第二節 おかえり ③
「……というか、怒った顔が可愛いと言われても複雑よ」
「怒った顔だけじゃない! 不機嫌な顔も拗ねた顔も大好きだ!」
「笑顔やないんかいッ!!」
ユリアは思わず心の中にアシュリーを召喚し、彼女が話す西部の方言でツッコミした。
「あっ! 笑顔も好きだ!! 見たくないのは、悲しみや苦しみの顔!」
「なにが『あっ!』よ。『あっ!』じゃないわよ」
テオドルスは、ハッとしてすぐに求められた言葉を追加したが、ユリアはそんな彼にジト目を向けている。彼はまた悪びれることなく、笑いながら彼女をなだめた。
「まあまあ、ともあれだ。いろいろあって婚約者という関係はご破産となったから、オレはこれから君へのアプローチをしっかりとしていくと決めた。そうでもしないと、恋愛事に疎い君はまったく靡いてはくれないだろうからな。そのうえ、本当に優先すべき事は『〈黒きもの〉を倒すこと』だ。──この道は、簡単なものではないな」
と、テオドルスの目が突然、不思議な色気を含ませた獣のようなものに変わる。その目に、ユリアは鼓動を激しくさせた。
「……オレがしつこい性格なのは知っているだろう? その点については諦めてくれ。だが、君が心から嫌がるようなことは決してしないと誓う」
それでも、ユリアはなにも答えられなかった。
自分にはすべきことがある。いまだ未熟な精神だと理解している。
こんな自分は、ここまで愛してくれる彼に、しっかりと異性として応えることはできるのか。どうして、未熟な自分をここまで愛してくれるのだろうか──。
ユリアは、自らの心をはっきりと言葉にすることができなかった。彼から向けられている愛とどう向き合い、どう接すればいいのかがわからない。
「……」
彼女の沈黙が否定を意味しているのではと思いはじめたテオドルスは、少しずつ目線を地に落とし、さきほどまでの勢いを一気に弱めた声をこぼす。
「……嫌なら、『嫌だ』ちゃんと言ってくれ。嫌ならそれでいいんだ。恋というものがわからないままでもいい。オレは、君の気持ちを尊重する──君には嫌われたくないからな……。頑張って我慢する」
しばらくの沈黙のあとに、ユリアは「……いや、では……」と微妙に曖昧ながらも小さく首を振る。
それよりも不安なことがある。聞かなければならないことがある。
「……我慢って──その限界が来たら……あなたは……」
ずっと我慢し続けられるのなら、こんなにも人を振り回す男になっていない。
おそるおそる問いかけると、テオドルスの雰囲気が少しずつ薄暗いものへと変わっていった。
「……襲うかもしれない」
弱々しい声から一転し、彼は決意を固めたような──いや、なにかを暴れさせまいと耐えるというほうが正しいのか。恐ろしいものを秘めていると感じてしまう、そんな不穏な声色だった。
「誰を──」
「──ユリアを」
彼の瞳孔が大きく開いている──『獣』の側面が顔を出している。
その言葉はどちらの意味だ。
戦いか。それとも──。
いや、どちらにせよ同じこと。
「……あなた、私から徹底的にブチのめされたいの?」
刹那、ユリアは一瞬にしてテオドルス以上に恐ろしい気配をまとい、真顔で彼を見つめた。その目の奥にある感情は殺意に近いもので、まさに一触即発の気配だった。
「っていうのは冗談でな〜」
すると、テオドルスは即座に彼女から目線をそらし、軽口を言うように言葉を紡ぎながら口角を上げた。元婚約者から殺気のような気配を放たれても、彼は恐れるどころか悪びれる様子もない。
(冗談と本気が混ざっていたわね、この男)
まったくもって厄介であり面倒な男だとユリアは再認識する。そして、自分は頭がおかしい人間だということも。
なぜなら、こんな男がそばにいないと嫌だと思ってしまっているからだ。たまに御しきれずに手を焼いていながらも、彼がほかの誰かのところに行ってしまうのは絶対に認められない。そんな自分は、やはりおかしい。
家族を愛し、国を愛しながらも、常識を守っているようで簡単に放り投げることができること。そして、恋や愛を知りながらも『異端』であり『獣』であり続ける精神。彼は多くの側面を持っている。──こんな人を御せられる人間など、滅多にいないのではないか。
(……アイオーンだけでなく、あの四人にも、この人を御せられるようになってもらわないといけないでしょうね……)
ごめんなさい。また負担を強いることになるけれど、頼れるのはあなたたちだけなのよ。ほかの面倒なことは私が受け持つから、どうかこの人の面倒くささに慣れてください。
そして、これからの彼が面倒事を起こさないようにと、ユリアは心の中で祈った。無駄なことだろうとは思うが。
すると、テオドルスはユリアにまで戸惑われる自身の精神性について、さりげなく本音を覗かせた。
「……これでも、一応は自覚しているさ。常識を理解していながらも、本性は常識から逸れた行動をしようとしてしまう。自分の欲望を止めようとしても止められない時がある『どうしようもない男』だってな。だから、オレは……果たして君に相応しい男なのかという疑問も少なからずある──」
「あなた、そんな殊勝な精神を持っていたの?」
素で驚いたユリアに対し、テオドルスは大きな声で笑った。
「はっはっはっ! ──……拗ねていいか?」
そして、間を開けてから、本気で拗ねている声をもらす。
「あなた……そうは言っても、昔から周囲の人たちを振り回してばかりだったじゃない」
「これでも一応はあるんだ、一応は。──それにしても、この世は平和だそうだな。戦う機会がほとんどなさそうだが……ちょっと腕が鈍りそうで困るな」
テオドルスがそう言った時、ユリアは彼の言葉に隠された危険性を察知した。彼の本質のひとつには『獣』がいる。彼がそう感じているのなら、暴発しないようにしなければ。
「ストレス発散くらいのものなら付き合うわよ。今から戦いましょうか? ここからなら、ヴァルブルクはそこまで遠くはないもの」
「……嫌じゃないのか? オレと戦うと──『あの日』を思い出すだろう……?」
彼からそう言われた瞬間、ユリアは少しだけ目をそらした。
「……『あの日』のことや、セオドアの事件のことは……たしかに思い出すかもしれない。──だから、今のあなたとの戦いで、この感覚を『上書き』してくれる?」
「戦ってもいいのなら是非とも戦いたいが……何をすれば『上書き』できそうだ? 脳裏に焼きつくほどの激しい戦いなんて、もう昔からやっているようなもので新鮮味がないな──」
その時、テオドルスはあることを思いつく。
「そうだ! 『勝者は敗者になんでも命じることができて、敗者はその命令を拒絶することはできない』というルールのもとで勝負するのはどうだ!?」
彼の後ろにある三つ編みが、犬のしっぽのようにぶんぶん振っている。楽しさと嬉しさの感情が魔力で伝わり、彼の髪がそう動いてしまう。面白い髪質だ。
テオドルスが勝ったら、いったい彼は何を命じるつもりなのだろうか。なにやら嫌な予感がする。
だが、そういうもののほうが『上書き』になるかもしれない。『テオドルス』との戦いは、本当に嫌な記憶ばかりだった。
「……だからって、極端な命令はナシよ?」
一応、釘を刺しておこう。おそらく効かないだろうが。
「ああ!! それじゃあ、やろう! 絶対に勝ってみせるぞ!!」
◇◇◇
やがて、ふたりはヴァルブルクにやってきた。魔力濃度は通常に戻っている。
ここに来る前に、ユリアはダグラスに連絡を入れた。理由を素直に話すと、少しだけ妙な間をあけてから「魔力観測塔が見えないくらいに遠くで戦えば、何が起こってもなんとかごまかせる」と言ってくれた。
「このあたりがいいかしらね。思いっきり戦えるわ」
ふたりが見つけたところは、魔物もいなければ植物も生えていない石と砂だけの場所だった。こんな環境になっているのは一部だけだが、その理由はおそらく、地質的に植物が生きられる環境下ではないからだろう。
「ねえ。今思えば──昔のあなたは、アイオーンには戦いの相手になってくれと何度も頼んでいたのに、私にはほとんど誘ってこなかったわよね?」
「それは……昔のオレは、今の自分と比べて純粋だったというか……少し照れ屋なところがあったんだ」
「純粋で、照れ屋……? うそでしょう?」
ユリアは驚いた声を出す。そんな一面は見たことがなかった。彼の基準では一応そうだったらしい。
「うそじゃない。君に見つめられると、戦っていてもつい力が緩んでしまっていたんだ。だから、思いっきり戦いを楽しむことなんてできなかったし、そのせいで君に負けて情けない姿を見せることにもなるし──そういうことだったから、君と戦うのはちょっと自信がなかったのさ」
しかし、ユリアはテオドルスを見ていて『そうなっている』と感じたことはない。彼自身が『弱い』感情をあまり出さなかったことから、それに気づけなかったのだろうか。
「──けど、今はもう大丈夫だ。それに、この勝負に勝てば、なんでも『命令』することができるのだからな。負けないぞ」
「変なお願いはさすがに拒否するわよ?」
「ああ。変なことはしないさ。──さあ、やろう!!」
嬉々とした声を発した瞬間、テオドルスの姿が消えた。その数秒後、ユリアの目の前に現れ、魔力で編み上げた月白色の剣を振り上げて斬りかかった。
「──!」
ユリアは、手や腕を竜化させて防ぐ。
「おぉー……!! それが、アイオーンの核を埋め込んだ際に得たという竜化の力──! やはり想像通りにカッコいいな! 君によく似合っているぞ!」
はしゃぐような声と少年のような眼差しに、ユリアは思わず気を緩ませる。
「私もカッコいいと思っているのだけど……女がこんな鱗やら鋭い爪をそう感じるのは、少しおかしいかしらね」
「何を言っているんだ、普通だぞ? それに、ユリアはなんでも似合うすごい女の子さ。かわいいものも、綺麗なものも、カッコいいものも全部似合うんだ。だから、君は自分が持っている魅力に自信を持っていい。──さあ、もっと激しく戦おうか!」
ユリアも両手に魔力を集束させて二本の剣を作り上げると、ふたりの戦いは一気に激化した。
それから少しずつ、テオドルスの目が据わっていく。もはや、いつもの陽気な雰囲気はなく、氷のように冷たい目があった。
しかし、口元にあるのは『愉しみ』の笑み──獣だ。戦いを好み、それに飢えた獣がいる。その姿に、ユリアはあらためてテオドルスの帰還を実感する。