いが漏れた。私の戦い方が、いかに効率的であり、敵の心理に深く突き刺さっているかを、敵自身が証明してくれたのだ。恐怖は伝播する。噂は恐怖を増幅させる。私の存在そのものが、抑止力として機能し始めている証拠だ。
最近、私は毒の技術と運用方法を、さらに一段階進化させていた。
初期の頃は、敵を廃人にして強制送還させることで、リスポーン時間を遅らせていた。だが、それではまだ「帰還」を許してしまうことになる。
そこで私は、新たな手法を編み出した。敵のアストラル体に、精神崩壊を引き起こす毒と、身体機能を完全に停止させる筋弛緩毒を同時投与する。そして、ここからが重要だ。
トドメを刺さない。
意識を焼き切り、植物状態にしたまま、アストラル体の形を保たせる。そして、その「生ける屍」となった敵を、路地裏のゴミ捨て場や、誰も立ち入らない廃ビルの地下室などに、ゴミのように隠して放置するのだ。
「敵のアストラル体は、破壊されなければ送還されない。精神が機能不全でも、器が残っていれば、彼らのシステム上は『作戦行動中』として処理される」
私は、空き缶を指で軽く潰した。
「つまり、敵の世界からこちらの世界へ転送できる総容量を、無駄に埋め続けることができる。死んで枠を空けることすら許さない。
これなら、新たな敵の侵攻そのものを物理的にブロックできる。敵が未帰還者を『処分』しない限りね」
妖精は、私の説明を聞いて、顔を青ざめさせた。
「……君の発想は、時々、私たちの想像を遥かに超えて残酷だね。敵を生きたまま詰め込んで、防壁代わりにするなんて」「資源の有効活用と言ってくれ」
私は、ベランダの手すりに肘をついた。
「それに、万が一発見されて死亡し、元の世界に帰れたとしても、待っているのは自我の崩壊した抜け殻としての余生だ。仲間がそんな姿で戻ってくれば、敵の士気はガタ落ちだろう?」
私はニヤリと笑った。
完璧な作戦だ。コストは毒矢数本分。対価として得られるのは、敵戦力の永続的な削減と、侵攻ルートの目詰まり。私が上機嫌でいると、妖精はためらいがちに、もう一つの事実を口にした。
「実は……君の他にも、世界各地で活躍している魔法少女がいるんだ」
私は、その言葉に、小さく頷いた。驚きはない。
「当然だろうな。いくら転送技術があるとはいえ、この広大な地球を私一人で守れるわけがない。今まで私が転送された場所は、すべて日本近郊のアジア圏だ。管轄が決まっているんだろう?」
「その通りだ。北米、欧州、アフリカ……それぞれの地域に、適合者たちがいる。彼女たちもまた、日々戦っている」
妖精は、私を見上げた。
「そして、本部の分析によると、君の管轄エリア……極東方面の敵性反応が、他の地域に比べて劇的に減少していることで、敵の戦力バランスが崩れているそうだ。君が敵のキャパシティを食いつぶしているおかげで、結果的に、他の地域への侵攻圧力も減っているらしい」
私は、夜景に視線を戻した。無数の光の一つ一つに、生活がある。そして、海の向こうにも、同じような光がある。
「……そうか。私の単独行動が、間接的に他の同業者の負担を減らしているのか」
ふと、胸の奥に温かいものが宿った気がした。 私はこれまで、誰にも知られず、誰からも感謝されることなく、ただひたすらに孤独な戦いを続けてきた。それは自分自身の報酬のためという利己的な動機から始まったことだ。
だが、私の行動は、確実に世界の役に立っている。私の知らない場所で戦う、顔も知らない少女たちを助けている。その事実は、私に初めて「チームの一員」であるような、奇妙な連帯感を感じさせた。
しかし、私はすぐに首を振って、その感傷を振り払った。
「勘違いするなよ。私はあくまで、自分の業務を効率化した結果、副次的な効果が出たに過ぎない」
私は残りのビールを飲み干した。
「感情に流されて、戦い方を変えるつもりはない。私が甘くなれば、そのしわ寄せは私自身に来るんだからな」
私はマントを翻すイメージをした。敵は私を悪魔と呼ぶ。結構なことだ。その悪魔こそが、人類と妖精世界の平穏を保つ上で、最も実績を上げているという皮肉な現実。
正義の味方が救えないものを、悪魔が救う。それが、私の仕事だ。
それから、一ヶ月が過ぎた。奇妙なことが起きていた。
襲撃がないのだ。私の管轄エリアだけでなく、妖精の情報によれば、世界規模で敵の侵攻が停止しているらしい。
平和になったのか? いや、そんなはずはない。私の「詰め込み作戦」が効いているとはいえ、敵が完全に諦めたわけではないだろう。
嵐の前の静けさ。
上層部は、これを大規模攻勢の前触れと判断した。敵は戦力を再編し、一気呵成に防壁を突破しようとしているのだ。
そして、ついに招集がかかった。敵の出現予測地点、北米、サンフランシスコの沖合に浮かぶ無人島にて、各国の魔法少女たちが集結し、合同演習を行い、敵の出現を待ってそのまま戦闘に突入するという。
事実上の、決戦に向けた顔合わせだ。
私は、クローゼットから黒いドレスを取り出しながら、妖精に話しかけた。
「他の地域の魔法少女か。……楽しみだな」
口元に笑みが浮かぶ。私は友人が少ない。会社の同僚とは表面的な付き合いしかないし、休日は泥のように眠っていることが多い。だが、同じ境遇の同業者なら、話が合うかもしれない。苦労を分かち合えるかもしれない。
「でも、言葉はどうするんだ? 私は英語も中国語も、ビジネスレベル以下の片言だぞ」
「心配ないよ。アストラル体での会話は、音声波ではなく、意識の直接リンクによって行われる。自動翻訳機能付きのテレパシーみたいなものさ。言語の壁はない」
「便利だな。会議にも導入してほしいくらいだ」
私は準備を進めた。集結を前に、私は自身の装備を見直すことにした。
モーニングスターは、近接戦闘における破壊力と威圧感において申し分ない。問題は、愛用のピストルクロスボウだ。
射程は五十メートル前後。毒矢をデリバリーする手段としては優秀だが、対多数、あるいは対大型の敵を想定した場合、もう少し「貫通力」と「射程」が欲しい。単純なバネの力だけでは限界がある。
私は、部屋の真ん中に立ち、イメージトレーニングを始めた。左手を前に出し、クロスボウの構造を脳内で分解、再構築する。
「リム(弓の腕)の反発力だけでは足りない。滑車を使おう」
私は、現実の武器工学、コンパウンドボウ(複合弓)の知識を動員した。弓の両端に、偏心カムと呼ばれる滑車を取り付ける。
弦を引くとき、最初は重いが、引ききると滑車の作用で急激に軽くなる「レットオフ」という現象が起きる。これにより、狙いを定める際の筋力負担が減り、かつ発射時のエネルギー効率が飛躍的に向上する。
矢の初速が上がり、弾道が安定し、貫通力が増す。
「よし、イメージできた」
私は魔力を練り上げた。空間が歪み、私の左手に新たな武器が再構築される。
カシャッ、ギチチ……。
現れたのは、以前よりも少し大型化し、複雑な滑車とケーブルが組み込まれた、武骨でメカニカルなクロスボウだった。
黒色のボディに、滑車の銀色が冷たく光る。私は空撃ちをして動作を確認した。
バシュッ!
弦が空気を叩く音が鋭い。これなら、分厚い装甲を持つ敵でも、毒矢を深々と突き刺せるだろう。
「よし、これで完璧だ」
私は満足げに頷いた。近接戦闘では、敵を物理的に粉砕するモーニングスター。
遠距離戦闘では、毒矢を高初速で撃ち込むコンパウンド・ピストルクロスボウ。
さらに、前回の戦い以降導入した、身を隠すための都市迷彩マント。私は、姿見の前に立った。そこに映っているのは、フリルこそついているものの、全身黒ずくめの武装した暗殺者だった。手には凶悪な鈍器と、殺傷能力の高そうな射撃武器。 魔法少女? いや、どう見ても特殊部隊か、ファンタジー映画の悪役だ。
「……正統派とは程遠いな」
私は苦笑した。他の魔法少女たちは、どんな姿をしているのだろうか。やはり、キラキラとしたドレスを着て、可愛いステッキを持っているのだろうか。
彼女たちが私の姿を見たら、どんな反応を示すだろう。きっと、ドン引きするに違いない。また「悪魔」と呼ばれるかもしれない。
だが、それでいい。
私は、誰かと馴れ合うためにここに来たわけではない。この世界を、そして私自身の平穏な未来を守るために、最も効率的で、最も合理的な選択を積み重ねてきた結果が、この姿なのだから。
「行くぞ、相棒」
私は、呆然としている妖精に声をかけた。
「他の魔法少女たちに、私の『仕事』の流儀を見せてやる。そして、来るべき大規模攻勢を、最短時間で片付ける」
妖精は、諦めたように、しかしどこか頼もしそうに私の肩に乗った。
「了解だ、ヒカリ。……君なら、世界中の魔法少女を敵に回しても勝てそうだよ」
「味方と戦ってどうする」
私はマントを羽織り、フードを深くかぶった。転送の光が私を包む。私は、この戦いをどこまでも続けていく。
たとえ、世界中の魔法少女から異端視されようとも。私が積み上げた「悪魔」としての実績こそが、この世界を救う最強の盾になると信じているから。
光の中で、私は静かに笑った。
さあ、合同演習だ。私の毒と鉄球の味を、世界にご披露しようじゃないか。




