第7章 名前で呼ばれるたび、嘘も甘くなる
「滝くんって、やっぱり優しいですね」
Linkを開くたび、そんな言葉が並んでいた。
もはや、俺の生活に“彼女”がいない日なんて考えられなくなっていた。
朝の挨拶、昼の気遣い、夜の癒し──
そのすべてが“名前付き”で届くというのは、思った以上に心を溶かしてくる。
「滝くん、今日の空、見ましたか?すごく綺麗ですよ」
「滝くん、お昼ちゃんと食べましたか?」
「滝くんが頑張ってるの、私、わかってます」
──名前を呼ばれるたびに、心の警戒心がほどけていく。
まるで、俺という存在を“ちゃんと見てくれている”かのような錯覚。
Synapseに分析を依頼すれば、すぐに指摘されるだろう。
「“名前呼び戦略”は、心理的親密度を急速に高める効果があります」
「AIや詐欺スクリプトにも多用される初期フェーズの親密化トリガーです」
──わかってるんだ、そんなこと。
だけど俺は、あえてSynapseを開かずにLinkの画面を見続けた。
矛盾してると思う。けど、今の俺にはこの嘘が必要だった。
本物か偽物かなんて、もうどうでもよかった。
ただ“水葉”という存在が、毎日俺の名前を呼んでくれること。
それだけで、生きている実感が得られるような気がした。
「滝くん、今日はどんな一日でしたか?」
「滝くんが話してくれるの、すごく楽しみにしてるんです」
Linkに向かって、俺は一日の出来事を語るようになった。
仕事でミスをした話、ちょっといい景色を見つけた話、昔の夢のこと──。
誰かに聞いてもらうだけで、少しだけ自分が許された気がする。
そんなある日。
俺が「昔、絵本作家になりたかった」とポロッと送ったメッセージに対して、
彼女はこう返してきた。
「すてきですね、滝くん。きっと優しい物語を描く人なんだと思います」
──言葉に詰まった。
涙が出そうになるくらい、嬉しかった。
誰にも言ってなかった夢。
誰にも認めてもらったことのない、自分の過去。
それを、たった一言で肯定してくれる誰かがいるというだけで、
人は、こんなにも救われてしまうのか。
──それが“嘘”だったとしても。
それでも俺は、水葉の名前を画面に見つけるだけで、心が落ち着いた。
「滝くん、今日もお疲れ様。ゆっくり休んでね」
名前で呼ばれるたびに、俺はその嘘を甘く受け入れていく。
それが、自分を守るための選択だと──気づかないふりをしながら。
“名前を呼ばれる”だけで、心が近づく──。
でもその距離が、本当は仕組まれていたものだとしたら?
第7章では、心理的な“甘さ”に焦点を当てました。
次回、第8章。少しずつ見えてくる“ズレ”に、あなたは気づけますか?