第二節 そして、幕が上がる ②
「前に……お前が作ってくれた……魚が入ったリゾットのような──いや、違う……。魚だけではなかったはずだ。貝やエビといったものも──。っ……」
「──あなた、もしかして……その記憶は……」
昔の記憶を、わずかながら思い出せている?
アイオーンの顔つきからして、また頭痛が起こっているようだ。しかし、今までは懐かしさや既視感だけで、明確に何かを思い出すことはなかった。
やがて、アイオーンの表情から痛みを訴える表情がなくなる。
「……アイオーン? 大丈夫?」
「あ、ああ……。なぜか、リゾットにしようかと思っていると……懐かしいと感じる気持ちが生まれた──。いつだったか……肉料理が好きだという子どもが、近くにいたような気がする……」
「お肉が好きな、子ども……?」
「俺よりも、背が低い人間がふたりいたような──いや、あのふたりは人間なのか……? 人間の姿に似た星霊は、ごく稀にいるが……」
「アイオーン。それは、あなたの記憶? 思い出したの?」
「思い──出せたのだと、思う……。これは、きっと俺の記憶だ……」
魚のリゾットという単語だけで、今まで思い出すことがなかった記憶の一部分がよみがえった。だが、魚のリゾット自体はたまに作る料理だ。なぜ、今になって、懐かしさを感じて記憶の断片を思い出せたのだろうか。
「……もしかしたら、あなたには大切な人たちがいたのかもしれないわね。ショックな出来事があって、その衝撃で過去の記憶をすべて忘れてしまったとか……」
「さて……どうなんだろうな──。記憶の一部分を思い出せたといっても、それ以外のことはなにひとつよくわからない……。それにしても、あまりにも唐突によみがえったものだな──もう少し劇的な思い出し方だったら、多少は気持ちが盛り上がったんだが」
そう言いながらアイオーンは笑みを浮かべているが、戸惑ってもいるようだ。
いったい何が引き金となって、その記憶を思い出せたのだろうか。それが判れば、さらに記憶を思い出せるかもしれないが──。
きっと、これ以上考えてもよくわからないことなのだろう。それでもユリアは考え続けた。
ふたりの間にしばらく沈黙が流れる。
「……」
やがて、アイオーンは深く息をつき、ユリアの顔を見る。
「──どうしたの?」
見られていることに気が付いた彼女は、アイオーンと目を合わせた。
「……なあ。……お前は今、幸せか?」
突如、アイオーンがそんなことを言い出し、神妙な面持ちとなった。
急にどうしたのだろう。不思議に感じながらもユリアは素直な気持ちを見せる。
「え? ええ、もちろんよ。今は楽しいと思えるわ。──どうしたの? 急にそんなことを聞いてくるなんて」
「……いつかは、聞いておこうと思っていた……。幸せなら、いい──と、言いたいところなんだが……」
そう言って、アイオーンは重苦しくため息をつく。
「俺の核を埋め込んでいたせいで……お前は、年をとらない。致命傷を負ってもすぐに回復する身体となり、重い病にかかることもないが、普通の人間とはかけ離れた存在となってしまった──。俺と同じく、ほとんど不老不死のようなものだ」
「ええ……。その力を抑える薬を開発しているけれど……まだ、うまくいきそうにないわね」
「俺は、薬を作るのではなく、もっと別の方法を探すべきかもしれないと思っている。外国で資料を探せば、何か手がかりを見つけられるかもしれない──特に、ヒノワ国なら可能性がある。あの国はかなりの歴史があるうえ、古い時代の資料もヒルデブラント以上に多く保存されているだろう」
アイオーンは今も変わらず、ユリアに普通の人間として生きてほしいと願っている。だから十年が経った今でも、ずっと諦めずに不老の力を解く方法を探してくれていた。
その願いが、いつ叶うのかはわからない。だが、この時のユリアには、『諦め』ではなく、とある『覚悟』が芽生えていた。
「……アイオーン。もしも、方法が見つからなかったとしても大丈夫よ。その時は──私は、あなたと一緒に生きていくつもりよ」
その瞬間、アイオーンは彼女の覚悟を受け入れることを拒むように顔を顰める。
「お前は……何も知らないから簡単に言えるんだ。不老不死など、普通の心を持つ者にとっては地獄でしかない。そんなものをお前に味わわせたくはない。だから俺は……お前には、できるかぎりゆっくりと老いて……死を迎えてほしい。──俺とお前の不老不死の力は、似ているようで根本が異なっている。俺のものとは違って、何か方法があるはずだ」
アイオーンが持つ不老の力は、実は自分自身でもよくわからない力なのだという。その力を制御する方法も知らない。だからこそ、アイオーンははるか昔から否応なく生き続けていた。
どの時代でも、そんな能力を持っているのはアイオーンだけだったらしい。はるか太古の時代には、似たような存在がいたかもしれないが、不老不死を持った星霊や人間がいたという記録は残ってない。
「ねえ、アイオーン。ひとつ教えてちょうだい──。いつか、本当に私が人間になれて、老いていって……そのあとは……あなたは、どうするつもりなの……?」
「ラウレンティウスたちを見送り、お前も見送った後に……『器』から核を取り出し、核を消滅させる──。俺は、この時代で欲しいものを手に入れた。最期こそ自害のようなものになるが、それでも死を迎えることができる──だから、そのことは受け入れられるし、満足感もある。俺が今、ここで生きている理由は、あいつらの人生を最後まで見守ることと、お前の不老不死を消すためだ」
大気中の魔力が薄まった現代だからこそ、不老不死であるアイオーンは簡単に死ぬことができるようになった。
だが、ユリアはそんな最期は悲しすぎると感じた。本人は満足していると言っていても、彼女には受け入れがたいことだった。
「……私たちは、あの時代でも互いの苦しみを共有して、ここまで一緒に来たじゃない。だから、私は不老不死でも大丈夫だと思うわ。ふたりでいれば、苦しみは和らいでくれると思う。──それに、ほら。今の私たちは、もう家族のようなものでしょう? だから、もしも不老不死の力を消す方法が見つからなかったら、私はあなたのそばで生き続けるつもりよ」
だが、アイオーンはユリアの決意を拒む。彼女のあたたかな気持ちに抵抗するかのように、または理由を探すように目をそらし、目線を泳がせながら口を開いた。
「……それにくわえて、お前は……俺の核の影響で、身体の一部が竜と化してしまうだろう。中途半端なものとはいえ、半竜半人など生きにくいはずだ。そんな現状を簡単に受け入れるな」
「私の場合は制御できる力だから、そこまで心配するほどではないわ。邪魔なものだとは思っていなくて、むしろ、ちょっとかっこいいと思っているの。それに、純粋な肉体強化よりも頑丈だから、たまに武器として使っているわ。もちろん、見つからないようにこっそりとね」
と、ユリアは笑う。そして、彼女は小さく息をつき、困ったように眉を下げる。
「ねえ……アイオーン。あなたは、私のことをよく心配してくれるけれど……あなたの場合は、私よりもひどいじゃない。力を開放するごとに爪や鱗、角が生えて──さらには牙や尾、羽根まで生えて……姿がすべて竜になってしまう体質でしょう」
少しでも力を使えば、体の一部が自然と竜に変化してしまう。アイオーンも極秘部隊の一員ではあるのだが、その体質のせいでほかの隊員との任務には同行しにくい。内に秘める力を開放するだけで身体が竜になるなど、さすがに現代人ではありえない現象だからだ。
このことから、アイオーンが任務に同行できる人は、ラウレンティウスやクレイグなどその事情を知る少数の人間しかいない。
「アイオーンの竜化は、この世では生きづらいものだわ。あなたには、竜化と不老不死という『心を苦しませるもの』がふたつもある。私はそのことを知っている──だから、私はあなたのそばにいたいと思うの。誰かが自分のことを知ってくれていると、心が少し軽くなるものだと思うから。……私は、あなたを支えたい」
「それは──。だが、俺は……いつか、お前の不老不死と竜化の体質をなくす。諦めるつもりはない」
「私だって、普通の人間に戻ることを諦めていないわ。だから、そんなにも思い詰めないで。それに、この身体になって良かったこともあるわ。そのひとつが、アイオーンに合う『器』を作ることができたことよ。こうして、あなたの顔を見ながらお喋りできたことは、私にとっては本当に嬉しかった──だから、この身体になってよかったと思っているわ」
「こうして顔を合わせながら話ができるようになった喜びは、俺も同じだが……」
「──あれから、いろいろとあったけれど……私は、ここに来ることができてよかったと思っているわ。私をここに導いてくれてありがとう」
その言葉を聞いた後、アイオーンは目を伏せたまましばらく黙り込む。そんなアイオーンに、ユリアはそっと寄り添ってやさしく抱きしめた。
「アイオーン。もっと肩の力を抜いてちょうだい。カサンドラ様から、どれだけ大きなものを背負っていても、心がある以上、息抜きすることは必要不可欠だからしっかり休みなさいって言われたじゃない。病気にはならない身体でも、『器』に異常が出てしまうかもしれないわよ?」
ユリアも諦めているわけではない。可能性も信じている。焦り続けていれば、いつか自分もユリアも疲弊してしまうだけ──何も見つけられないかもしれない。
やがて、アイオーンはゆっくりと息をつき、肩の力を落としながら笑みを浮かべた。
「──……そうだな。もしかしたら、病気にならない代わりに『器』の大きさが縮んでしまうかもしれない。これ以上、本来の身体のときと比べて小さくなってしまうのは悲しいからな」
そして、ささやかな冗談を口にする。いつものアイオーンに戻った。
「やっぱり、本来の身長のほうがよかった?」
研究者によると、アイオーンの『器』の大きさは一七八センチらしい。本来の身長は、今よりも十五センチほど高い長身だった。
本来の身長で『器』を作れなかった理由は、アイオーンの核があまりにも想定外な力を有していたためだ。アイオーンが力を発揮しても『器』が壊れないほどの強度を備えるためには、身長のことは妥協するしかなかった。くわえて、『器』を作るには資金や時間を多く使う。制作過程で失敗することもある。なので、わがままは言えない。
「まあな。あの身長でずっと生きていたから、正直、残念だという気持ちは少しある。だが、この身長になって良かったこともある」
「良かったこと?」
刹那、ユリアの顔の前に何かの影が現れ、額に当たった。
「いたっ──!?」
当たったのは、アイオーンの人差し指の先。デコピンされた。
「身長が低くなったおかげで、お前にイタズラしやすくなった」
「もうっ、アイオーン! ……テオみたいなことを言わないでちょうだい」
『テオ』。
その名の主は、もういない。ゆえに、この名を呼ぶ回数も、年に片手で数えるほどとなってきた。しかし、忘れるわけにはいかない。忘れたくない。──忘れられない。
「わかったわかった。俺が悪かった」
数年くらい前からだろうか。アイオーンは、たまにこんなことをしてくるようになった。
アシュリーやクレイグの影響だろうか。もともと昔から妙にノリの良さはあったのだが、それがさらに磨きがかかった気がする。
「もう──」
それでも、ユリアはアイオーンのそういった一面に難色を示すことはしない。イタズラは困るが、不思議と嫌ではない。家族だから。そんなことができるほどに気力が戻ってくれて嬉しい──。
すると、その時。ユリアの黒のスラックスのポケットからブーッブーッという振動音が何度も聞こえてきた。




