桜の影を追って
「──ゴズさん、頼みます!どうしても明後日までにこのピアノが必要で!王城のピアノが運搬の際の衝撃でダメになってしまって...明日までには万全の状態にしておく必要があり、警備の面からも時間が──」
「いや、アンタらも音呼びの仕組みは理解してるだろう。コイツはもう主人が決まっちまってるんだ。他のヤツが弾いたってうんともすんとも言わねえよ」
家に着くと、ソワレは店の裏口から。俺は表口から再度店内に帰ってきた。見慣れない装いの人だかりが店の前に集まっていた為だ。
彼らは──王城の兵達だろうか。何やらゴズに嘆願している。買ってきた荷物をテーブルに静かに置きながら様子を伺う。
「そこをなんとか!ルクセリア一番の腕利きとなると此処しか…!!」
「いや、そこをなんとかって言う話しじゃ…。アンタ達もそろそろ楽器の仕組みについて覚えて──」
「では、その主人と一緒に王城へ!」
「それは無理だって──!だぁから何度言えば──」
そういう事か──二人にこれ以上迷惑をかけたくない。
それにせっかくの時間を邪魔されたく無かったし、いずれは王城に向かうのだから──。
「──わかった。ゴズ。受けてくれて構わない」
「おいちょっと待て奏梛!あんた達も落ち着いて──」
ゴズは驚いた表情で此方と兵達に視線を行き来させている。
俺の事情を知っている為、おいそれと送り出すことが出来ないし──何より王城には行かせられない、と思っているのだろう。
あそこには彼女がいる。
「…おお!あなたが、この楽器の主人でいらっしゃるのか!?なんと幸運!居合わせてくれたのも、リュドミラの天啓です!では早速明日の朝一番で楽器を運ばせ──」
すると間髪入れずに奏梛は指示を出し、淡々と──何処か冷たくも感じる声音で続けた。
「いえ、楽器は此方で運びます。明日の朝、此処から王城まで運びましょう。大丈夫です、約束の時間にはしっかりと演奏できる状態にしておきますから」
「おお!それであれば明日の朝迎えを寄越しましょう!」
「いえ──結構です。此方でどうにか出来ますので、今日のところはお引き取りを」
兵達は奏梛の少しばかり冷たい声音に言葉を挟む余地も無く、頭を下げると胸を撫で下ろしながら店を後にした。
▼△▼△
ゴズは、俺の顔をなんとも言えぬ表情で、言葉を選んでいる様だった。
どうして王城に自分から向かう様な事をするのか、と──。
当然、ゴズとソワレであれば思う事だ。階下の騒がしさに先に二階へ上がっていたソワレも心配そうな表情で様子を見に降りてきた。
少しの沈黙の後、俺は冷静に返事をした。まるでなんでもない、と言わんばかりに。
そう、いずれ決めないといけないのだから。
「…なんか騒がしかったけど...大丈夫?」
「──ああ、問題ないよ。ほらゴズ、食事にしよう」
「…わかったぜ」
だが言葉とは裏腹に三人は静かに各々が顔を伏せて沈黙が続いた。当然だった。
城には彼女がいるのだ。おいそれと送り出すこともできない。ましてや、会うことを禁じているのだから──。
しばしの沈黙を、意を決して突破したのはソワレだった。
「ほら...!ソウナが今日は主役なんだよ?アタシ達がシャキッとしなくてどうするの!」
「ソウナ、お前──」
「構わないんだ。ゴズ、ソワレ。そんな顔をするな。俺がこの国を訪れたって事は大体の察しもついているだろう。いずれ王城には向かわないといけない。遅いか早いかの違いだけだ」
▼△▼△
その日の夜は、ソワレが腕によりをかけて豪勢な食事がテーブル一杯に並び、杯を交わした。ここまで、気を休めて過ごせた夜はここ十年なかったと、三人は夜遅くまで話が尽きることはなく、最後には皆がテーブルに付したまま朝を迎えた。
翌朝、俺は誰よりも早く目を覚ますと王城に運ぶ予定のピアノの調律を確認する為、階下に降りて楽器をチェックする。
この世界には楽器奏者が少ない。
理由は、主に二つ。一つは楽器の適正がある者が非常に少ないことが理由だ。この世に生を受けて、十七歳を迎えるまでに自身の「脈の色と式」が顕現できなかった者は楽器の奏者としての適性を大きく失ってしまう。
二つ目は「音呼び」だ。
これは、自分の脈を発現できた者は楽器の前でその力を纏うことで適正のある音色や楽器が、その主人に呼応する様に旋律を奏でるのだ。楽器が奏者として主人を選ぶ、とされているのだ。選ばれなかった楽器を手に取ったとしても、殆どが音色を紡ぐことはなく、ただ擬音を上げて軋むのみ。この辺りについてはルクセリア自体にも根付いたばかりの文化ではある為、研究がなされているが、一般的な常識としてこの二点が挙げられている。
俺は一通り楽器の状態を確認しながら軽く試奏をすると、旋律が窓から差し込む日差しと共に、静かに響いた。二階ではソウナが奏でた音色に気付き、ソワレとゴズが目を擦りながら降りてくる。
「おはよ…ふぁ…っくううう」
「二人とも、昨日はよく飲んでたな。酒は抜けてるか?」
俺は笑いながら二人の方を見て、手元の旋律はそのままに言葉を続けた。こんな朝を迎えるのは何年ぶりだろうか──。
「それがあんなに飲んだのにスッキリっていうか…?ゴズが調律したのかな…?」
「いや、俺の方でやっておいたんだ。どうだ?問題ないか?」
「えぇ?!ソウナが調律してくれたの!」
「ふぁ…っくあ…おかげで通りで体が軽い訳だぜ。ありがとよ」
「これくらい泊めてもらってるんだ。いくらでもするさ。それに此処は楽器もあるし媒介があるからな。体への負担も小さくて済む。ソワレ、無理はしてないから安心しろ」
「──聞く前に言われちゃった…わかった!ソウナがそう言うなら信じるよ!ご飯つくるね!」
「よし、俺も色々と準備始めるか…!」
二人の様子を見て俺は演奏を止めると、ソワレが名残惜しそうに階上から顔をまた覗かせた。
「ねぇ、ソウナ!辛く無かったらで良いんだけど…そのまま何か弾いててくれると嬉しいな!音楽があると朝の準備も調子が出るっていうか──」
「構わないさ。もう少しコイツのチェックもあるし…少しうるさいけど我慢しろよ?」
「うるさくないもーん!」
そういうとソワレは嬉しそうに体を二階に引っ込めて鼻歌を歌いながら準備を始めた。ゴズもパレード用の楽器達のチェックのために調律師達が集う、慰霊碑の近くに「式」を行いに行くと言って家を後にした。
▼△▼△
俺は途切れ途切れに旋律を紡ぎながら、ピアノの調律を続けている。
このピアノは俺の為に彼女が用意してくれたものだった。王城で使うとなると、俺の「蒼い脈」に波長を合わせているのだ。人目に触れない様に「色」を隠す必要がある。ゴズとソワレは事情を知っているから二人の前でなら──顕現出来るのだが。この世界には失われた色に対する偏見は根強いのだ。大騒ぎになってしまうのは得策ではない。それに──この国の女王も、それは望むところではないはずだ。
だが──俺はゴズとソワレの家にいるという事で少し安心し切っていたのかもしれない。先程ゴズが出て行った入り口の戸は開いたままだったのだ。店の前に人の気配を感じて直ぐに調律を取りやめた。入り口の扉を閉めようと扉の近くに行くと、そこに──一人の黒髪の女性が佇んでいた。
「奏梛…様──?」
「──玖我音…」
黒髪の女性は、此方を見て言葉に詰まっている。
いや、かつての主人の変わらぬ姿に、感極まり喉上まで上がってくる言葉達を選別し、相応しくない──と飲み込むのを繰り返しているのだ。今までにないほどの静寂が店内に広がったが、それは俺も同じだった。
「…まさか、お会いする事が叶うとは…思ってもいませんでした。奏梛様…息災でありましたか──」
玖我音は言葉を震わせながら静かに呟いた。
十年前彼女を眼前の主人から託された玖我音は、言葉がうまく続かなくもどかしい。だがそれは目の前のかつての主人も同様だ。見えない壁の様なものをお互いに感じている。かつてはあれほどまでに近しい存在であった筈なのに──十年という時間が二人の間に瓦礫を積み上げた。
「玖我音…なぜ此処に?」
「はい…王城で使用するピアノに不備があると聞きました。それがわずか一日で代替の楽器を調達できたと兵達が騒いでおりまして…気になってその調律師を──と思ったのですが…彼らの店ならば安心というものです。それに──蒼の脈の反応を確認したのでまさかと思い…」
「見られたのがお前で良かったよ。俺も気が抜けていた。ゴズとソワレとは上手くやっているのか?」
「いえ…その──申し訳ありません…あれ以来顔を合わせておらず…もう十年になります」
玖我音は何処か申し訳なさそうに、瞳を伏せて此方に頭を下げた。
「玖我音、顔を上げてくれ。俺はもうお前の主人ではない。俺のわがままをお前に一方的に押し付けたのだからな。寧ろ恨んでいるのではないか?」
「どうして…その様なことを仰るのです…!私は奏梛様に全てを預けている身である事は変わりありません…!時間が経とうともこの身は全て──!」
「玖我音、俺はもう剣聖ではないんだ。ただの奏梛、だ」
「奏梛様…!その様な事──!!」
「玖我音、もう終わった事だ。俺たちもこの国の様に前に進まないと行けない。それに──俺は諦めてなどいないぞ?」
「それは一体どういう──」
「立ち話もなんだ。ソワレも喜ぶ。上がって行ったらどうだ?」
「いえ──私は…今日の所はこれで失礼いたします」
すると階段からソワレが物音を確かめに降りてきた。懐かしい顔ぶれが階下に揃っているのを確認すると、ソワレはすぐに表情を緩めたが何処かぎこちない様子だった。
「…クガネッ!久しぶり…!だね…しばらくぶり、だよね…王城の仕事はもう──って、流石に手に馴染んでるか…」
「ええ…ソワレ様も変わらずでしょうか…色々な偶然が重なって──お店ができたお話は聞いていました。あれから此方に寄ることが出来ずに申し訳ありません」
玖我音はまた深く頭を下げるとソワレに謝罪した。
「い、いいっていいって!久しぶりに会ったんだし…そっか…。私たちは上にいるから──何かあれば呼んで?奏梛、朝ご飯もう出来るから終わったら上がってきてね」
「──ああ、ありがとう」
「玖我音…建国パレード中の多忙な所を邪魔したな」
「その様なお言葉…!奏梛様、ピアノは私が運びます。お身体に触ってはいけませんので。それと──このピアノを持ち出す事を許可されたのであれば、明日の式典では奏梛様が演奏されるのでしょうか?」
「まぁ…そうなるな。ルクセリアにも会っておきたい。それに──志弦の事もある」
「分かりました。明日のパレードで…お待ちしております」
玖我音はそう言うと手際良くその場に兵達を直ぐに呼び出すと、ピアノを王城へ運ぶ為に店を後にした。
▼△▼△
「奏梛!その曲は?新しく作ったのー?」
「──いや...思いついたままに弾いてただけだ」
「ねぇ、今のもう一回弾いて!」
「...こうか?」
「さっきとちっがーう!もっと優しくて──」
「あぁ?こうじゃなかったか──?」
「どんどん変わっていってる!んもーこんな感じでー」
「そう!それ!それだよ!!今の忘れないでよ!ふふっ...これで明日の建国祭には間に合いそうだね!やっぱり私って天才だな──ってまた変わってるよ!んもー」
聞こえない筈の声が、何処からか響いた様な気がした。
▼△▼△
「ソウナー!朝ご飯冷めちゃうよーう!」
「あぁ済まない!今行くよ!」
テーブルにはこの短時間で用意したとは思えない品数が並ぶ。焼きたてのバゲッドに鶏肉を煮込んだ野菜のスープ。果実の実を細かく刻んだ紅茶にとまるで王城の貴族の暮らしの様な朝食が並ぶ。
「────ちょっと頑張りすぎちゃった」
「こんな豪華な朝食を朝から食べられるなんてゴズは幸せだな」
ソワレは「全くだよ」と言いながら紅茶を飲み深く頷いている。
「玖我音、変わってなかったね。あの頃のままだった──何もかも」
「アイツには俺の色を分けたからな…その影響もある。特に翠緑は癒しの力だ。志弦に──何かあった時にと、備えたものだ」
ソワレは少し眉を顰めた様に見えたが、直ぐに優しく微笑みながら続けた。
「初めて──志弦ちゃんの名前、呼んだね」
「言葉にしてみると──勇気のいる言葉だったんだ。避けているわけでは決してない」
「まさか。そんな事思ってないよ。私達も──勇気のいる話題だったの。ソウナが口にしてくれて、少しまた話しやすくなったよ…ありがとう」
「────」
「ソウナ──後悔、してるの…?」
「────」
「分からない…分からないんだ。俺は十年──あいつを探し続けてきた。それに志弦の事だって一度たりとも忘れた事はない。毎日──あの時の光景が目に焼き付いて離れなかった」
「でも──?」
「ある時アイツが夢に出てきてな…。夢の中でこっ酷く説教されたんだ。何時まで後ろ向きに生きるつもりなのかってさ。アイツらしいよ…それに、志弦は俺が護るって決めた。何に変えてもな。そこはブレてない。だがアイツも色持ちなんだ。一六を迎えるまでは──」
「ソウナ──はいっ!!」
「ソワレ?」
「眉間に皺がよってる!私だってまだ整理ついてない。でも──志弦ちゃんの話をする時は優しい顔で話したい。私にだって──どんなに辛い状況でも笑いかけてくれてた。なんだか今のソウナ…昔よりも人間味があるっていうか──悪くないけど、なんでも噛んでも抱え込みすぎなのは変わってない。せっかく帰ってきたんだよ?ソウナの事だもん。何か方法を見つけたからルクセリアに帰ってきたんでしょ?」
「ソワレ──あの少女がこんな成長するなんてな」
「あぁー、ちょっとバカにしてるでしょ」
ソワレはバゲッドを頬張りながら口元を膨らませている。
本当に、この子は明るくなった。これが元の彼女の本質なのだろう。
何処までも明るく前向きで──慈愛の精神も併せ持っている。
何処か──アイツに似ているところがあるな、と感じた。
「いや本当に──ゴズとソワレは俺の恩人でもあり、友人でもあり、大切な家族の様な存在なんだ。二人がいるから…俺は今日此処に居るんだ」
「ソウナ、それは私達もだよ…貴方がいなければこの国は…ソラリスの手で滅ばされていた。でもそれを救ったのは──誰がなんと言おうとソウナ。貴方なんだよ。あれから──剣聖の事を悪く言う人も確かに居たよ。この国に災害だけをもたらしたって──。でもソウナがどんな人間かって事、私達はよく分かってる。それは志弦ちゃんにだって必ず伝わる。そばにいる事だけが護る事じゃない。一番辛い道を一人で行くと決めたソウナの──私とゴズは味方なんだから」
「ありがとう──ソワレ」
「ご飯食べたらさ、ゴズのとこにも朝食持っていってあげようと思うんだ。ちょうどさ──慰霊碑の近く…なんだ」
「──分かった」
俺の表情が一瞬変わった事をソワレは見逃さなかった様に思う。けれども彼女は言葉にしてくれた。前に──進む為に。
ソワレと朝食を済ませると、俺たちは旧ルクセリア市街地跡へ向かった。
▼△▼△
旧ルクセリア市街地跡──。
かつての破壊の残滓がまだ残るこの場所は、十年前に「ソラリス空中浮遊国家」との戦により、大きな打撃を受けた地域だった。その北端に位置する慰霊碑には、一つだけ──大きく桜の紋様が刻まれた、大きな宝玉を模した杖が慰霊碑と共に刺さっている。
十年、野晒しになっていたとは思えない程、杖の先端の宝珠は美しく夕陽を反射しており、過ぎ去った時間を忘れないように──語りかけてくる様だった。
ここに来るのはいつぶりだろうか?明日のパレードを控えて都市全体が浮き足立つ中、此処だけは風が強く都市全体の明るい雰囲気とはかけ離れている。パレードが行われる「節目」となった者達が眠る場所。
十年。人が変わるには十分な歳月。誰にとっても本来「時間」は平等な筈。時間の感覚を「奪われた」俺には、つい昨日のことの様に──ここに眠る者が、心に鮮烈に刻まれ──いや、焼き付いている。
それは、劫火で焚べられた鮮烈な過去。強く吹き抜ける風は思い出までは運んでいかない。この世界を吹き抜ける風はいつだって生命しか運ばないのを俺は知っている。
「おーい!ゴズー!お弁当持ってきたよー!」
「おぉ、二人でわざわざ来てくれたのか!すまねえな!」
「今日はねぇ、ソウナも手伝ってくれたから豪華だよぉ!」
「俺は何もしてないよ。ほとんどソワレがやってくれたんだ。さすがだよ」
「当たり前よ!ソワレの飯はこの国でも一二を争うくらいなのは間違いねえ!もう直ぐ終わるから、ちょっと待っててくれ」
そう言うとゴズはまた、海岸に向かうと白い脈を顕現させ始めた。同じ様に調律師達が、脈をゆっくりと顕現させながら治療式に似た式を行いながら何度も、辺りに自信の脈を飛散させている。
粒子状の白い脈はまるで真夏の雪の様に、朝日に照らされながら輝いている。
「ソワレ──ゴズは何をしてるんだ?」
「────」
「そっか──。ソウナ知らないもんね。此処はさ、胡桃さんが残した宝珠の影響でね。浄化された脈がこの周囲に集まる様になったの。調律師は楽器を媒介に白い脈を扱うでしょ?ここで式を使って、体内の龍速を整えると脈の調子がすごく良くなるんだって。ソウナ達のおかげだよ」
「そうか──龍速の概念まで根付いてるのか。まるでリドウみたいだな」
「ううん、リドウみたいに戦いになんて応用しない。私達は毎日をほんのちょっとだけ豊かにする為に使うの。笑って生き行く為に。リドウじゃこうはならないでしょ?あ、こんな事言うとゲンティアに怒られちゃうかな…」
「ははっ…ゲンティアなら言いかねないな──妾をまるで戦闘狂いの様に揶揄する等──とかな」
「ふふっ…ゲンティアさんも、まだいるんだよね?」
「あぁ…かなり長い眠りについて入るが生きている。安心しろ」
「うん、良かった。一時期は体を開け渡してどうなるかと思ったのに意外に優しくてさ──剣聖に従う神の骸──神骸か…本来はお伽話の中の人たちの筈なのにさ、あんな風に笑うんだもんなぁ…ずるいなぁ…」
「─────」
「ソワレ──」
「ごめん……ソウナ…やっぱり此処に来ると色々思い出しちゃうかも…いつもはゴズには、お弁当届けないんだ…此処に、来るのが…怖くて…」
最後の言葉は風に消え入りそうな程に小さかった。大粒の涙が頬を伝っている。だがソワレの表情は何処か笑っている様な──優しげな表情のまま静かに雫を溢している。
「あんまり…泣いてばかりじゃ、今度は私がクルミさんに怒られちゃう…」
「そうだな──会いたいな、もう一度」
「うん、会いたいよ…」
俺は箱の中から、花弁を慎重に掬い上げると、静かに目を閉じて脈を伝わせる。両の手に包まれた花弁は、不思議な輝きを纏うと慰霊碑の周りを、その手を離れ舞い出した。
もうこの世界には存在しないその花弁達は、俺の力で当時のまま保存し続けていたものだ。太陽が花弁を照らし複雑な色味を纏いながら辺りを舞い踊っており、波の音はいつもより大きい。遠目から見ると、とても幻想的な光景が広がっていただろう。ゴズと共に式を調整している他の調律師達も、静かにその光景に黙祷した──。
「──十年経っても...此処は綺麗なままだ。ゴズに頼んで手入れしてくれていたのか?」
「──ねぇソウナ……私達、ゴズも含めて…クガネもそう。皆、過去に囚われてる。もう、そろそろ向き合っていかなくちゃいけないんだよね。だから、ソウナが帰って来てくれて、良かった。クルミさんも喜んでくれてる。それに…十年顔を見せずに、久しぶりに会ったと思ったらそんな顔じゃ、ね…?──胡桃さんだって志弦ちゃんだって笑って...くれないよ...」
ソワレの言葉を風が勢いよく凪いだ。だがその言葉は書き消えずに確かに俺の耳に、その奥に心に届いた。そう──俺たちは前に進んでいかなければいけない。悠久の時を与えられた自分の存在故に忘れてはならないと──意地になり、どこかで、本当に向き合うことから逃げ続けていたのかもしれない。
「ソワレ...俺は、あの時──ソラリスを滅ぼすべきだったか──?」
「わからないよ...でも...わたし…あの時何も出来なくて...でもどういう選択をしたとしても、ゴズも私も──奏梛の味方なのはかわらないよ──」
「────────」
「ごめん、ね...わたし...あの時何も力になってあげられなかった...ごめんなさい──」
必死に堪えても、どうしても涙は溢れた。
もう絶対泣かないって決めていたのに。
止まれって、何度も心の中で叫んだのに。
泣きたいのは彼だってそうなのに。
私ばっかりいつも涙が止まらなくて──。
奏梛の背中越しで泣きながら──今は亡き胡桃の面影が、涙の裏側の世界で交差していた。舞い散る桜の花弁が──慰霊碑の碑文を優しくなぞった。
「剣聖と対等に肩を並べて戦った者達へ。その者達への想い。その者達が描いた想い。全て私が龍還し抱えていく。私達は石畳を積まずに地に足をつけて、人としての生に拘る事を決めたのだから」
▼△▼△
その夜、三人はいつもの様にテーブルを囲み、食事をしながら遅くまで胡桃の事を思い出し、笑い、そして泣いた。十年前は出来なかった事。十年経ったからこそ出来る事。時間が経つ事で、風化せずに受け止める準備が出来た三人は、思い思いに当時を語り明かした──。