潜入
鏡向世界「潜入」
揺らぐ、揺らがぐ、
一瞬の揺らぎ。
私の身体が、1センチだけ左右にぶれる。
その瞬間一時だけ、鏡向世界の入り口が開く。
この日のこの時間、この条件のこの場所だけに、それは起きる。
「そのチャンスを逃すな、」
私はリュックを背負い、勢いよく飛び込んだ。
シュルッ、
シュルッ、
生めく感触、絡みつく鉛の中、押し潰されるような重みを感じ、流れ漂う。
濁色の川。
一つの光が見えた、
「四角い穴に飛び込む、」
シュルン、
そこは、
すべてが逆になった世界。
私たちの世界とうり二つだが、逆の世界。
右が左で左が右。
私は恐る恐る、その世界へと足を踏み入れた。
カタッ、
辺りは逆だが、見渡す限り元いた廃屋と変わりない。
シューー
すぐさま、青色スプレーで目印を着ける。
この古びた廃屋の、この鏡が境界だ。この場所でしか、元の世界へ戻ることは出来ない。
時計を確認する。
午前04時44分44秒。
予定通りだ。
この数字こそ、鏡向世界と元の世界との境界のカギ。
私は誰にも見られずに、そこから離れた。
振り返る。
青色インクが滴る。
もう境界は消えていた…
まだ、朝早い。
人も歩いていない。
途中、街を観察する。
信号、標識、私たちの居た世界と同じだが、店の看板も、ポスターの文字もすべてが逆だった。
車が走って行く。当然、車の進行も逆方向だ。
やはりここは、鏡向世界なんだ。すべての物が逆の世界。
物理学上不明。理論上不明、存在自体が不可能。常識が通用しない解明できない世界、否定され続けた。
が、あるきっかけで判明。
鏡ベクトル計算式、
私は、存在するに値すると判断。
研究の結果、時空間は四つの世界で進行しており、エネルギー均衡保存の法則で、その表裏の世界も同等に存在すると理解。
それは、同じ場所にあり同じ時間軸で、同じ物体として存在している。
それらが、自然界にある特異磁場の歪み(磁場変)により、互換する物質が一定の条件で出入力できることを発見した。
学会で異端者と罵られた私だが、やっと結果を出せる時が来た。止められた研究予算も回復するだろう。
しかし実証がない、
計算式だけでは不可。あくまでも実証が欲しい。相乗する世界の証拠を、
境界界隈にある数ミクロンの粒子だけでは、物的な証拠にはならない。
意を決して、私は実験することにした。
そして今日、
この世界へ訪れることを決心し、
実行した…
まず、我が家を確認する。
街道を離れ坂道を上がり、住宅街を進む。
あった、
紛れもなく我が家だ。
赤い瓦状の屋根、小さな庭、造りは左右逆だが駐車場も同じ。
玄関へと向かう。
やはり、表札も逆だ。取手も逆でドアが逆に付いている。気をつけないと、つい、ぶつかってしまう。
ガチャ、
私は、慣れない手つきでドアを開けた。
「あら、お出かけしてたの?」
玄関には、妻が立っていた。
「あ…ああ、ちょっと散歩していたんだ」
私は溢れ出る汗を抑え、返事をした。
ジッと見つめる妻、
いつもと変わりない妻だ。髪を一つに束ね、紫のエプロンをしている。
私の咄嗟のウソは、見破られなかっただろうか?心臓の鼓動が早い。
「その手に持っているリュックは何?」
妻が、私の荷物に疑問を感じた。
「いや、ちょっと調べたい事があって小物を持って行っただけだよ」
「そう」
妻は、気にもせず台所へと戻った。
危ない。私が他の世界から来たなど、口が裂けても言えない。
私は胸を撫で下ろし、リビングへと向かった。
逆だがいつものリビングだ、落ち着く。
「今日は、早いね」
私は、妻へ声をかけた。
「いつも、この時間よ」
ぎこちない会話に緊張が走る。異変に気づかれたら大変だ、しばらく黙っていよう。
リビングから妻を観察する。
器用に左手で包丁を使い、朝食の用意をしている。几帳面でキレイ好き、部屋のホコリなど一つもない。整頓されたキッチン。
いつもの妻だ、
首すじを見る。
やはりホクロが違った。妻の右首下には小さなホクロがあるが、ここでは左下にある。
彼女は、私の妻ではないんだ。この鏡向世界の妻なんだ、私は思った。
新聞を見る。
文字が逆だ、読みづらい。
ジューッ、
フライドエッグを焼いてる音がした。
いつものように妻は、フライドエッグを作っている。そして、ミルクも用意されていた。
パンを一口、千切って食べてみる。
ゴク、
何でもない、大丈夫だ。
この世界は、私の世界と分子構造も逆なので、タンパク質や炭水化物の構成も逆である。
少々不安だったが、今のところ身体に異常は無い。あとは消化酵素の対応だけが心配だ。
対応できない場合のために、リュックには下剤、携帯食料を用意してある。
「あら、あなた。右手で食べてるんですか?」
突然、妻が尋ねた。
しまった。つい、いつもの癖で右手で食べていた。
「す、すまん、寝ぼけているのかな」
私は、さりげなく手を代えた。
危ない、何度も練習したはずだが気を許すとつい、右手が出てしまう。
常に最善の注意が必要だ。
「そのリュック、いつ買ったんですか?」
妻は、再び私が元の世界から持って来たリュックを気にした。
「ああ、それは駅前のカバン屋で買ったんだ」
大きなマークは削除したはずだが、まだ残っていた部分が一つあった。私はさりげなく手で隠す。
鏡向世界に持ち込む物は念入りに確認したはずだが、ミスをしていた。
疑いの目の妻。
「ごちそうさま」
私はリュックを持ち、急いで自分の部屋へと向かった。
ガリッ、
ナイフで、リュックのロゴを削り取る。
これで全部だな、ぐるりと確認する。
そして中を開ける。
下剤、簡易食料、腕時計、タイマー、スプレー、ナイフ、携帯電話、USBメモリー。持って来た物はすべて揃っていた。
腕時計はまずい、文字盤が逆ではない。絶対見られてはいけない品物だ。しかし必要。この世界にいられる時間は限られている。守らなくてはならないタイムリミットもある。これを破ると元の世界に戻れなくなってしまう。
セットしたタイマーを確認する。
あと、62時間。大丈夫だ、きちんと作動している。
私は部屋で少し仮眠をとり、外へ出かけた。
リュックを持つ。
いつでも帰れる準備と、妻が調べるのを防ぐためだ。
道を進む。
普段の街だ、逆の看板もだいぶ見慣れてきた。
いつも買うコンビニもやっていた。
スーパー、居酒屋、ドラッグストア、ロゴは逆だが売っている商品はまったく同じだ。
細かく観察してみるが、ただ逆なだけで新たな発見はない。
「物証を手に入れなくては、」
私は、焦って探す。
この身体を張った実験の結果を、学会へ発表するんだ。今まで、散々愚弄した奴らの鼻をあかすんだ。
「物証が欲しい、物証が欲しい、」
私は、街を放浪した…
公園でしばし休む。
携帯電話を見てみる。
電波は来ていた。ブラウザも動いている。YouTubeも観られる。
公園では、子供たちが遊んでいた。
その光景を眺めながら、簡易食料を食べる。一応、用心のためだ。
私の世界の子供たちと変わらない、楽しそうに遊んでいる子供たち。
あの子供たちも、DNAが逆に螺旋しているのだろう。研究者として髪の毛一本でも欲しいものだ。
目の前に女児が来た。
辺りを見回す。
「君、髪の毛を一本だけくれないか?」
私は、ダメもとで頼んでみた。
ジッと見つめる女児。
ブチ、
女児は数本の髪の毛を引き千切り、私に差し出した。
「はい」
私は、すぐさま髪の毛を袋に入れ、リュックに閉まった。
「やった、貴重なサンプルを手に入れたぞ」
笑みが溢れる。
子供の母親たちが見ている。
慌てて公園を去る…
私はそのまま、徒歩で大学の研究室へと向かった。難なく大学内へ入れる。
研究室、
見慣れた部屋、見慣れた実験用具。
この世界の私も、同じ研究をしていたんだろう。
開いていたノートをめくる。
びっしりと研究データが書いてあった。
改めて見ると、私の研究は難解だ。多分、他の人には理解できないだろう。
もっと解りやすく、万人に理解できる記述にするべきだ。客観的に見ると、新たな発見ができる。
しばらく観察する。
コンコン、
ドアをノックする音がした。
「どうぞ、」
私は、返事をした。
「おはようございます」
助手の山村君だ。三年前から私の手伝いをしてくれる。真面目で勤勉な学生だ。
「どうしたんですか、教授。今日は、お休みのはずですが?」
そうだった。木曜日は学会の発表や講習で必ず休みにしていたのだ。
この世界でも同じなんだ。
「ああ、どうしても調べたいことがあってな」
視線を合わせない。
「教授にしては、珍しいですね」
彼は、静かに書類を置いた。
「そう言えば、あの実験は行ったんですか?」
なに?
そうか、この世界の私は、実験のことを彼に告げていたんだ。
「ま、まだ計算が合わなくてな、延期したよ」
「そうですか」
彼は疑いもなく部屋を後にした。
助かった、
この世界の私も、鏡向世界の実験をしていたんだ。そして、実行も今日だったんだ。
というと、
もう一人の私は、私の世界へ訪れたのだろうか?
私の世界で同じように、ここへ訪れているのだろうか?
いや、余計なことを考えるのはよそう。今はこの世界の観察をすることが重要だ。必要のない事は考えるのをやめよう。
カチッ、
パソコンを起動する。
いくつかファイルを開ける。逆の文字を読むのも慣れてきた。
よし、持って来たUSBにデータをコピーだ。
差し込む。
大丈夫だ、不可なくコピーできる。
時間が長く感じる。
私のデータだが、鏡向世界に気づいた私が、何か別の発見をしているかもしれない。
実は、この研究の前、私は数回だけ鏡向世界の私とコンタクトをした。ほんの数秒、ほんの数回だけ。同じ研究をしている私と存在を確認したのだ。
しかし、最後の交信の時だった。彼は意味不明な言葉を残して途切れた。
「…気づいている」
これは、どんな意味があるのだろうか?
それ以来、彼との交信は不通になり、私は、この世界へとやって来た…
時計を見る。
「あと48時間か、」
サンプルも採り、目的のデータもコピーした。予定は順調だ。余裕が出てきた。
「少し楽しむことにしよう」
私は自宅に戻り、テレビの視聴、読書、妻とのたわいない会話も楽しんだ。
こちらの私のカードを使い、ショッピングもした。
「今日のあなた、いつもと違うわね」
妻は、たまにドキッとする言葉を言うが、もう気にしない。あと少しの余暇を楽しもう。
何故か、元の世界より居心地がいい…
あと、残り6時間。
もうそろそろ、帰郷の準備だ。私は身支度をするために鏡の前に立った。
「あっ、」
いつの間にか、鏡に映った私の顔が逆でなくなっている。
どうしたんだ、
しまった、副作用が出たんだ。
例外として想定していた自体。この世界にいた時間が長ければ長いほど、私の身体や持ち込んだ荷物が鏡向世界に感化され、この世界の物質へと変化してしまう。
腕時計を見る、
腕時計も、今や文字盤も逆で秒針も逆に動いてた。
タイマーは?
タイマーも文字は逆だが、デジタル表示なので時間は合っていた。
このタイマーだけが、頼みの綱だ。
元の世界へ戻れる、たった一つの境界へ。そのチャンスを逃してはいけない。
私は慌てて荷物をまとめ、玄関に行く。
「うっ、」
自宅の前には、数人の男たちが待ち構えていた。怪しい黒尽くめの男もいる。
「誰なんだ、私を捕まえる気なのか?」
タイマーを見る。刻々と時間が迫って来る。どうしたらいいんだ。
「あなた、こっちへ来て」
突然、妻が手を引っ張った。
妻は、隣りの塀に梯子を掛けていたのだ。
「ここを越えて、路地へ進むと逃げられるわ」
妻が逃げ道を案内してくれた。
「何故、」
「早く、」
「帰るんでしょう」
なに?
「あなたは、元の世界へ帰るんでしょう」
妻は最初から、私が違う世界から来た住人だと知っていたのだ。
「あなたの世界は、もうすぐ征服されるの。ここは鏡向世界じゃないのよ、そこから別れたもう一つの別の世界なのよ」
「何だって?」
私は、妻の腕を掴んだ。
「この世界は、鏡に見える所だけが作られた世界、虚像世界なの」
「ハリボテで作られ、あなたの世界の真似をして、同じような生活のフリをする。あなたたちは騙されているの」
「そんな、」
「この世界のあなたは、政府から鏡向世界の調査を頼まれて、あなたの世界を征服するための準備をしていたの」
「別の世界からやって来たあなたを捕まえるために」
「この世界の私は、どうなったんだ?」
「…連れて行かれたわ」
「政府に逆らって、あなたに伝えたために…」
ダッタッタッ、
「こっちにいるぞ、」
男たちに気づかれた。
「早く行って、そして境界を閉じて!」
妻は私を押した。
バンバンバン、
拳銃の音が鳴り響く。
後ろを振り返る。
そこには、血まみれの妻が倒れていた。
「すまん、妙子」
私は、涙を拭きながら走り続けた…
「……気づいている」
この世界の私が言ったことは、この事だったんだ。
境界を見つけ、そして、そこから乗り込んで来て征服する。彼らは、ずっと私たちの世界へ行く機会を伺っていたんだ。私たちの見えない所で、ずっと私たちを狙っていた。
逃げるんだ、
早く、この場所から逃げるんだ。
私は、走り続けた。
バン、
慌てて走っていたので、建物にぶつかってしまった。
バッターン、
壁が倒れる。
そこには、
荒廃した廃墟が続く、瓦礫の街があった。
「鏡に見える所だけが作られた世界、虚像世界なのか…」
妻が言った通りだ。
鏡に見える所だけが、私たちの街と同じように作られている。
真新しい建物はすべてハリボテ。建物の裏は廃墟。彼らは、ひたすらにその姿を隠し、鏡の向こうの私たちを騙していた。
私は、とんでもない事実を知ってしまった。
「早く帰って、この事実を皆んなに教えなくては、」
私は身を隠しながら、境界の場所へと急いだ。
街道を越え、
あと少し、もう少しであの場所へ到着する。
ガサッ、
その時、私のリュックが裂け、中からタイマーやパソコンが落ちてきた。
さっき壁にぶつかったり時に裂けててしまったんだ。
急いで拾い集める。
ササッ、
急に、通行人たちが電話をかけ始める。
まずい、
慌ててその場を離れる…
ハアハアハア、
廃屋には、山村君が立っていた。男たちと一緒にいる。
やはり、山村君も知っていて当局に連絡していたんだろう。私の行動を監視し、境界を見つけるために、
見つかったら、境界の門の鍵を見つけられたら、大変なことになってしまう。
しかし、タイムリミットが狭まる。
どうしたらいいんだ、
ガサッ、
私は廃屋の裏に回り、裏口から中に入る。
鏡に青色のマーキングか見える。
「ここだ、この鏡だ」
幸い山村君たちは、ダミーで着けた別のマーキングを監視している。
急げ、
午前04時43分13秒、
「ああっ、」
その鏡の向こうには、
私がいた。
鏡向世界の私がいた。
「生きていたんですか?」
「ああ、私は殺される寸前に、君の世界へ向かったんだ。君と同じように君の世界を調べたんだ」
彼は、私の顔を見た。
「君は、たくさんの荷物を持ち込んだ分、副作用が早くなったんだね」
「そうですか、」
「この境界は、封鎖しよう。二つの世界が戦争になってしまったら大変だ。私の世界は君が思っていたより荒んでいる。私がそちらに戻り、君がこっちへ戻る」
「あなたは、どうなるのですか?」
「時間だ、急げ、」
「質量ベクトルに気をつけろ!」
私は、廃屋の鏡にゆっくりと手を入れた。
彼も鏡に手を入れる。
私たちは、交差するように吸い込まれる。
沈むように吸い込まれる二人。
この日のこの時間、この条件のこの場所だけ、それは起きる….
シュルッ、
シュルッ、
生めく感触、絡みつく鉛の中、押し潰されるような重みを感じ、流れ漂う。
濁色の川たち。
一つの光が見えた、
「四角い穴に飛び込む、」
私は、光に包まれた。
バン、
私は、元の世界へ戻った。
バリン、
粉々に砕け散る鏡。
私は、彼との約束通り境界の鏡を割った。
これで鏡向世界の住人は、こちらの世界へ来ることは出来ない。
恐怖は、去った…
自宅へ帰る。
「おかえりなさい」
妻が出迎えてくれた。
私は、ホッとする。
いつもと変わりない妻だ。髪を一つに束ね、紫のエプロンをしている。
私はリュックを持ち、自分の部屋へと向かった。
腕時計は、まだ虚像世界のままだった。
この時計も、少し経つと元に戻るだろう。私の左手での食事ももうすぐ忘れる。
私は、どっと疲れを覚え、ベッドに倒れ込んだ。
そのまま眠る…
「おはようございます、あなた」
私は、妻の声に起こされた。
「おはよう、」
眠い眼を擦り、リビングへと向かう。
そこには、
右上にホクロがある妻が立っていた…