願い事
さやかの家のそばで舟は岸につき、お礼を言おうとすると船頭は無言で木の板を手渡してきた。
先ほど、青年が持っていたものと同じものではないだろうかとまじまじと見つめて顔を上げると、もう誰もいない。
船頭は舟ごと消えてしまっていた。
お礼を伝えられなかったことにもやもやしたものを感じながら家に戻ると、不思議なことにさやかが社についてからさほど時間がたっていなかった。
母親は心配していた様子もなく、出かけていたのかと聞いてくる。
それにただうなずいて、さやかはこたつに入ると、母が「あら」とさやかの髪に手をやった。
「椿。雪が降ってきたの?」
「うん」
「明日の初詣はきっと積もるわね」
「もう積もってたよ」
「そう。あのね、さやか。前にも話したけど、神社での願い事はよく考えてからしてちょうだいね」
「うん」
「変なことはお願いしちゃダメよ。神様が困っちゃうから。本当に叶ってほしいこと、叶っても困らないことにするの」
「叶っても困らないって、たとえば?」
「そうね、たとえば、毎日のご飯がケーキになりますように、なんてお願いして叶ったら大変でしょう? きっと太っちゃうわ。それにお肉もカレーももう食べられないかもしれない」
さやかは少し考えて、それは絶対に嫌だと思い、力強くうなずく。
「うん、それはすごく嫌」
「でしょう? だから、叶ってもいいお願いをするの。特にさやかは土地神様への最初のお願いだから、神様も気合いを入れて叶えようとしてくれるかもしれないでしょう?」
こくこく、とさやかが勢いよく何度もうなずくと、さやかの母は満足そうに笑顔になった。
「だから明日は、神様が困らないような願い事をしてね」
「うん」
さやかは深く考えずに母の言うことに笑って答えたのだった。
そして夜が明けて元旦。
家族で土地神様の神社へ出かけたさやかは、昨日、母と話したことなどすっかり忘れていた。
出がけには父からも同じことを言われたが、今は屋台の雰囲気に呑まれてすっかりお祭り気分である。
街は暖冬でようやく降った正月の雪に楽しげであった。
晴れた空の下、積もった雪であちこちに雪だるまやかまくらが作られている。
さやかの昨日の椿も、父が朝、門に飾ってくれた小さな雪だるまの胸元を飾っていた。
参道の屋台にはたこ焼きにリンゴ飴に甘酒、大判焼き。
そのそばには雪だるまと雪兎と、うきうきすることばかりだ。
家族で並んで賽銭箱の前までやってきて、そこでようやくさやかは願い事について考えた。
家族がみんな健康でありますように。
そう祈るつもりで、父親が鈴をしゃんしゃん、と鳴らした瞬間。
脳裏に浮かんだのは椿の花だった。
冷たい雪の降る中、海へと向かう椿の花の群れ。
さやかは手を合わせると、目を閉じて祈った。
椿の精の恋人が帰ってきますように。
2人が幸せになりますように。
海の精も、温かく過ごせますように。
それは世を知らぬ子どもの甘い祈りだった。
だが、青柳の家には稀に土地神と深く繋がる子どもが生まれる。
その子どもが生涯で最初に土地神に願うことは叶いやすいと言われていた。
さやかが生まれてすぐに街を出されることになったのはそのためだった。
もちろん、父親の仕事が移動の多いものだったからということもある。
だがそれだけなら、出張という形をとってもいいし、一度も里帰りをしないということもなくてよかったのだ。
さやかは強く願うこともなく、必至に祈るわけでもなく、ただ淡々と手を合わせた。
叶うか叶わないかではなく、ただ心が望むままに。
そして土地神はそれを叶えた。