第二節 そして、幕が上がる ①
それから、十年の月日が流れた。
「……良い香り──今年もたくさん咲いたものだわ」
季節は春。ヒルデブラント王国の首都郊外には緑豊かな平地が広がっており、とある旧家の所有地には、築数百年ほどの情趣ある屋敷が建っている。
その中庭に、ユリア・ジークリンデは立っていた。リボンタイが付いた薄手かつ長袖の水色のブラウスと濃紺のジーンズというシンプルな服装で佇んでいる。彼女の周辺には、綺麗に整えられた花壇と、そこに植えられた花々が咲乱れていた。
ユリアの見た目は、十年前となにひとつ変わっていない。だが、性格や外見の印象はずいぶんと変わった。春のような温かさと爽やかさを感じさせる雰囲気を漂わせ、余裕ある明るい微笑みを自然に浮かべることができている。かつては薄暗い表情をしていたが、現在は優美さを感じさせる佇まいである。
十年の時が過ぎたことで、ラウレンティウス、アシュリー、クレイグ、イヴェットの四人も成人した。今では、それぞれが選んだ道に進んでいる。イヴェットはまだ学生だが、それでも二年ほど前と比べると、ユリアとアイオーンが住む屋敷を訪ねてくる回数は大きく減った。それは、ほかの三人も同様だ。
「ユリア」
後ろから聞こえてきた男の低い声に、ユリアは微笑みながら振り返る。
「あら、アイオーン。おかえりなさい」
そこには、臀部を覆うほどに長く、毛先がうねった銀色の髪と深紅の目を持った男がいた。
外見年齢は、二十代後半から三十代前半ほど。黒のスラックスを穿き、ボタンをふたつ外したグレーのワイシャツの胸元から見えるのは、男らしい筋肉質な身つき。そして、思わず感嘆のため息が出てしまうほどに美しくも凛々しい男性寄りの顔を持っている。
人の姿をしていても、この者は人間ではない。そして、性別という概念を持たない。人間のカタチを持った星霊である。それでも、アイオーンは人間の男のような振る舞いを見せている。本人曰く、この振る舞いのほうが自分の感覚に合っているのだという。これでも歴史に存在したと残されている『神のような力を持った大星霊』なのだが、そのような雰囲気は一切感じない。
「『器』の定期メンテナンスはどうだった?」
「特になにもなかった。だから、魔力剤を注射してもらって帰ってきた」
現在の彼の身体は、現代の人間たちと共同で作り出された『器』だ。
大気中の魔力が少ない環境下でも星霊の核が消滅することなく、かつ人間としての姿を作り出して生きることができる代物である。内部構造は人間とは違い、消化器官や排泄器官、性差のある器官などは存在しない。
しかし、人間と同じく五感を持っており、食事を楽しむことが可能だ。消化は『器』に刻まれた術式で行われる。
星霊の核が消滅しないようにするためには、大気中に漂う魔力だけでは足りないため、外部からの定期的な供給が必要だ。その方法は、定期的に魔力を含んだ薬品を投与するか、食事をとることである。そんな生命の維持に必要不可欠な魔力の消費を抑えるには、極力大きな魔術を使わないことと睡眠であり、意外と『器』での生活は人間と大差ない。
ちなみに、星霊が『器』に入ったあとの姿というものは、人間離れした姿を持つ星霊を人間の姿に変換させたようなものである。
たとえば、外見が蛇である星霊が『器』に入ったら、『器』の顔つきは蛇のような雰囲気を持つようになる。それでも、同じく蛇に似た別の星霊が『器』に入っても、その星霊とまったく同じの顔つきになるわけではない。本来の姿でも個性があったように、『器』に入ってもその個性は引き継がれる。
しかし、アイオーンはもともと人間とまったく同じ姿を持つ星霊だった。なので、『器』に入っても本来の姿と見かけはまったく同じである。ただ、作られた『器』の大きさが本来の姿よりも小さいため、身長は低くなった。
「──中庭の花を見ていたのか?」
「ええ。今年も綺麗に咲いてくれたから見ていたの。それに、今日は風が強いから、たまに風が吹くと花の香りが漂うのよ──ほら、こんな感じ」
春の陽気をまとったさわやかな風が強まり、ユリアとアイオーンに華やかな香りを運ぶ。
「本当、だな……」
その瞬間、アイオーンがぼんやりとしだした。遠くを見るような目をして、目線を落とし、そして。
「っ……」
痛みが生じたのか、こめかみあたりに手を添え、少しだけ顔を歪ませた。
「アイオーン──まさか、また記憶が……?」
「……ああ。いつか、こんな香りが漂っていたときに……誰かが、そばに……いたような──」
「誰か……? なにか思い出せそうなの?」
いつもなら、頭痛がして既視感があったと言うだけだ。しかし、今回は違う。おぼろげながらも記憶を思い出している。
ユリアが聞くと、アイオーンは言葉を止めた。顔をゆがませていないことから、おそらく頭痛は止まっている。何かを考えているように喉から軽いうなり声が聞こえると、アイオーンは諦めたように息をついて首を振った。
「いや……思い出せそうで……思い出せないな……」
「……あなたって、子どもと遊んでいる時や、花の香りを楽しんでいる時に既視感を抱くことが多いわよね」
「ああ。だから、花の香りがする紅茶を飲みはじめたが──茶を飲むことが趣味となっただけで、それ以外に成果はない。どうやら着香された茶では、記憶は反応してくれないらしい」
そうして、アイオーンは小さくため息をついて笑った。
「そろそろ夕飯の支度にとりかからないか? 今日はイヴェットとアシュリーが帰ってきているから、いつもより多めに作らないといけない。早めに取り掛からないとな」
「……そうね」
現代の豊かな食事を知ってから、いつの間にかふたりは料理をすることが趣味となっていた。
きょうだいのうちの誰かが、旧市街の郊外に位置するこの屋敷にやってくると、ユリアとアイオーンはまるで親や姉か兄のように世話を焼くことが恒例となっていた。
なぜ、たったふたりだけでここまで広い屋敷に住んでいるのか。
この屋敷は、ローヴァイン家の別邸だ。ラウレンティウスの両親に、息子に武術の修行をつけることを伝えた際、自由に使って悠々と暮らしなさいと気前よく貸してくれたのだ。彼とその両親が住む家は、新市街の一等住宅地にあるという。
「……あ──そうだ、夕刊だ。すっかり取り忘れてたな……。新聞を取りに、もう一度、門まで行ってくる。お前は先に厨房室へ行っててくれ」
「わかったわ」
◇◇◇
厨房室にやってきたユリアは、まず魔術で長い髪をひとつにくくり上げた。そして、壁のフックにかけていたエプロンを着用し、ふたり暮らしにしてはとても大きな冷蔵庫──まるで業務用であるかのように大きい──の中を確認する。続いて冷凍室にも目を通す。
魚も肉も野菜も十分。さて、今日の晩ご飯はどうしようか。
現代では、諸外国の食文化も入り、輸入された食材も多くあるため料理の幅はとても広い。たくさんありすぎて、どれにしようか決まらないときがある。そういう時は、賞味期限が近い食材を使う料理にするが──さて。
「──ユリア。昨日の任務のことが新聞に載ってるぞ」
夕刊を取りに行っていたアイオーンの声が聞こえた。ユリアは冷蔵庫の扉を閉め、振り返る。そこには、料理のために魔術で長い銀髪をひとつに括りながら、新聞のある記事を表にして差し出すアイオーンがいた。
「あら、本当。今日のお昼ごろに、予定通り報道陣にもあの遺物をお披露目したのね。──それにしても、古い時代の人間である私にしか触れられないほどの遺物が発見されるなんて、さすがに驚いたものだわ」
新聞を受け取り、記事に目を通す。そこには、このようなことが書かれていた。
古くから伝わる物語にも登場する、神が造ったとされる金色の杯である『聖杯』が、ヒルデブラント王国内の遺跡から発掘され、国内にある国立魔力研究所に運ばれた。
聖杯は、所有者に力を与えるとされているのだが、それを裏付けるように高濃度の魔力を保有していることが魔力の濃度測定器によって発覚した。このことから、人体に悪影響を及ぼす可能性と何かの術式が刻まれていることを想定し、ヒルデブラント王国軍に属する極秘部隊の魔術師に検査を依頼。そして、その者の術式によって魔力が漏れないよう施され、遺跡の外へと運び出された。
それを運んだのが、彼女──ユリア・ジークリンデだった。
彼女は今、ヒルデブラント王国軍の極秘部隊に所属している。
「ああ、俺も驚いた。星の内部から噴出される魔力は減少しているのに対し、この聖杯は未だに魔力を大量に保有しているとはな」
新聞には、この黄金の杯がなぜ神聖なのか。現代の普通の人間や魔術師にとって、魔力の濃度が高いということがなぜ危険なのか、などについて簡潔に書かれていた。
聖杯は奇跡の遺物であり、現代人にとっては劇物でもある。今となっては、ユリアやアイオーン、今も生きる星霊以外の生き物にとっては、濃度の高い魔力など猛毒でしかない。
「いろいろと触って調べてみたけれど、何で作られているのかさえ私でもよくわからなかった……。本当に、神代に造られたものなのかしらね……」
そして、ユリアは新聞をキッチンカウンターに新聞を置く。
「──ねえ、今晩の食事は何にしましょうか? さっき、メールでイヴェットとアシュリーに何がいいかを聞いたら、ふたりとも『何でもいい』と返ってきたのよ」
「『何でもいい』が一番困るんだがな……」
「本当に困るわよね、その言葉……」
献立を決めかねて困る親のような一言を呟くと、ユリアはアイオーンに問う。
「だから今日は、魚料理にしようかと思ったの。冷凍庫に白身魚があったから。でも、魚料理のなかでも何がいいかしら──あなたは何が食べたい? 」
「白身魚、か……」
すると、アイオーンは、ふと足元に置いていた米袋を見つめた。




