第四節 偽りなき想い ①
空はまだ青いが、うっすらと茜色が差してきている。夕方が近づいてきた時刻に、ユリアは屋敷に帰ってきた。
ユリアが玄関の扉を開けると、帰ってくるタイミングを読んでいたのかアイオーンが立っていた。どこか物憂げな顔をしている。
「──おかえり」
「ただいま。……どうして玄関にいるの?」
そう問われたアイオーンは、小さく息をついて口を開いた。
「先ほど、ダグラスから、セオドアに関連することについての調査をしてほしいという依頼と、ユリアが退勤したとの連絡があってな。そろそろ帰って来る頃かと思って待っていたんだ。今日、お前達がこなしていた任務のこともすべて聞いている」
「なるほど、そうだったのね。──アイオーンは、この件をどう思う? 今回の任務で、謎がさらに深まったと感じるけれど……」
「ああ……。だから、なんとも言えないが……俺は、お前達とは『違うところ』を調査するほうがいいのかもなとは思った」
「違うところ、というと?」
「魔道庁では調べられないことだ。お前達が戦った魔物のことは、魔道庁では詳細なことは調べられないはずだ。調べるためには、魔力濃度の高い地域に赴く必要があるからな──。だから、俺が調べに行く。まずは、その魔物がヴァルブルクに生息している種類なのかを確認するべきだろう」
「そうね……。あの魔物は、ヴァルブルクから連れてこられた可能性もあるもの──」
アイオーンは頷く。あの廃墟の遊園地は、ヴァルブルクから近いところにある。しかし、ヴァルブルクは、現代の魔術師にとっては危険度の高いところである。
「ヴァルブルクは、この時代でも魔力濃度がどこよりも高い土地だ。ヴァルブルクにとっては、それがある種の『防犯機能』となっているが──俺達のように魔力耐性がある者なら、いつでも好きに入れる。それも、誰にも見つからずにな……。セオドアが『普通』ではないのなら、可能性は無くはない。明日から調べに行く」
「わかったわ」
現代の普通の魔術師ならば、知りえないはずの魔術を知り、それを扱えるというセオドア。ならば、セオドアはヴァルブルクの魔力濃度に耐えられるのではないか。そのことも視野に入れておいたほうがいい。
「……けれど、アイオーン──」
すると、ユリアが何かを案ずる顔を見せる。
「ヴァルブルクは、アイオーンにとっても辛いところのはずよ……。あの日を……思い出さない? 大丈夫なの……?」
ユリアとアイオーンのみが知る、『あの日』。ふたりが触れてほしくない過去のこと。
そのことを問われたアイオーンは、静かに微笑む。
「……大丈夫だ。俺は、気が遠くなるほど長く生きているからな。気持ちの決着はついている」
嘘だ。ユリアは思った。アイオーンは嘘をついている。
今も、アイオーンは『あの日』に苛まれている。私と一緒──。
「──ところで、ダグラスから聞き捨てならないことを聞いたんだが……」
と、アイオーンは話を変えた。
「魔物と戦っているときに、お前は魔物が人間の姿に変わったという幻覚を見たらしいな」
そのことも伝わっていたのか。いや、伝えないといけないか。普通ではないことなのだから──。
ユリアは、まるで叱られた子どものようにアイオーンから目をそらす。
「え、ええ……。それと関係しているのかどうかは、まだわからないけれど……昨日に、幻聴のようなものを経験したの……」
正直、このことはあまり思い出したくはない。それでも、また起きるかもしれないため、そのままにしておくことはできない。いい機会だと思い込ませながら、ユリアは伝える。
「幻聴のようなものを、だと……?」
アイオーンは訝しむ。
「何かに例えるなら──私の身体のなかにアイオーンの核があった頃、私たちは『心の声』で会話をしていたでしょう? その時のような感覚と似ていたわ……。しっかりと意思を持った『声のない声』が、私に話しかけてきたの……。私のことを〈予言の子〉と言ってきて、もっと怒りを抱けばいいのにとか、いろいろと……」
アイオーンは無言のまま、眉間にしわを寄せていく。その顔が、どうして早く言わなかったんだと責めているように見えたユリアは、「そのときの私は、精神的に不調だったから、その不安定さがそうさせたのかもしれないけれど」という言葉を伝えた。だが、アイオーンには届いていない。
「……念のため、今日はお前と一緒に寝ることにする」
「い、いい一緒に寝る!?」
だが、次に出てきた言葉は、不穏な会話を吹き飛ばすほどの衝撃を持ったものだった。なにがどうしたら、そんな言葉が出てくるのだ。
なんとなく怒られそうな雰囲気だったのに、出てきた言葉は周囲から怪しまれそうなものであったことから、ユリアはひどく驚いている。
「俺は無性別の星霊だ。深く気にするな」
「そういう問題!?」
無性別でも、アイオーンの見た目は、紛れもなく人間の成人男性だ。そんなこと言われても無理だ──と言っても、性別がないアイオーンには、ユリアが驚きと戸惑いを見せている理由などおそらく理解できないだろう。
「そこまで気にすることか? あいつとは一緒に何度も寝ていただろう」
その言い方はやめてほしい。何も知らない誰かがいたら確実に誤解を生む。
やはり、アイオーンにはそのあたりの感覚は解らないようだ。異性に対する恥じらいという感情の機微を感じ取れない。
それでもユリアは、できるかぎりアイオーンの決定を流そうと抵抗する。
「テオとは、昼寝をしていただけよ……。あれは原っぱでゴロゴロしてただけ」
「昼も夜もたいして変わらんだろう。似たようなものだ」
「似てないわよ……!」
人間にとっては、昼と夜は全然違う。もしも、アイオーンの見た目が女性寄りだったなら、あるいは、もっと人間ではない何かだったらここまで戸惑わなかった。
しかし、残念ながらアイオーンという星霊は、筋肉質な成人男性の身体であり、顔つきも声も男性そのものだ。だから、顔を近づけられたら恥ずかしくて顔を赤くしてしまったというのに。
ああ、いけない。昨日の夕食を作る前に、からかわれて顔を近づけられたことを思い出してしまった──。
ユリアは、困ったように少しずつ眉を下げていく。それと同時に、頬も赤らんでいった。
「……そんな顔をされたら、またいじめたくなるだろう。俺と一緒に寝ないのなら、いじめるぞ」
そんな初心な彼女に、またアイオーンはからかいはじめる。妙に優しい声色に、美しくも艶のある微笑──やめて。その声と顔は心臓に悪い。
そんな態度をされると、あの人みたいに見えてくる──。
「私はあなたのオモチャではありませんっ! そんなことを言われたら、余計に一緒に寝たくないわ!」
「──今は、わりと元気そうだな。だが……おそらく今日のお前は、悪い夢を見るんだろうな……。昨日は、あまり眠れていなかっただろう? 何を考えていたのかは、あえて聞かないでおくが」
と、先ほどの顔とはうってかわり、アイオーンは心配そうな眼差しでその言葉を紡いだ。その眼差しの向こうで、少しだけ罪悪感を抱いているような雰囲気がある。
「──」
そんな顔をされたため、心に溜まっていた文句が言えなくなった。
昔から、何かを思い詰めていると、夜はあまり眠れない。アイオーンの言うとおり、昨夜は眠れなかった。だから、任務地に向かう車のなかではずっと眠っていた。ラウレンティウスとクレイグが心配するほどに。
だから、このヒトは、からかってきたのかもしれない。一緒に寝るということも、それで精神的な緊張をほぐせればと考えてくれていたのだろうか。
「……だから、一緒に寝ようと言ったの?」
「昨日、お前は言っていただろう? 『ふたりでいれば、苦しみは和らいでくれると思う』と……」
「……言ったわね」
「だが、もちろん無理強いはしない」
恥ずかしい気持ちはあるが、誰かがいてくれたほうがいいかもしれない。眠れなければ、ひとりで悶々と後ろ向きなことを考えてしまうだけだ。ユリアは深く息をつく。
「……ごめんなさい……今日だけ、お願い──」
弱々しくユリアが甘えると、アイオーンは何も言わずにユリアを優しく抱きしめた。
◇◇◇
──我らが〈予言の子〉よ! この世を暁へと導いてください!
よかった。被害は少ない。私が頑張れば、みんな喜んでくれる。
──ああ、神の化身よ……! 我らを導くために、人間に転じてきてくださったのですね……!
これは、私の使命。でも、本当の私はそんなものではない。
私は、みんなを騙しているのではないかしら……。
──我らが救世主よ。もっと姿を見せてください。
それでも、みんなは私を求めている。頑張らないといけない。安寧の世へ導いてみせる。頑張るから……『私』を見ないで。
『これ』は、私ではないの。
──この御方は、きっとこの世に光を照らしてくださる。
頑張るから、私を知ろうとしないで。『私』を見ないで。
誰か、『私』を見て。本当は違うの。
こんなこと……誰にも見せられない──。
──希望が見える。きっと、もう少しだ。
失望しないで、頑張るから。幻滅しないで。
私の居場所はここしかない。
これは、私にしかできない。私の使命。そのために生まれてきた。
でも、普通がいい。
けれど、それは求めてはいけない。みんなが望んでいる。期待している。
でも、違う。『私』を見て。
駄目。『私』を見ないで。
頑張ったら、欲しいものは手に入れられるの?
いいや──。
もう、諦めたほうが楽。ようやくわかった。
何も手に入らない。感情なんて存在する意味がない。
ただの『兵器』になりたい。こんなのは無駄なもの。
感情を捨てたい。
──どうして、私は必要なことができないの?
苦しい。誰か──。
父上、母上。私、頑張ります。
民のため、国のため。ヴァルブルクの王家として誇り高い人間となってみせます。だから、見ていてください。
なれるかな。なりたいな。
ヴァルブルクは、気高き魂を持つ戦士が集まる国。民も世界を覆う闇に抗い、頑張っている。私も頑張らないと。
この美しい国を誇りに思う。ここに生まれてきたことを光栄に思う。
我が愛しきヴァルブルクの民よ。
父上、母上。
私の夢は、いつか叶いますよね?
だって、テオは言っていました。父上と母上は、私と同じなのだと。テオも一緒に頑張ると言ってくれました。
ねえ、テオ。そうでしょう?
テオ? どこにいるの?
──オレは、ユリア・ジークリンデをいつまでも愛している。
遠くにいかないで。
私以外の人のところには行かないって……ずっとそばにいるって、言ってくれたじゃない。
そばにいてよ……!
あなたがいないと、私は──。
──何があっても、生きろ。生き抜いてくれ。
どうして……? こんな運命なんて、望んでなかったのに!
いやだ……! 誰か……!
消えないで、離れていかないで……もう誰も死なないで!
アイオーン──。
テオ──。
ねえ、テオ。あなたの声が聞きたい。明るくて、元気で、でもやっぱりどうしようもない問題児で──まるで物語の『騎士』のような人であり、本当に『異端』で『罪人』でもある人。
どうして、あんなことになったのだろう……。
寂しいよ、テオ。
◇◇◇
「……リア──ユリア、起きろ」
耳元でアイオーンの声が聞こえた。
「う……ん……」
カーテンの隙間からは、まだ太陽の光が射していない。真夜中のようだ。
「うなされていた」
自室の寝台で眠るユリアの隣には、アイオーンがいる。この寝台は、ひとりで寝るには少し大きいサイズだ。
「……ごめんなさい……。夢のなかで……昔の記憶が、流れていって……」




