第十一節 夢の終わり ②
「テオッ!?」
ユリアは急いでテオドルスに駆け寄り、外傷がないかを見た。
彼は、よほど急いでいたのだろう。戦地へ赴くための装備ではなく、国王代理としてのマントや鎧のままだ。品ある豪奢なマントは、戦闘の激しさを物語るかのように激しく破けており、鎧にも深い傷がある。かすかに見える肌には擦り傷や打ち身はあるが、ひどい怪我はない。
「……ユリア……あの、異形は……」
「異形、って……? ──ッ!?」
刹那、背後に気配を感じ取ったユリアは振り返った。〈黒きもの〉の気配──水が滲み出るかのように、黒い泥が床から少しずつ現れる。その量は次第に増え、集まり、やがて人の形へとなっていった。
しかし、それは人間の身長を優に超す灰色の長身で、腕が引きずるほどに長く、指も爪も長い。まるで骨のように細い体躯に、いくつもの細い血管が絡みついたような凹凸がある姿。そして、背中には、毟り取られたかのようなぼろぼろの翼が左右に一枚ずつあり、長い尻尾を持った異形だった。そして、その顔が──。
「……ちち、うえ……と──はは、うえ……?」
異形の顔には、『正面が無かった』。シルウェステル・ヴィーラントとカナリナ・ゲルトルーデの顔が、背面を合わせるかのようにくっ付いており、そのまま佇んでいた。
虚ろな目で、ユリアの両親の顔は正面を見ていた。だが、ユリアが声を出した時、ふたりの顔は真横にいる彼女を見ようと動いた。首がそれぞれの顔に連動しており、人間ができる動きではない。
「──ユぅ、うぃリ、ああアぁ……!」
「テぅ、オ、ぉごドル、ぅうスぅ……!」
「あ……ぁあ……ッ……!?」
それぞれの顔が、ふたりの名前を呼ぶ。舌がうまく動かないような言葉で。
これは、いったいなんだ。異形が、両親を模したものか。それとも──。
「うぁ、グぁあ、ああガァあああ!」
異形が咆哮を上げ、大きく腕を振り上げる。
ユリアは横たわるテオドルスを抱え上げ、異形の攻撃を避けた。
「父上!? 母上!? どうしてッ──!」
攻撃はやまなかった。
どれだけ呼び掛けても、やめてはくれなかった。
「──……倒さない、と……」
ユリアの口から、小さく言葉がもれる。
「倒さないと──」
逃げてばかりいても、何もできない。アイオーンがいてくれたとしても、両親は、もう──。
「ユリアか……?」
父の声。
ユリアはハッとして立ち止まり、異形を見た。
しかし、それが仇となった。異形は長い腕を振り、ユリアの身体を吹き飛ばす。
「がッ、はっ──」
背中を強く打ったが、なんとかテオドルスだけは守りとおした。こんな痛みは『痛み』のうちに入らない。ユリアはすぐさま立ち上がり、テオドルスを抱え上げる。
「──ッ」
なにがあった。どうしてこうなった。
いやだ。信じたくない。誰か、夢だと言って。
誰か、助けて──。
アイオーン──。
「わた、しが……やらないと──」
アイオーンがいても、『結果』は変わらない。選択肢は、ひとつだけ。
これが『〈預言の子〉として生きる』ということなのだろう。そう思わなければ、こんな人生なんて──。
ああ──『兵器』になっておけばよかった。あの時に、手を伸ばさなければよかった。
違う。本当は、『手を伸ばさなければよかった』なんて思いたくない。テオドルスが手を差し伸べてくれなければ、今の私はなかった。
苦しい。いやだ。戦いたくない。
父上、母上。私には夢があるんです。〈預言の子〉の使命をやり遂げたら、父上と母上と私の三人で、家族として──。
「──」
目に生気を無くしたユリアは、テオドルスを抱えたまま異形に向かって走り出した。姿を消したかと思えば現れ、消え、また現れ──錯乱させる。そして、異形の隙をつき、脇腹にありったけの力を込めた回し蹴りを入れた。異形は、体勢を崩し、地面を掠りながら後退する。
ユリアは、その隙にテオドルスを片方の肩で担ぐように抱き上げ、空いた手に魔力を急速に集束させていった。アイオーンからもらった力があれば、消滅できる。──痛みをともなわずに。
「──あああああああああああッ!!」
己の運命への怒りと悲しみの叫びとともに、ユリアは両親の顔をした異形に放った。
「……はぁ……はぁ……」
跡形もなく、すべて消した。
帰るための体力はある。テオドルスを抱えて帰らなければ。
私には、両親なんて、元からいない。元からいない。いないのだ。
考えるな。敵を倒した。それだけだ。テオドルスは生きている。だから、連れて帰らなければ──。
「……え……」
脇腹が、痛い。
黒くて鋭いものが、脇腹を貫いている──。
「……テ、オ……?」
なにが起こったのか、わからなかった。
痛みがあることしか理解できないなか、ユリアは膝をつく。黒くて鋭いものがなくなると、ユリアは力が抜けたようにテオドルスを降した。
「──ユ、リア……」
声のするほうを見ると、テオドルスは虚ろな目をして黒い涙を流して、立ち上がろうとしていた。
「テオ……な、ぜ……」
どうして、こんなことになるのだろう。
私が『みんなが望む英雄』になれなかったから?
アイオーンの力を得ていたおかげで、脇腹から流れる血は少しずつ少なくなり、傷口は癒えてきていた。
しかし、ユリアの精神は弱りきっていた。これから起こることなど、もう想像したくはなかった。
しかし、やらないと──殺される。
「テオ……──やめてぇッ!!」
黒い涙を流すテオドルスは、魔力を凝縮して月白色の剣を作り出し、ユリアに襲い掛かってきた。ユリアは叫びながらそれを避け、透明な涙を流す。
「……ユリ、ア──」
「テオ!! しっかりしてぇッ!!」
まだ意識はある。だが、身体が何者かに操られている。黒い涙からは〈黒きもの〉の気配がする。体内からその気配はないが、泥を取り込んでしまったのか。
どうすればいい。どうすればいいのだ。もう殺したくない。
光を与えてくれた彼を殺したくない──!
「……オレを、殺して……く、れ──」
〈黒きもの〉による殺意を抑え込んでいるのか、テオドルスの挙動がおかしい。声も苦しそうだ。
「いやだ! 聞きたくないッ!!」
「……〈黒きもの〉に、操られて……君を、殺してしまう男に、なる、よりも……ユリアに、殺されるほうが……オレは……うれしい、な……」
こんなときに、そんな優しい笑顔を見せないで──。
「い、やだぁあああッ……!!」
ユリアは泣き叫ぶ。
テオドルスは、笑みを浮かべたまま「オレの願いを、聞いてくれ」と言った。
「……何があっても……生きろ……。生き抜いてくれ──。オレは……ユリア・ジークリンデを、いつまでも……愛している──」
操られているうえ、苦しめられているというのに、彼は少年のような屈託のない笑みを見せた。少しでもユリアを苦しませないために。
なんて強い人なの。やっぱり、あなたは私の憧れだわ。あなたのような人間になりたかった。
私もなれるかな? いや、ならないといけない。私だけが、なるべく苦しみが少ない方法で、彼を苦しみから解放できるのだから──。
「ッ……わた、し、も……ずっと、だいすき──」
ユリアは、空中に光を集束させていく。
ユリアの言葉を聞いたテオドルスは、満足そうに目を閉じる。
ありがとう。
その言葉と同時に、ユリアは涙を落とした。集束させた力を放ち、空間はまばゆい光に包まれる。
光が消えた後、ユリアの姿だけがそこにあった。
「──」
これで、終わった。
父も、母も、テオドルスも、自身の夢も──すべて、自分が断ち切った。
私が、殺した。
「──ッ!!?」
刹那、ユリアの体内に異変が起こった。
自分ではない『何か』が、身体を操ろうとしている。意識も朦朧としてきた。
(これは──いけない、このままでは……! 私が……!)
すべてを破壊したい、誰かを殺したい──そんな衝動が、ユリアの内側から生まれた。その時、直感的に理解する。
私は、『私』ではなくなる。
誰かを殺す『兵器』へとなってしまう。
アイオーン──。アイオーンだけは、生きて。
駄目だ。身体も精神も、もう力がない。抵抗できない。
やめて。『生きろ』と言われたのに! 民のためにも生きていけないといけないのに!
まだ、死にたくないのに!
それなのに──。
(『死にたくない』という願いさえ……叶わないなんて──)
最後の理性で、ユリアは魔力で剣を作り出し、それで自身の心臓を貫いた。
一瞬だけ痛みがあったような気がするが、すぐに感じなくなった。
ユリアは、天井を見上げながら倒れ込む。身体を貫いた魔力で編まれた剣が、塵のように消えていく。目に見える天井がじょじょに霞み、次第に瞼が重くなっていった。
『英雄』として使命をやり遂げることも、みんなの期待に応えることも──結局、何もやる遂げることができないまま終わった。
私の人生は、なんだったのだろう──。
遠くから、アイオーンの声が聞こえる気がする。名前を、呼んでいる気がする。幻覚かもしれないが、最期に声を聞けてよかった。
そこで、ユリアの意識は途切れた。
◇◇◇
──ユリア。起きてくれ。
アイオーンの声がした。
暗闇のなかで──なぜだろう。
──ユリア。
まただ。
だが、返事をしようとしても声が出ない。声の出し方は、どうすればよかったか。
その前に、この暗い空間に明かりをつけないといけない。そう思っていると、視界が一気に明るくなった。
目に映っているのは、水面だ。
──私が、勝手に動いている……?
水面に移る自分は、安堵した顔を作っている。
なぜ? そんな顔をしようとは思っていなかったのに。
「起きたか……。良かった……」
私が、勝手にしゃべった。
まさか──。




