マッチ売りの少女
僕の意識は、マッチ売りの少女の世界に居た。
この童話は、マッチ売りの少女の悲しい話だ。
昔、年末の雪降る寒い夜の街を、薄着に裸足で歩いているひとりの少女が居ました。
小さな手提げ籠には、売り物のマッチ箱が入っています。
このマッチが売れないと、少女は酒飲みの乱暴な父に頬を打たれるのです。
少女はとてもお腹が空いていました。
昨日から、何も食べさせて貰えないのです。
通りに有るお家の窓から、暖かそうな明かりが漏れていました。
その家の中を覗くと、赤々と燃えるストーブが置いて有り、部屋の中央のテーブルの上には、ガチョウの丸焼きが大きなお皿の上に乗っていました。
部屋の奥には、奇麗に飾ったクリスマスツリーも見えていました。
少女が何気なく夜空を見上げた時、ひとつの星が流れて消えるのを見ました。
「きっと誰かが、もう直ぐ死ぬんだわ。
死んだお婆さんが、そう云っていたもの」
少女は瞼が急に重く成り、そのまま眠ってしまいました。
僕は元の中学生の姿で、街の中に立って居た。
〈このような展開の変身は初めてだ〉
街は新しい年を迎えて、賑わっているように見える。
舗装道を歩いている人たちの顔にも、明るい笑顔が見えている。
通りの向こうに一人の老人が、杖を突きながら少しフラフラと歩いていた。
お酒でも少し飲んだのか、浮かれているようにも見える。
その老人の目の前に、ひとりの少女の亡霊が突如現れた。
「マッチはいかが?
マッチは要りませんか?
貴方、マッチを買いなさい!」
少女の亡霊は、強引にマッチを老人に売りつけて来る。
「儂にはマッチは要らん」
「何でマッチが要らないのよ」
「もう既に持っているからの」
「本当に? 見せてみなさいよ」
老人がズボンのポケットから、マッチ箱を取り出して見せると、少女の亡霊がそのマッチ箱を睨みつける。
すると老人が持つマッチ箱が、勝手に燃え上がった。
「あちち」
老人はその熱さのあまり、燃えるマッチ箱を地面へと落してしまった。
しばらくしてマッチ箱が、全て燃え尽きてしまう。
「これで貴方は、マッチを持っていないわね。
だったら私からマッチをひとつ買いなさい。
マッチひと箱、金貨1枚よ」
「そんな無茶苦茶な、凄く高いじゃないか」
「当然でしょう、私が売るマッチは特別製なんだから」
「いや、儂は普通のマッチの方で良い」
「普通のマッチなんて、私が持ってる訳がないじゃない」
「じゃあ、マッチは要らん」
「なんですって!」
亡霊少女が自分の手提げ籠からマッチ箱を取り出して、1本のマッチに火を点けました。
すると老人のカラダが、突然地獄のような業火に包まれてしまった。
「ぎゃー、儂のカラダが燃えてしまう。
熱い、死んでしまう」
亡霊少女のマッチが燃え尽きると、老人を包んでいた炎も途端に消えてしまった。
老人は自分のカラダがどこも燃えておらず、火傷も全然見当たらないので、不思議そうにしている。
どうやら亡霊少女が出した炎は、マッチが燃えている間だけの幻影のようだ。
「儂は今日、お金を持って来ておらん」
老人は杖を突きながら、ヒョコヒョコと亡霊少女から逃げ出していた。
「だったら、今日は許して上げるから、明日は金貨1枚持って来なさいよ」
亡霊少女は次のターゲットを求めて、周りを見回した。
老人を離れた場所で見ていた街の人たちが、一斉に逃げ出した。
子供連れの親子は足が遅いので、本来なら直ぐに捕まってしまうはずだが、亡霊少女のターゲットではないようだった。
僕も当然逃げ出していた。
例え幻影でも、燃えている間の炎は熱いからだ。
亡霊少女の死角に成る建物の陰へと走り込んで、音を立てずに身を潜めていたのだが、亡霊少女は高度を上げて行き、建物の上方から街を眺め下して来た。
僕はまた直ぐに走って逃げ出した。
今度は亡霊少女の後へ回り込むつもりだ。
後ろを振り返ると、デブッった足の短い男が捕まっているのが見えた。
「そこのデブ、止まりなさい。
でないと炎で貴方を焼き尽くすわよ。
豚の丸焼きに成っても良いの?」
デブ男が悲しそうな顔をして立ち止まった。
「もう分かっているわよね。
マッチ1箱、金貨1枚よ。
貴方は要らない、なんて言わないわよね」
「実は俺もお金を持って来ていないんだよ」
「じゃあ、そこでジャンプしなさいよ。
何してるのよ、早く跳びなさい」
デブ男が情けない顔でジャンプすると、硬貨同士がぶつかる音がした。
亡霊少女がまた1本のマッチに火を点け、デブ男のカラダが、大きな炎に包まれる。
「ぎゃー、熱い、死ぬー」
亡霊少女のマッチが燃え尽きると、デブ男を包む炎も消えた。
「私を騙そうとしたからよ」
「違う、このお金は子供にパンを買ってやる為の物なんだ。
だから本当に金貨1枚もないんだ。
俺を信じて呉れ」
デブ男は亡霊少女に懇願して、許しを貰っていた。
「じゃあ、貴方も今日は許して上げるから、明日は必ず金貨1枚持って来なさいよ」
デブ男はペコペコしながら逃げ出して行った。
次に亡霊少女が周りを見回した時には、街に人の姿はひとりも見られなかった。
「皆、なんでこんなに逃げ足が速いのかしら」
そこに、ひとりの男が通りを走ってこちらへとやって来た。
全身を黒い服に包み、手には十字架を持っている。
「悪霊退散、今直ぐにこの街から立ち去れ!」
除霊師らしき男が手の十字架を、亡霊少女に向ける。
「何言ってるの、私は悪霊じゃないわよ。
この街で、いつもマッチを売っているだけの可愛い女の子よ。
貴方、私の事知らないの? まあ、いいわ。
それよりマッチを買いなさい。金貨1枚よ」
「悪霊消滅、悪霊退散、今直ぐ立ち去るのだ!」
亡霊少女がマッチに火を点けると、除霊師男のカラダが、大きな炎に包まれた。
「どうせこの炎は直ぐに消えてしまう。
少しだけ熱いのを、我慢すれば良いだけだ」
亡霊少女はマッチが燃え尽きる前に、新しいマッチ棒を次々に繋げて、火が消えないようにしていた。
「ぎゃー、熱い、熱い、もう許して」
亡霊少女がマッチを繋ぎ続けるので、炎が燃え尽きる事は有りません。
「金貨1枚払いますから、もう許してください」
除霊師男は亡霊少女に降参します。
「じゃあ、はいマッチ」
亡霊少女がマッチを出すと、除霊師男は十字架を代わりに差し出しました。
「何よこれ、金貨じゃないわよ」
「ワタシは文無しなので、これで勘弁してください。
この十字架は、たぶん金貨1枚はしますよ」
「十字架なんて要らないわよ。
貴方も明日は、必ず金貨1枚持って来なさいよ」
僕は亡霊少女の後ろの死角に上手く隠れていたつもりだが、どうやら見つかっていたようだ。
「アナタ、この国の人間じゃないようだけど、マッチは要る?」
「僕は無理矢理ここへ連れられて来たので、金貨を1枚も持っていません」
そう云って、自主的にジャンプしたが、やはり何も音はしなかった。
「じゃあ、私がこのマッチをひとつ無料でアナタに上げるわ」
「ありがとうございます」
ナゼか僕は亡霊少女に同情されて、マッチ箱をひとつ貰った。
次の日、街に亡霊少女が現れても、杖の老人も、デブ男も、除霊師男の姿も、誰ひとり現れなかった。
「私はこのマッチが売れないと、あの碌でなしの父に頬を打たれるのよ!
『酒が買えない』って、あのバカがいつも暴れるのよ。
街の誰も私からマッチを買って呉れないなんて、そんなのあんまりだと思わないの!」
+ - × ÷ = ¥
僕はマッチ売りの少女が亡くなるのは覚えていたのだが、この童話の最後の展開をすっかりと忘れていた。
それを僕は急に思い出していた。
ゆっくりと、マッチ売りの少女の下へと近づいて行く。
「気づいていないようだけど、君はもう既に亡くなっているんだよ。
僕が知る童話では、君は天国でお婆さんと一緒に暮らしているはずなんだ」
「えっ、そうだったの?
どうすれば私、お婆さんに会えるのかしら?」
「確か童話では、持っている全てのマッチを燃やしていたはずなんだけどね」
少女は手提げ籠を地面へと置くと、籠からひとつだけマッチ箱を取り出し、1本のマッチ棒に火を点し、それを手提げ籠の中へと投げ入れた。
1本のマッチの火はやがて籠の中のマッチ箱へと燃え広がり、その大きく燃え上がった炎の中に、少女のお婆さんの姿が浮かび上がった。
「お婆さん、私をお婆さんの所へ一緒に連れて行って」
「そんなの嫌だよ、ワタシゃ今が一番楽しんだよ。
お前が一緒に来れば、ワタシゃ楽しめなく成るじゃないか」
「酷い! お婆さんのせいで、私がこんなにも不幸に成ったのよ。
ちゃんと責任を取りなさいよ」
「何を言ってるの、ワタシにゃ関係ないじゃないか」
「関係ないですって? お婆さんが育てたあのバカ息子のせいで私が不幸に成っているのに、それを関係ないですって?」
「ワタシのせいじゃないよ、あの愚か者が勝手にああなったんだよ」
二人は喧嘩をしながら、天へと昇って行った。
確かに、このお話は悲劇のようだが、それでも最後はよく分からない成りに、何とか納まったようには見えた。
これでマッチ売りの少女が、天で幸せに暮らせる事を僕は祈ろう。